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沖縄の独立論とか

2023-12-29 23:17:34 | 日記
独立って言葉は親元から離れる程度の安っぽい意味にとらわれがちだが、
沖縄が独立といったら一国家として独立するということだ。
沖縄国になるのだ。
台湾と同じような位置づけになる。

普通に考えると沖縄の独立は中国の属国化とニアリーイコールだろうと思われるが、
もし本気で中立の国家としての独立を仮定している人間がいるとしたら、
途方も無いほど想像力が欠如しているとしか思えない。

憲法一つまともに守れないようなデニー知事が、
国家として官僚制度を築き上げられるとでも?
つかそもそも財源をどこから調達してくるんだ。
https://www.pref.okinawa.lg.jp/site/somu/zaisei/sainyu/documents/okinawaken_no_zaisei_2023.pdf
一般会計に限っても国からの交付等に6割を依存しているような県が。
親からの独立?
親のスネを齧るバカ息子ほど親の支配がどうこうとか能書き垂れる構図と全く同じだ。

だいたい時間もまともに守らないウチナータイムなんてのんびりした県民がどうやって自主独立を保てるんだよ。


だから沖縄に関連する独立論は十中八九中国属国論と考えて良いだろう。
まあ日本政府に対しても上述のように親のスネを齧って親に文句を言うドラ息子のような属国ではあるので、
どっちにしても属国ならなんくるないさーとなるだろう。
なので次の考えとしては、沖縄県民がどれだけ中国支配に親和的か、
また中国も沖縄を抱き込むためにどんな甘い誘惑政策を用意するかが問題となるだろう。

ただまあそんな露骨な話は有事がある程度具体化しなければまず出てこない話だから、
結論として台湾有事レベルの事態が起きないかぎり、
沖縄独立論というのは反抗期のガキレベルの甘えた思想という結論にしか至れないということだ。


難民が受け入れられないのは「不寛容のせい」という人道派

2023-12-29 01:05:16 | 日記
https://www.yomiuri.co.jp/choken/kijironko/ckworld/20231023-OYT8T50138/

「失われる寛容性」だと。
どれだけ傲慢な思想だろう。
スウェーデンなど欧州で最も移民に寛容な国だったが、
ではその寛容性がなぜ「失われた」のか、そこに反省の視点は微塵も見られない。
極右が、トランプが悪いのだと言わんがばかりだ。

移民に寛容な政策はことごとく失敗したのだ。
その失敗が原因だというのに、
その失敗が原因で結果的に台頭した極右のせいにして、
失敗を失敗とすら認めない人道派の想像を絶する傲慢と無限の理想への帰依がそこに垣間見える。

移民を受け入れるのは人道的な義務だというわけだが、
人道的な義務という使命と大義だけでは受け入れに限界があり、
その限界を認知しなかった人道派の致命的な失敗と敗北がそこにあるのだが、
その致命的な失敗と敗北を認めない人道派の反省の無さが絶望的に致命的なのだ。

失敗を失敗と認めることができるのなら、少なくともPDCAが回せる。
何が失敗の原因だったのか?

人道と大義だけで人は施しはできない、施す側にも余裕が必要だ、
難民移民を受け入れるだけの経済的な基盤が必要だ、
だから人道政策を実施するためにも経済対策が必要なのだ、
というような回路や、

施すだけでは施しに依存性の麻薬のような副作用がある、
ただ一方的に上から施すのではなく、
我が国の文化や制度に統合する必要がある、
そのためには施しの対価として我が国の文化や制度の受け入れを移民難民に求めなけれならない、
それができないとなるなら相応の制限なり拒絶なりを移民難民保護の制度に組み込まなければならないのでは、

等々の検討ができたはずなのだ。

だが人道派や左翼はどうしても失敗を認めることができない宿痾を抱えている。
だからPDCAが一切回せない。
改良が存在しないのだ。なぜなら理想は完成された全き正義なので、改良が必要な瑕疵がそこに一切ないという措定だから。

