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極楽のぶ

~全盲に甘んじ安寧を生きる

ザ・ブーム「島唄」に聴く沖縄と私たちの間

2013年11月01日 | シングルショット
NHK、SONGSでひさびさ、ブームの島唄を聴いた。なつかしい。なんともう20年前なのだそうだ。20年と言えば、生まれた子が成人してしまう。ちょうど、姪っ子がそうだから、島唄もそれだけ歳月に洗われたんだねえ。

ふと、そういえば、沖縄楽曲は、特殊な旋律だったことを思い出し、島唄はそこのところどうなっているんだろうと思った。そういえば、島唄を巡っては、作者ボーカルの宮沢さんと沖縄のひとたちのあいだにも当初、何か、ひともんちゃくあったようなことも当時聞いた。

昨今、当時では考えられなかったネット社会、ものを調べるのも簡単になった。よしあしはあるが、楽して調べられる、気になって、サーチエンジン使ってみた。視覚障碍者用の便利なやつがあるのです。

そしたらけっこう深刻な話に出くわしてしまった。やはり、沖縄を軽く考えてはいけない、今年は東北のこともそうだけど、よく沖縄のことも考えさせられることが多かった。

たとえば、力こめて書いた「ジョン万次郎」シリーズでも、当時の琉球王国は、ペリー来航、万次郎の帰国、明治維新後の日本へ併合と、琉球王国を洗った近現代の荒波を描いたっけ。

次には、「還暦で迎える8月15日」その(2)に描いた『最後の沖縄県知事、島田叡(あきら)』。日本の敗戦で、なぎ倒されたのは広島・長崎の原爆、東京他の各地主要都市の大空襲、サイパン、ガダルカナル、ソロモン、インパール、ルソン、硫黄島、挙げればきりがないが、沖縄の悲惨はとりわけ民族の歴史を二重三重に塗り上げた悲劇としてわするるべからざる記録である。

さらに、山崎豊子さんが亡くなったことをしのんで、骨太の山崎作品に触れたとき、とりわけ、最近ドラマにもなった「運命の人」。ドラマでは描ききらなかった沖縄戦の語り部による記述部分が、原作ではじっくりと描かれる。沖縄の本土復帰は昭和47年。僕はすでに大学2年だったが、当時はぼぉっとしていたのか、沖縄返還の感動が記憶にない。アポロの月面着陸や、ベルリンの壁崩壊のような強烈な印象が残っていない。これは日本人、ヤマトンチュウのサガなのか。青春まっさかり、世の中への問題意識はあったつもりでも、優先度を誤っていたと思う。沖縄への惻隠の情というものが育っていなかった。というか無知だった。

「運命の人」原作は、沖縄返還に伴う政府の汚れたトリックを暴くには、日米激突の中、さんざんに犠牲となった20万ともいえる命の最期を描かずして成しえない、という山崎さんの覚悟が伝わってくる作品。たしかに戦後史は山崎作品を教科書にしたらいい。

さて、やっと本題ですが、沖縄民謡、やはり、レとラがない、ドミファソシド(ハ長調の場合ですが)このまま演奏するともうそこは沖縄の風が吹いてくる。このこと、島唄がはやった頃は、しらなかった(カラオケで歌ったけどね)。いつ聞いたのか覚えていないが、比較的最近知ったので、読者のみなさんにはそりゃ常識だよとおっしゃる方もいるでしょう。私の不明をお笑いになりながらお付き合いください。


 で、島唄をギターで確かめてみる。あれ? 始まりはいかにも沖縄風だが、レは最初から使われているなぁ、完全な沖縄旋律じゃないけれど、執拗にラは避けられていて、そこがいかにも沖縄っぽい風を感じさせるゆえんです。

ところが、「ウージの森で~」、から堂々とラが入ってくる。ただ、最後の節の「島唄よ風に乗り~」からは、もとの沖縄風味に戻る。

音楽嫌いなひとはつまらないかもしれませんが、最後に重要な話が出てくるので、ちょっとお付き合いください。というか、とっくに知ってる人には申し訳ないです。

詳細を述べると、ですね。

作詞・作曲 ザ・ブーム 宮沢和史
(沖縄風味の旋律)
デイゴの花が咲き 風を呼び 嵐が来た。
デイゴが咲き乱れ 風を呼び 嵐が来た
繰り返す悲しみは 島渡る 波のよう

