握りこぶしでファイト!

認知症の母との生活を中心に、日々のよしなし事を書きます。

紙の日記

2021-07-15 00:03:54 | 日記
仕事を完全リタイアしてから始めた「紙の日記」が23冊目になった。

「富士日記」という本を読んだのが、書き始めたきっかけだった。

「富士日記」は武田百合子(小説家武田泰淳の夫人)が、富士山麓の山荘で
過ごした日常を書き記したもので、田村俊子賞の受賞作である。
その内容は、その日の食事、買った品物と値段、出会った人との会話などを
記しているだけの日記なのだが、テンポの良い文章と天衣無縫な表現に
惹きつけられた。結構、毒舌も吐いていて痛快なのだ。

例えばー
 (昭和51年7月29日分からの引用ーそのまま)
七月二十九日(木) 晴 時々くもり
田中角栄は拘置所で麦飯と一汁一菜の朝飯で元気にしていると
テレビでいった。田中角栄はとても丈夫なのだ。
 朝  麦飯、さけ罐、大根おろし、きゅうり酢のもの、卵。
 夕飯 パン、ビーフシチュー、すいみつ桃、ぶどう。
主人、冷やしたすいみつ桃がおいしいと言う。
ぶどうもテレビをみながらずっと食べている。
今日は午後、夕立のような雨が一しきり。

もちろん、もっと面白い出来事も書かれている。
こんな感じで、日々の「よしなしごと」を記していくことは自分にも
出来そうだと、何となく思ったのである。
その時は時間はたっぷりとあったし、、。

そんなきっかけで「日記」を書き始めたのだが、これが後々母親の介護に
役立つなんて思いもよらなかった。

介護保険を利用するには、「介護認定」を受ける必要がある。
認定に際しては「認定調査」があり、市から委託を受けた専門家による面談によって
判定される。
認知症は日によって症状が変化するため、日々の行動、言動などの記録はとても重要。
本人は自分が認知症という病気とは思っていない。
一度会っただけでは正体を見破るのは難しいのである。
結果的に、適切な介護が出来なくなることにもなりかねない。

母の認定は、最初が「要支援2」、次が「要介護1」、現在は「要介護2」の判定を受けて、
それに見合った介護用品のレンタル、施設利用などのサービスを受けている。

「紙の日記」の効用は他にもあると思っているが、それはまた別の機会に。




2013年3月の日記


最近使っている筆記具
ー万年筆(イタリア製アウロラAURORA)
  退職記念にいただいたもの
ーインク(シェーファーSheaffer)
ー吸い取り紙とプロッター
  ひょっとして見たことがない人も?













熱中症

2021-07-12 12:52:15 | 日記
昨日は母親のデイサービス利用日なので、着替えを手伝うために、起こしに行くと、赤い顔をしていた。
検温すると37.5°C。起き上がってもボーッとしていて、トイレに行くにも足の動きがぎこちない。

母は年齢のせいで、暑さを感じず、身体に「風が当たる」のを極端に嫌う「風嫌い」。
そのため、部屋にはエアコンも扇風機もなく、普段から汗をかきながら頻繁に水分補給をして過ごしている。
本人に気付かれないように、少しだけ部屋のドアを開けて、冷房の風を入れたりしているが、気が付くと直ぐに閉めてしまう。

昼間は、本人がリビングに出てきたりするし、家族が部屋に出入りして室温を確認しているのだが、夜間の対応が難しい。

一昨日の室温は31度を超えていて、寝る前に少し窓を開けておいたのだが、熱帯夜に近い状況だったようだ。

デイサービスはお休みにして、水分補給と身体を冷やす措置を取って、様子を見ることにした。

水分補給は、スポーツドリンクを少しづつ何回も飲ませた。
身体冷却は、熱さまシートと両腋に保冷剤を挟んで。
もちろん、監視付きで隣室から冷房の風を入れた。
食欲はほとんど変わらなかったので、冷製スープなどにしたが、塩分少し強めに。

幸い、夕方には熱は下がって、ひと安心。
今日は、普段通りに憎まれ口をきいている。

「高齢者の夜間室内での熱中症に注意」との、呼びかけは耳にするのだが、先ずは、本人の「風嫌い」との戦いがある。

今回は軽くて済んだが、これからの猛暑に備え、作戦を立てなくてはならない。














デイサービスからお持ち帰り

2021-07-10 00:49:48 | 日記
母は介護保険を使って、デイサービスを週に3日間(月水金)利用している。
朝9時過ぎに施設から迎えがあり、夕方5時頃自宅に送ってもらう。

利用しているデイサービスセンターの「通所個別援助計画書」という書類には、"総合的な援助"の方針が次のように書かれている。
○外出や他者との交流の機会を持つことで、楽しみのある生活が送れるように支援します。
○相談やサービス調整を行い、介護者の介護疲れや不安が軽減されるように支援します。

具体的に受けている主なサービスとしてはー
○食事(昼食、おやつ)の提供
○入浴の提供
○体操・レクレーションへの参加
○他者とのコミュニケーションの援助
○個別訓練(オートペダル)の実施

食事以外は在宅では困難で、介護士、スタッフの皆さんのご苦労には感謝しかない。

センターでの様子は、連絡ノートに詳細に記述され(食事の摂取量など)ていて、体調なども分かる。
「お隣の利用者と笑顔でお喋りされていました」と書いてあると安心である。

毎回の連絡ノートとともに、時折り「作品」のお持ち帰りがある。
本人(母)が作ったとはとても思えないが、スタッフの方と一緒に作業した傑作もある。
「お母さんが作ったと?」と聞くと、ニャッと笑っている。


お持ち帰り品(一部)

毎月のカレンダー
ースタッフ手づくり
ーぬり絵は利用者(母?)


