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道
前号からの続きでご覧いただいている方には、申し訳ありません。千枚通本坊・延命寺から、いきなり三角寺までジャンプすることになりました。
ジャンプして飛ばしてしまった部分については、→H24春 ⑧ に、ある程度記しています。よろしければご覧いただきたいと思います。また、できるだけ早くに機会を見つけ、まとめ直してみようとも考えています。
三角寺へ四丁
三角寺まで、あと四丁です。快適な登りでした。
しかし、その快適さからは想像もつきませんが、澄禅さんは「四国遍路日記」に、次のように記しています。
・・此三角寺ハ与州第一ノ大坂大難所ナリ・・
石段
”与州第一ノ大坂大難所”の故でしょうか、それとも伊予国最後の札所だからでしょうか、(48番西林寺や60番横峰寺の他に)三角寺もまた、伊予の関所寺とされています。関所寺とは、邪心を持つ者を阻んで先に進ませない、関門となる札所で、四国の各国に一ヶ寺あるとされています。
さて、これより関所寺に入りますが、山門に至る石段は、その覚悟のほどを問うているかのように、急です。
鐘楼門 仁王門
♫ 通りゃんせ 通りゃんせ
♫こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ
境内
山門をくぐると見えてくる、この境内が、私は好きです。
写真は春・四月の景色で、左奥が本堂、手前が大師堂です。右端の軒は薬師堂だと思います。
なお大師堂は、かつては、この三角寺境内には在りませんでした。四国遍礼霊場記の三角寺図にも描かれてはおらず、今日、大師堂が在る位置には、弥勒堂が描かれています。
旧三角寺大師堂
では、どこに在ったのか。
写真は三角寺奥院・仙龍寺の本堂です。弘法大師を本尊としています。かつては仙龍寺を以て、三角寺大師堂としていました。三角寺と仙龍寺は、札所として一体であったようです。
境内
こちらは秋の景色。左は延命地蔵菩薩。右が大師堂です。
澄禅さんはまた「四国遍路日記」に、・・前庭ノ紅葉無類ノ名木也・・と記しています。前庭がどこを指すのかはわかりませんが、とまれ三角寺の紅葉は、広く知られていたようです。
桜の大枝
本堂へ向かう道に、山桜の大枝がかぶさっています。
この桜は、一茶が句に詠んだ桜だといわれ、樹齢は300年とも400年ともされています。
一茶句碑
是でこそ 登りかひあり 山桜 一茶
なんと見事な山桜であることよ。・・与州第一ノ大坂大難所・・を登るのは苦労だったが、苦労のしがいがあったというものだ、というような心でしょうか。
四季桜
こちらは、桜は桜でも、「四季桜」です。
秋に撮った写真ですが、桜が花を咲かせています。木の葉色づく中、花を咲かせる「四季桜」です。下に咲くピンクの花は、ヒマラヤ雪の下。
三角池
四国遍礼名所図会に、・・此寺大師十一面の尊像を作り本尊とす。大師の三角の護摩壇有故に三角寺と号す・・とあります。
写真は、三角寺の寺名の由来となった三角の護摩壇の跡で、今は池となり、中之島に弁財天が祀られています。
落書き
讃岐国の男性二人が、(讃岐→阿波→土佐→伊予と周り)三角寺で結願したのでしょう。その悦びを大師堂の壁に、墨書して残しました。
サヌキ ( 男 姓名 )
( 男 姓名 ) 拝
明治廿七年 四月十一日 参ル
四国巡拝致志候
( 姓 名 )も、堂々と書き記されていますが、念のため伏せ字とします。
駐車場
石段下の駐車場には、かつては遍路宿や商店が在ったようです。写真奥の民家も、かつては遍路宿だったかもしれません。
駐車場を右に進み、次なる目的地、椿堂に向かいます。椿堂から境目峠を越え、峠を下りた先の宿に泊めてもらいます。
椿堂へ
三角寺-平山間は、今回は近道を行くことにしました。
近道とは別に、駐車場を左方向へ進んで三角寺口まで降り、そこから平山へ登り返す道もあります。私はこの方が好きなのですが、出発前、やや体調を崩していたことを考慮し、近道を選びました。
三角寺口経由の道を逆三角形の下2辺に喩えれば、近道は、上の一辺に当たります。もちろん辺は、直線ではありませんが。
奥の院へ
H24春、奥院仙龍寺に参ったとき、私は三角寺境内の本殿奥から奥院道に入りましたが、ここにも奥院道への入り口がありました。
道標は古く、川之江市が建てたものです。合併で川之江市から四国中央市になったのが H16(2004)ですから、それ以前のものということになります。というわけで、その頃には在った市民の森は、今は在りません。