(ラの入る通常旋律)
ウージの森で あなたと出会い
ウージの森で 千代にさよなら

(沖縄風味旋律に戻る)
島唄よ 風に乗り 鳥とともに、海を渡れ
島唄よ 風に乗り 届けておくれ私の涙

2番
(沖縄風味旋律)
デイゴの花も散り さざ波がゆれるだけ
ささやかなしあわせは うたかたの 波の花

(ラの入る通常旋律)
ウージの森で 歌った友よ
ウージの森で 八千代の別れ

(沖縄風味旋律に戻る)
島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
島唄よ、風に乗り 届けておくれ 私の愛を

海よ 宇宙よ 神よ いのちよ
(ラが入る)
このまま 永久(とわ)に 夕凪((なぎ)を

(沖縄風味旋律に戻る)
島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の涙
島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の愛を

以上です。
分析ですが、あえて沖縄旋律で歌っていないところは、「ウージの森」で起きたことに限られています。宮沢さんが実際に新聞のコラムでこのことを書いているそうだから、偶然ではなく、確信的に錬られて作曲されたものなのだ。

ウージとは、サトウキビのこと、ウージの森とはサトウキビ畑、森山良子の歌でも有名なように、「ざわわ、ざわわ」で聴けるあの鉄の雨が降った沖縄戦の風景と重なるのだ。

このウージの森には、沖縄本島南部でガマと呼ばれた防空壕がたくさんあった。ウージの森で起きたことは、島民たちの玉砕であり、米軍が振り下ろすシャワーのような弾丸と、日本軍による銃殺、軍人の自決、島民たちの集団自殺、強制的な自殺も、親族同士の「虜囚の辱めを受けず」の刺し違え、子殺し、また飢餓や病死、あらゆる悲劇的な死があった場所である。

 そこに歌いこまれた「千代にさよなら」と「八千代の別れ」は、並べてみれば「君が代」の歌詞だ。「千代に八千代に」は文字通り読めば立憲君主国家大日本帝国の永劫の繁栄に使われていることば、島唄がうたう、さよなら、と、別れ、は、誰が誰に決別しているのかあいまいだが、どのようにもとれる。ただ、ここにあえて沖縄旋律を使わないところに、宮沢さんの気持ちが感じられる。やはり、沖縄のひとにとって、ヤマトンチュウへの思いは複雑に違いない。

ちなみに、デイゴとは、沖縄の県花で、地上を真っ赤に染める美しい花らしい。だが、その鮮やかな赤は、戦後しばらく沖縄人をして、大地を染めた鮮血の色を想起させたという。

私の母がよく言ったのだが、戦後、廃墟(とりわけ広島)となった各地に最初に咲いた花が、キョウチクトウだったから、自分はキョウチクトウは好きになれないと。戦争を知らない僕には、廃墟に咲く花なら、希望の花なんじゃないの?と思ったが、戦争で多くの大切なものを失ったひとにとって、何事もなかったかのように咲いた花に不快感をもったというのは、当時のひとでなければわからないこと、文学的な抒情趣味では歯がたたない。

デイゴも、そういう理由で戦後しばらく、沖縄の人から嫌われたという下りが、「運命の人」でも語られている。それでも今は県花なのだから、みんな乗り越えたんだなぁ。深い。

ついでながら、デイゴは、台風の来る季節に咲くので、風を呼び、嵐が来る、災いをつれてくる花とも言われるらしい、そうした汚名をものともせず県花としている彼らの胸中を、ヤマトンチュウは推し量らなくてはならない。

軍によって、意味のわからない沖縄弁を禁止され、使えばスパイとして殺される事件も起きた。それでも明治以降日本に統括された後は、本土以上に日本人たろうとしたひとびともいた、家を逃げるとき、家財を置き捨てて天皇陛下の御真影だけを抱いて逃げまどい、それが憲兵に見つかって不敬であるとして銃殺された農民もいたそうだ。差別され、犠牲にされ、それでも和人たろうとした、あるいはそれを強制されたのかもしれないが、沖縄のひとたちのこころは、簡単に理解しきれるものではない。