だから、もしそこで間違いや失敗が生じたのなら、人道左翼が信じる理想以外の何かが原因になるのだ。
例えば極右や不寛容の台頭などがやり玉に挙げられる。
だが、その極右や不寛容の台頭の淵源が人道左翼の失政にあるのではないか、という反省は一切成されない。
これは第二次世界大戦を経ても誰もこの宿痾を乗り越える事ができていない。
なぜなら、
二度の大戦の愚かな原因は、憎悪や差別や不寛容にあったので、
正義は決して失敗や敗北はしないのだ、
という前提に立っていたから。

正義こそが間違っていたのだ、という現実に、
人類は数千年経っても向き合うことが叶わないのだ。
それこそが、人類の抱える宿痾なのかもしれない。

監督官庁を増やして不正義を一掃したい正義の欲望と利権

2023-12-27 21:40:13 | 日記
https://www.sankei.com/article/20231227-FXEETWF5KVOR3M26URHVMCFOT4/

ってとこかな。
web界隈では散々ツッコミが入って、
やれマスコミ監督官庁が必要だの、記者会見の記者クラブを監督するべきだの、
ミサンドリを監督しろクルド人を監督しろだの言いたい放題状態。
極論すれば横断歩道に監督する警官がいなかったから交通事故で人が死んだくらいの話にも飛ぶ。
そして、左翼の連中こそ監督だの規制だの統制だのとやたら全体主義的権力主義のパターナリズムを好む。
絶対正義を信じるから勢いそうならざるを得ない。
ま、それだけ信じるものが強固で強烈で、疑いもなく純粋であればあるほどそのような振る舞いになるのだろう。
普通は、ここまで言っても大丈夫だろうか?って枷が勝手に嵌るものだろうと思うのだが、
今の世の中で普通を語るほど野暮で知性の低い話もないとも言える。

また草津市長の件もそうだが、
黒白はっきりしていない案件なのに女が被害だと思った途端に推定無罪もかなぐり捨てて正義を暴走させている。
これこそが正義の暴走なのだが、誰もこれに文句を言えない。

これこそが正義の本質なのだ。
これが20年~50年くらい経てば、「なんであんな愚かなことをしたのだ」と平気で断罪できる。
だが、
その当時の空気感というものを知ればそんな簡単な断罪などできないのだ。
この望月を一斉に徹底的に断罪できる空気が今のこの世の中にどれだけある?
むしろ望月を野放しにして、それどころか擁護して女性が貶められている!
という熱狂の渦がいくらでも巻き起こりそうだという予感しかしない世相だろう。

つい70年前の戦争ですら、
愚かな戦争愚かな戦争と後世の人間はいくらでも簡単に断罪できるが、
当時の空気では想像を絶するほど恐ろしい反逆、大逆の罪に匹敵したのだ。

事程左様に、
正義は数十年で簡単にひっくり返り、
そしてひっくり返った前と後とで人は驚くほど二枚舌三枚舌を弄し、
正義を信じた心のまことなどは数十年も保ちやしないのだという現実がそこにある。

今のサヨクもフェミもLGBTもWOKEも、数十年したら歴史の裁きを受けるだろう。
だがその裁きを受けた後の人間は、
こともなげに「なんであんな愚かなことをしたのだろう」としたり顔で断罪するのだ。

そうした安易なしたり顔の断罪こそが、
人間の最も愚かな行為だと歴史にそろそろ刻まれるべき時だろう。

人の目を気にせずに自分の好きなものを選ぶということ

2023-12-26 23:17:50 | 日記
一昔前は大量消費社会で、みんなが同じものを消費していた。
なので昔は空気の圧力が強く、自分はそれほど好きでもないものを好きだということにして付き合って生きていた。
趣味でも遊びでも、恋愛でも、果ては結婚ですら。