道
平山に向けて進みます。
この道を走る車はほとんどなく、今回、私はスクーターに乗った人に出会っただけでした。峠の家に住んでおられる方のようでした。
分岐
分岐する道は、おそらく、掘切峠に通じる道でしょう。
掘切峠からさらに東進すると水ケ峯地蔵に、南進すると市仲を経て、奥の院に至ります。ただし古い車道ですので九十九折れになっており、長距離は覚悟しなければなりません。
私はもちろん、左の道を進みます。
案内看板
看板は古くなっていますが、奥の二枚は水ケ峯地蔵を、手前の一枚は、奥の院仙龍寺を案内しています。
仙龍寺の文字は消えてしまっていますが、厄除大師、虫除大師の文字が残っています。大師は厄除と虫除五穀豊穣の護摩修行を行った後、ご自身の姿を像に刻んだと言われています。人は、その御自作の像を厄除大師、虫除大師と呼び、仙龍寺のご本尊として祀りました。このお大師さんが、かつて、三角寺のお大師さんでもあったわけです。
水ケ峯地蔵
私は水ケ峯地蔵の近くまで行ったことがあります。急用で急ぎ帰宅しなければならず、手前で引き返したのですが、写真は、その時に写したものです。よろしければ、→H24春 ⑧ をご覧ください。
道
一巡目、この辺を歩いたときのことです。「寂しさ」のような感情に、とらわれ始めたのを覚えています。
伊予の最終札所を過ぎ、結願が現実のものとして見えてきたとき、結願するのはうれしいけれど、終わってしまうのはさみしい、という感情がわいてきたのでした。
それからの一歩一歩は、これまでの無意識に繰り返してきた一歩一歩とは違い、なにやら愛おしさを感じるような、それであったと記憶しています。
水場
こんな体験を宿で話してみたら、何人かの人が、自分にも覚えがあると応えてくれました。
・・それまでは、歩けばその分、疲れていたんですけど、三角寺を過ぎたあたりからは、むろん疲れはするけれど、心地よかったですね。さあ来いと、お大師さんに呼ばれているような、そんな気がして。
椿堂へ
写っていませんが、手前に、右方向への分岐があります。前記の九十九折れの道につながる分岐です。
嶋屋跡 お小屋倉跡
石柱の左面に、「旅籠屋 島屋跡」とあります。
えひめの記憶に、次のような記述があります。・・平山集落は交通の要所として、かつては宿屋・居酒屋・うどん屋などが建ち並んで、ごく小規模ながら宿場町の形態をなしていた。その平山で最も大きな宿屋が嶋(しま)屋だった・・。
右面にある「お小屋倉」は、土佐藩の施設でした。
茶屋跡
土佐街道の急坂を、石柱から1400㍍ほど登ったところに、土佐藩の「茶屋」がありました。参勤交代の、土佐の殿様の休憩所ですが、これは常設ではなく、殿様がお通りの時のみ、臨時に組み立てていたのだそうです。その木材や用具などを格納していたのが、「お小屋」です。
茶屋の側には、きれいな湧水があったとのことです。
土佐街道
えひめの記憶をふたたび引用させていただきます。・・遍路道と土佐街道は嶋屋の跡地前で分岐する。ここを過ぎてそのまま東に向かうのが遍路道であり、土佐街道はここで南に方向を変え、急峻な平山坂を上って水ヶ峰に達し、さらに新宮村を経て土佐へ達する。
*水ヶ峰とは、前述の水ヶ峰地蔵がある所で、その名からもわかるように、大師の「お杖水」が湧くところです。ただ最近は、ゴミ処理場が近くに出来たことから、お水をいただきに来る人は少ない、とのことです。
坂
「急峻な平山坂」です。
平山バス停
せとうちバスのバス停です。三島駅前と新宮(高知県との県境の町)をつなぐ路線です。前記の九十九折れの道は掘切峠を越えましたが、このバス路線は峠を越えず、掘切トンネルを抜けます。便数は多くはありません。
右に見える、椿堂 常福寺を案内する看板に従い、進みます。案内看板のすぐ先に、半田休憩所があります。
下へ
ヘアピン道をショートカットするため、下に降ります。
沢沿いの道
しばらく沢沿いの道を歩いた後、ヘアピンを終えた元の道に復帰します。
丸金常夜灯
○に金、すなわち金毘羅さんへの信心を表明する常夜灯です。
下部には、読みにくいですが、「へんろ道」の文字が刻まれています。
棚田
横川の集落を抜けると、左の谷側に美しい棚田が見えてきます。
最下部を、先ほどの沢が、川となって流れています。
高知自動車道をくぐる
高知自動車道の下をくぐります。
日帰りで高知に行けるようになりました。土佐街道の厳しさを思うとき、隔世の感があります。
棚田
なお棚田がつづいています。沢(川)も見えます。
