握りこぶしでファイト!

認知症の母との生活を中心に、日々のよしなし事を書きます。

思い出の写真

2021-07-06 01:02:00 | 日記

母親は若い頃、鹿児島で叔父が経営していた観光旅館で女将の仕事をやっていた。
その頃の思い出話をよく聞かされるのだが、何せ96歳の高齢なので、記憶が
あいまいになっていて話の辻褄が合わないこともよくある。

確かめようにも関係者もすでに故人となっていたり、音信不通なので困難。
やはり、事実を知るには「記憶より記録」が大事なのである。
最近は、辻褄合わせに、記録の改ざん、黒塗り、口止めなどが横行している
ようだが、、。

さて、母親の思い出話には「プロ野球選手を直接愛称で呼んでいた。一緒にチークダンスを
した経験もある」とかいうことが出てくる。
当時、まだ小さかった自分は、叔母(母の妹)と一緒に別に住んでいてはっきりした記憶はない。

実は、母が女将の仕事をしていた旅館は、「鴨池野球場(現在の鴨池市民球場)」のすぐ横にあって、
鹿児島で春季キャンプを張っているプロ野球球団の宿泊施設として利用されていた。
(まだ鴨池野球場は残っているが、現在の県立鴨池野球場は埋立地に出来た別の施設)

1954(昭和29)年に「国鉄スワローズ」がキャンプ地として来訪、ご存知、今のヤクルト球団。
あの金田正一投手が5年目を迎えた年で、年間最多奪三振を三年連続で達成していたようである。
選手達の世話をしていた、母から「“カネさん(金田正一)”とは、天文館のダンスホールに踊りに
行った」と、よく聞かされる。“カネやん”とは言わない。
翌年、「カネさん」は美人歌手の「榎本美佐江さん」と一緒になっている。

そして、1958(昭和33)年には「大洋ホエールズ」がキャンプ。今の横浜ベイスターズである。
当時、投手では秋山登、打撃陣では青田昇が在籍していた。
大洋がキャンプで泊まっていた時、「“アキさん(秋山登)”に女の人から電話が掛かってきても、
打ち合わせ中と言うようにしていた」そうである。
このころ、大洋ホエールズはいつも最下位であったが、翌1959年に西鉄ライオンズから
「三原脩」氏を監督に迎え、1960年には日本一に。

母親が持っている60年以上前のサインボール、変色した写真、ボロボロになった色紙は、
母親の記憶を呼び覚ましてくれる“よすが”となっている。





1954年2月27日付けのサインボール
ーなかなかの達筆
ー当時は墨で書いたようだ




金田正一投手と榎本美佐江さんを囲んで
ー鴨池野球場をバックに旅館の玄関前で撮影
ー1960(昭和35)年、突然の来訪、その年は指宿でキャンプ。




大洋ホエールズ選手のサイン色紙
保存状態が最悪である。
ー右上の方に秋山登。左下には近藤和彦の名も。
ー右に迫畑監督
ー1958(昭和33)年作成の色紙