それが嫌だということで、自分の好きでないものは拒み、自分の好きなものを選ぼうという時代になってきた。
最初は、嫌なものから解放された爽快感にみんな浸っていた。
だが、少しずつ段々みんな気がついてきた。
みんなの好きなものがバラバラになれば、誰とも繋がらず、交わらず、関わらなくなってくるということに。
自分の大好きなものでも、人は自分の大好きなものに興味を持ってくれない。
好きでもなければそれを好きだと言わなくて良い世の中だからだ。

大誤算は、自分の本当に好きなものも誰かはきっと好きであってくれるだろうという楽観的な予測だった。
これが驚くほど交わらない。
だから驚いてすぐに空気に引っ込んだ人も多くいる。
やっぱり空気を読んでおかないと好きなものが交わらないからだ。

でもそれでも、一度嫌なものを拒む自由の解放に浸ってしまうと、
周りの好きなものに合わせる自分がどこか偽りのように感じるようになってしまう。
好きが交わらず、さりとて空気を読むことも求められず、
多品種少量生産社会の中で人はばらばらになって生きるようになってしまっている。

テクニックを使えばいいねを集めたり社会的ステータスをゲットすることはできなくはないが、本当に好きなものを誰かと分かち合いたいという気持ちはますます乾くばかりになっている。
でも今更引き返せない。
好きなものが交わらずに人はイライラし続け、今や戦争さえ起きかねない世の中だが、もう好きではないものを好きだということが嘘だと分かってしまった以上、それをもう本当に好きだとは言えなくなってしまった。
要は夢からさめてしまったのだ。

好きなものを隠して、
好きな人と結婚し、
好きな子どもを育てるのが世の中になっている

16歳未満SNS禁止案

2023-12-18 23:57:48 | 日記
https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000328666.html

理念先行で、法案とか制度とか実務周りを担当している人たちの阿鼻叫喚が聞こえる感じもするが、
なかなか興味深い案件である。
実際に法が適用されたあとの世界を考えてみたい。
16歳になったなら解禁になるのだから、大人すら禁止される禁酒法みたいな酷い規制にはならない。
まあエロ動画、タバコ、酒みたいな位置づけになるだろう。
公には禁止だが、抜け道はいくらでもあるという感じ。
ただ、禁止されるとSNSは「悪い子」が使うという烙印が公には押されることになる。
これによって発生する分断とか亀裂とか、世界の配置や分布の変遷には俄然興味が生まれる。

16歳になって初めてSNSをやる、というのが公の想定になるわけだが。
歩きスマホをいい大人がやめることもできないようなwebの中毒を、
果たしてどこまで禁止できるのか。

一番安易な未来予想は、骨抜きになって「やっちゃだめだけどまあ、自己責任で」という、
要は赤信号を渡る程度のなあなあ規則になるかというところだが。

他方で、SNSの悪影響みたいなものはなんとなくみんな分かっているし、
エロやゲームみたいに一定の大人が目くじら立てて「禁止ザマス!!!」的な雰囲気がある程度浸透すると、
それなりの分断がそこに生まれるように思われる。
キモオタとヤリチンみたいな感じで。
要は思春期前後における化粧やセックスみたいな位置づけになるのではないかと。
大人は触っちゃいけないと禁止し、大人になってからやるんだよと諭される。
だが16歳、18歳、20歳と線引はあるけど実は曖昧で、
建前では禁止といいつつ、実際にはいかにしてその禁止をギリギリ破ろうかと画策する。
逆に禁止を守ると子どものうちはいい子扱いだが、
大人になると要領の良い奴らに出し抜かれる。
まあそんなグダグダな現実に引きずられることになること必定だろう。

面白そうなので「やれるもんならやってみろ」というのが初見の感想だが、
そもそもSNSにせよスマホにせよセックスにせよ、
大人がまともに守れもしないような決まりを子どもに押し付けるやり方が、
今の自由が蔓延する世の中で果たしてどこまで通じるのかもまた別の視点で観物といったところだ。