この沢は下流の川滝で、金生川に流れ込みます。つまり、この沢は金生川の支流であるわけです。
川滝
川滝の街です。中段右寄りに椿堂 常福寺が見えます。白い塀に囲まれています。走っている大きな道は、西条市と徳島市をつなぐ、国道192号です。
へんろ道の所々に、中央構造線・川滝断層の案内があります。断層の露頭が見られるというのです。これも(ぜひお許しをいただいて)次回、見てみたいと思っています。
秋葉神社
秋葉神社が町を見下ろすように鎮座しています。秋葉大権現は、火伏の神さまです。
災厄から街をお守りくださいと願って、静岡の本社から勧請したとのことです。
椿堂山門
大師は椿のお杖を地に突き立て、猖獗をきわめる熱病を、大地に封じ込めました。やがて椿のお杖は大地に根づき、大樹となって花を咲かせたといいます。
人々はこれを「お杖椿」とよび、此所に社を建て、これを椿堂と呼びました。
本堂
邦治山 不動院 椿堂 常福寺
本尊は、椿堂の本尊が延命地蔵菩薩。常福寺の本尊が火伏不動明王。
火伏不動尊
火伏不動尊は、核廃絶の願いを込めて、非核不動尊とも呼ばれています。
道標
椿堂から少し下った角に、茂兵衛道標が立っていました。
実に読みづらい状況になっていますが、雲辺寺と箸蔵寺を案内しているようです。
四国遍礼霊場記に、・・金毘羅は順礼の数にあらずといへども、当州の壮観名望の霊区なれば、遍礼の人当山に往詣せずとうふ事なし・・とあります。箸蔵寺は、その金毘羅の奥の院ですから、多くの遍路がお参りしたことでしょう。
あじさい
箸蔵寺は、神仏習合の寺としても知られています。 →(H21秋 1)
橋
金生川(きんせいがわ)に架かる橋を渡り、国道192号へ出ます。右が上流です。
(前述の)沢の合流点は、もう少し下流です。
道
国道192号です。
雲辺寺への道は、大きくは三本あります。
まず一本は、この道を上り、七田橋バス停から曼陀峠を越えて、雲辺寺に入る道です。曼陀峠で愛媛県から出、その後は徳島県と香川県の境を歩きます。
二本目は、この道を上がり、境目トンネルを抜けて徳島県三好市池田町佐野に出、雲辺寺に登ります。
道
三本目は、池田町佐野に出るのは二本目と同じですが、トンネルを抜けず、境目峠を越えます。
私はこの道を行きます。
休憩所
前方に休憩所・しんきん庵法皇が見えます。
峠入り口
境目峠への入り口です。バス停名は「七田」です。
道標
雲辺寺と箸蔵寺が案内されています。
道標
この道標も、雲辺寺と箸蔵寺を案内しています。
道
山道になりました。
旧国道へ
上がってきたところは、旧国道192号です。
佐野に向かうには、右方向に進みます。左方向に進むと、ヘアピンカーブを繰り返しながら、境目トンネル入り口付近に降りてゆきます。
木製の椅子は、上がってきたお遍路さん用の椅子です。近くの方が作って下さいました。ザックを背負ったまま座れるように、工夫されています。
県境
愛媛県と徳島県の境目です。
県境
県境を示す石柱が立っています。
従是東 徳島県三好郡
国道192号の標識
石柱の後ろに、古い交通標識が立っていました。
オニギリ型ですから国道を表しています。よく見ると192という数字が読みとれます。まさしくこの道は、かつての国道192号です。
道
ここは、もう徳島県です。停めてある車も徳島ナンバーになっています。
道標
直進は佐野への道です。左方向は、曼陀峠に至る道で、七田橋バス停から上がってきた道に合流します。
私は直進します。
国道
下に、現在の国道192号が見えてきました。
トンネル出口
ふり返ると、境目トンネルの出口が見えます。
佐野へ
国道192号に降り、しばらく歩いて、佐野集落へ入ります。
旧佐野小学校
宿はすぐ近くですが、まだ早い時間なので、しばらくここで時間待ちさせてもらいました。
佐野小学校は、H24(2012)休校になり、その後そのまま、廃校となりました。創設は、明治7(1874)。最も早い時期に出来た小学校の一つです。
雲辺寺方向
佐野から見た雲辺寺方向です。
一番右の鉄塔まで山道を登り、林道を3キロほど歩くと雲辺寺です。
明日、登ります。
ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次号は、雲辺寺から大興寺を予定しています。更新は10月23日の予定です。
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2015年に白文字の192をご覧になったそうですので、あの番号標識は、この4年間で、急速に色を失いました。境目トンネル竣工(1972年)以来、ずいぶん頑張ってきたのですが、残念です。