いち輪挿し
ー爪楊枝で作成
ー高さ約15cm
ーピンクの花は自宅で連れ合いが作ったもの



早口ことば
ーセンターで使用したもの
ー食卓の横に貼って、家族の老化防止に









博多山笠

2021-07-08 21:05:00 | 日記
今日は用事があって、九州の随一の繁華街
と言われる「天神」にある「ソラリアプラザ」に久しぶりに行ったところ、吹き抜けに博多山笠の「飾り山」が設置されていた。

七月の博多の町は、博多三大祭のひとつである「博多祇園山笠」で盛りあがる。

しかし、残念ながらコロナ禍のため昨年に続いて今年も、一部を縮小しての開催になった。

2年連続で、勇壮な「舁山(かきやま)」が中止になり、「飾り山」だけになったのである。
その飾り山も、例年よりも数が少なくなっていて寂しい限り。

「飾り山」は、例年7月1日から15日まで、市内各所に18本が設置され、博多人形師による絢爛豪華な飾り付けで、山笠の「静」の部分を彩っている。

一方、勇壮な舁山(かきやま)は「動」を受け持ち、クライマックスである「追い山」でフィナーレを迎える。
 
この「追い山」が言わばメインイベントなのだが、その前に「舁山」の醍醐味を味わうことが出来る行事も用意してある。

一つは、「追い山ならし」と呼ばれるものである。
7月12日の15時59分から本番より1Kmだけ短い4キロのコースを駆け抜ける。追い山のリハーサルと言ってよい。

もう一つは、「集団山見せ」である。
町人の町「博多」から那珂川を越えて、城下町「福岡」へ舁き入れるイベントで、7月13日の15時30分から行われる。
これには、有名人も台上がりして盛り上げる。小松政夫さんやホークスの王会長、そしてコース途中にある「博多座」来演中の役者さんなど。

そして、いよいよ本番。
15日早朝4時59分に櫛田神社をスタートして、神社内の短いコースと全長5Kmのコースの両方を7つの「流れ」が速さを競う。
現役で仕事をしている時は、同僚達と午前2時くらいからスタート地点近くの「冷泉公園」に集合。
「オイサ、オイサ」の掛け声で集まってくる各流れ(町内)の舁山に拍手を送っていた。

追い山が終わると、博多の街は夏本番を迎えるのである。

来年は、本来の姿での博多山笠が行われますように。


飾り山(17番ソラリア)
ー高さ15メートル

表(正面)



見送り(裏面)


舁山(かきやま)
ー恵比寿流れ
ー2017年7月12日
 「追い山ならし」で撮影







思い出の写真

2021-07-06 01:02:00 | 日記

母親は若い頃、鹿児島で叔父が経営していた観光旅館で女将の仕事をやっていた。
その頃の思い出話をよく聞かされるのだが、何せ96歳の高齢なので、記憶が
あいまいになっていて話の辻褄が合わないこともよくある。

確かめようにも関係者もすでに故人となっていたり、音信不通なので困難。
やはり、事実を知るには「記憶より記録」が大事なのである。
最近は、辻褄合わせに、記録の改ざん、黒塗り、口止めなどが横行している
ようだが、、。

さて、母親の思い出話には「プロ野球選手を直接愛称で呼んでいた。一緒にチークダンスを
した経験もある」とかいうことが出てくる。
当時、まだ小さかった自分は、叔母(母の妹)と一緒に別に住んでいてはっきりした記憶はない。

実は、母が女将の仕事をしていた旅館は、「鴨池野球場(現在の鴨池市民球場)」のすぐ横にあって、
鹿児島で春季キャンプを張っているプロ野球球団の宿泊施設として利用されていた。
(まだ鴨池野球場は残っているが、現在の県立鴨池野球場は埋立地に出来た別の施設)

1954(昭和29)年に「国鉄スワローズ」がキャンプ地として来訪、ご存知、今のヤクルト球団。
あの金田正一投手が5年目を迎えた年で、年間最多奪三振を三年連続で達成していたようである。
選手達の世話をしていた、母から「“カネさん(金田正一)”とは、天文館のダンスホールに踊りに
行った」と、よく聞かされる。“カネやん”とは言わない。
翌年、「カネさん」は美人歌手の「榎本美佐江さん」と一緒になっている。

そして、1958(昭和33)年には「大洋ホエールズ」がキャンプ。今の横浜ベイスターズである。
当時、投手では秋山登、打撃陣では青田昇が在籍していた。
大洋がキャンプで泊まっていた時、「“アキさん(秋山登)”に女の人から電話が掛かってきても、
打ち合わせ中と言うようにしていた」そうである。
このころ、大洋ホエールズはいつも最下位であったが、翌1959年に西鉄ライオンズから
「三原脩」氏を監督に迎え、1960年には日本一に。

母親が持っている60年以上前のサインボール、変色した写真、ボロボロになった色紙は、
母親の記憶を呼び覚ましてくれる“よすが”となっている。





1954年2月27日付けのサインボール
ーなかなかの達筆
ー当時は墨で書いたようだ




金田正一投手と榎本美佐江さんを囲んで
ー鴨池野球場をバックに旅館の玄関前で撮影
ー1960(昭和35)年、突然の来訪、その年は指宿でキャンプ。




大洋ホエールズ選手のサイン色紙
保存状態が最悪である。
ー右上の方に秋山登。左下には近藤和彦の名も。
ー右に迫畑監督
ー1958(昭和33)年作成の色紙