「ぬちどぅたから(命こそ宝)」島田叡(あきら)のときも、「運命の人」でもこのことばは聞いたが、島唄のなかに声にならずとも聞こえてくることばも、この言葉である。

宮沢さんは、ガマの中だったか、ひめゆりの塔のところだったか、どちらかの語り部さんから沖縄戦の悲惨な話を聞き、その話をしてくれた老女にお礼に思いを送ろうとして書いたのがこの「島唄」だったそうだ。真摯な気持ちで書いた歌だった。

が、この歌は、しばらくは沖縄のひとたちから拒否される(一部のひとのことだと思うけど、そういう反応もあったというところが大切だ)。

それは、真実はわからないが、あえて想像するならば、
宮沢さんがどんなに沖縄旋律に魅かれていて、よく研究していて、ちゃんと沖縄を訪れて肌で感じたことを歌にしたとしても、どんなに真摯な気持ちで歌い込んだにしても、ヤマトンチュウ(山梨県人)が安易に沖縄旋律を使ったこと、ウチナンチュウの気持ちを歌にしたこと、ウージの森のことを、限りなく直球に近い変化球で扱ったこと、ウチナンチュウとしての君が代国家への思いの複雑さ、ヤマトンチュウにそんなに簡単にわかってたまるかよ、という気持ちがあったんじゃないだろうか。

本来、琉球王国として栄えてきていながら、日本に組み込まれ、戦場となり、占領地となり、占領軍に支配され、27年ものあいだ米国の一部となり、念願の本土復帰は政治家の手に汚れ、復帰してみれば日本中の米軍単独施設の7割を、面積10%未満の島が一手に請け負うという不平等を背負えば、その思いは、いかばかりなものか。

ちなみに、この歌を巡っていろいろなブログがあるが、一様に感銘を受けたひとばかりではなく、ブログによっては、転載するのもおぞましいようなヘイトスピーチに通じるコメントも多々ある。これがネット社会の現実だ。差別やことばによる暴力、DVやいじめのような黒い狂喜に満ちたひとびとがどれほどたくさんネット社会にいることか、おぞましくて吐き気がしそうだ。

それでも、SONGSで、宮沢さんは、楽しげに沖縄を歩いていたようで、島内の民謡スクールではいまや「島唄」が堂々と教科書に載っているし、すっかり受け入れられている様子だった。歳月が島唄をすっかり沖縄のこころに溶け込ませた様子だ。それが無性にうれしかった。番組の狙いはそんなことではなかっただろうが、いろいろ調べたあとで思い出してみると、宮沢さんのこれまでの努力が実り、受け入れられた島唄なんだと、つくづく感動してしまった。

島唄の一節
「このまま永久(とわ)に夕凪(ゆうなぎ)を」(ヤマトンチュウ旋律である)をこころから祈りたい。

ただし、沖縄にまだ夕凪は来ていない。民主党政権が掲げたはずの沖縄の負担除去は、政権転覆で永遠に遠のいた。

山崎豊子「運命の人」は、沖縄の少女暴行事件に怒った県民が、何万人も集まり集会を秦氏、女子高校生が感動的な演説をふるうところ(現実と同期している)で終わっていくのだが、やはり、島唄は、20年たっても、色あせることなく、いよいよますます、歌い継ぐべき歌に成長したことがわかる。歌ってこんなに成長することもあるんだなぁと感銘を受ける。

さて、こうして、「ぬちどぅたから」は、皆のこころに重くのしかかる。
沖縄を考えるとき、全国における、ひととひとのこころのあり方が問われ、いじめやDVの問題さえも透けて見えてくる。ヤマトンチュウのこころの闇に、じつは沖縄がある。

参考までに
http://shinzou-times.blogspot.jp/2010/06/blog-post_8352.html?showComment=1371449343018#c1703450365745741543 
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