なにやら我が身に起きていることと重なるようで、ガンバレ 標識!といいたくなります。
また小早川秋聲展へのお誘いも、ありがとうございました。
予想では、狭い加島美術館は溢れかえり、外には長い列が出来ているにちがいなかったのですが、その予想は外れてしまいました。学芸員のお話では、入場制限をした日もあったとのことでしたので、それなりの関心は集めていたようですが、天恢さんもおっしゃるように、NHK,と全国紙二紙で紹介されたにしては、すこし残念な結果であるのは、否めませんでした。
戦中、翼賛体制下にあって、天皇献上の絵をあのように描いた画家からのメッセージは、今の人たちの心には、少々、届きにくくなっているようです。
「憲法改正」は、このような状況を下地にして、進んでいるのだと思います。その足音を、天恢さんは聞いています。
今、私たちが歩いているこの道が、いつか通った道ではないことを祈りたいのですが。
やむを得なかったとはいえ、横峰寺→三角寺→雲辺寺の間を乗り物でつないでしまうと、たしかに大変です。標高の合計は、2155㍍にもなります。
文明の利器は多くの場合、私たちに「ゆとり」をもたらしますが、時として、逆に私たちを追い回しもするようです。できれば利器に頼ることなく、ゆっくりと歩き通したいものです。
もっとも、これがなかなかに難しいことはご承知の通りで、時間があったら金がない、金があっても時間がない、金と時間はあったとしても、健康がない、といった具合です。
先輩遍路が話していました。・・遍路のなんたるかが、いくらかでもわかった気になるのは、札所でというより、札所から札所へと歩いているときに多い。しかし、この歩くというのが、なかなか難しい。・・
なるほどと思わせられる言葉でした。
さて、今回の「三角寺~椿堂~池田町佐野」の道中記を楽しく読ませていただきました。 遍路での思い出は 苦しかったこと、失敗したこと、お接待を受けたことなどはよく覚えているものです。 ここでの思い出は、一巡目のとき、日程に厳しい制限があって、早朝に丹原の宿から横峰寺に歩いて上り。 参拝後、バスと電車で伊予三島駅まで移動して、登り甲斐のある山道を歩いて三角寺へ、そこからタクシーで佐野の宿へ。 そして翌日は雲辺寺へ向かったのですが、この時はホントに苦しかった! バテバテ気味で、途中で何度も何度も、歩いては休みを100回以上は繰り返しました。
それと、どうでもいいことも不思議と覚えています。 「椿堂 常福寺」のところで、ふと椿堂の四姉妹のことを思い出しました。 会ったことも、見たこともない四姉妹が、どうして私の頭の片隅に? 四姉妹といえば「細雪」とか、「若草物語」が有名です。 気になるので、あれこれ調べて、探り当てたのが、ごぜ三味線の数少ない後継者である月岡祐紀子さんの『平成娘巡礼記』・椿の楽園にありました。 そこには、ご住職の10、8、6、4才の若草姉妹との心和むひとときの交流が記述されていました。 これは、もう20年前のおとぎ話です。
さてさて、今回のタイトル『♪戦争が終わって 僕らは生まれた 戦争を知らずに 僕らは育った~』は、作詞:北山 修/作曲:杉田二郎 歌:ジローズによる「戦争を知らない子供たち」です。 ヴェトナム戦争最盛期に日本でも反戦平和運動が盛り上がり、この歌は日本における代表的な反戦歌となりました。 この反戦の思いは・・・。
たった一枚の絵を観るために、「楽しく遍路」さんを誘って、初秋の怖い東京へ出掛けました。 東京の京橋にある「加島美術」のギャラリーで、日本画家・小早川秋聲の企画展・「小早川秋聲 ―無限のひろがりと寂(しず)けさと―」が開催されていたからです。 この企画展に出品された戦争画・「國の楯」はNHKテレビの日曜美術館、朝日新聞、毎日新聞なので大きく取り上げられました。 天皇に見せるために軍の依頼で制作された「國の楯」ですが、完成後は厭戦感を警戒する軍に受取り拒否されたと言われています。 一方で当時作品を見た軍人は敬礼し、女性は泣き崩れたというエピソードが残っています。
出掛けたのは台風15号の後でしたが、企画展の閉会が迫る時期で、マスコミに大きく取り上げられ、入場料も無料なのに、来館者が意外と少ないのに驚きました。 SNSへの投稿にも反応は鈍く、もう日本人はあの戦争のことは忘れたのでしょうか? 戦争が終わって生まれた人たちにとっては、戦争の悲惨さ、哀しみなんかはどこか遠い存在なのかもしれません。 迫りくる改憲の足音だけが聞こえてきます。