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5日目 平成21年(2009)4月24日
長尾の宿
みんなで一斉に宿を出ました。何方もがゆったりと歩いている風に見えるのは、残り少なくなった先を惜しんでいるからではないしょうか。
昨晩、皆さんが異口同音に話していたのは、
・・讃岐路にはいって、行歩の一歩一歩を「大切」に思いはじめた。・・ということでした。「大切」が含意するものは人それぞれですが、何方にも共通して言えることは、もはや惰性の一歩はない、ということです。
宗林寺
浄土真宗の寺、宗林寺です。
たぶん歩きはじめて間もないからでしょう、どなたも通り過ぎてゆきますが、・・気になれば立ち止まる・・が、もはや習い性となっている私たちは、門前の「弁慶の馬の墓」が気にかかり、立ち止まりました。
すると嬉しいことに、ここは俳句の寺でもありました。参道両脇の句碑にさそわれ入って行くと、境内にも句碑がいっぱい。とりわけ山頭火さんの碑が多いと感じたのは、山頭火さん好きの、私の気のせいかもしれませんが。
静かな思索の刻を持つことができました。ありがとうございました。
弁慶の馬の墓
寿永4年(1185)、阿波小松島に上陸した義経は、手勢150を引き連れ、屋島へと急行しました。その急行軍に、弁慶の愛馬は耐えられなかったようです。
・・弁慶の馬といえば、ラオウの馬クラスの馬だったのだろうな。・・と北さんに話したら、北さんが、・・弁慶ほどの巨漢をのせたのだから、きっと南部馬だったろう。平泉で手に入れたのかもしれんな?とつづけました。おそらく北さんの指摘は、(弁慶が実在していたなら)当たっているのでしょう。私たちは今治で野間馬を見て、日本在来馬が小型だったことを知っています。→(H17春2)ただし北さん、「ラオウ」は存じておらないようでしたが。
なお、どれが「弁慶の馬の墓」なのかは、わかりませんでした。もしかすると碑の前に転がっている(半分だけ写っている)丸石が、そうなのかもしれません。
追記:どうやら弁慶と義経(牛若丸)が出会うのは、義経が平泉から帰ってきてからのこと、となっているようですね。とすると、南部馬ではなかったかもしれません。
道
遍路道は、長尾寺から4キロほどを南下。その先、前山で分岐します。女体山を越える女体山遍路道と、竹屋敷を経由する花折れ遍路道です。
そのいずれを行くかは、この時点では、まだ決めていませんでした。北さんは前回の遍路で、ピタリと合っていた靴を履きつぶしてしまい、今回は新しい靴で歩いています。ところが、これがどうやら、しっくりと足にきていないらしいのです。初めてのマメも体験しています。
というわけで、その先いずれを行くかは、「前山おへんろ交流サロン」で情報をいただいて、それから決めよう、ということにしたのでした。
一心庵
案内板によれば、明和元年(1764)の草創で、阿弥陀如来を祀っているそうです。庵が遍路道に沿っていることから、ここでは広範な地域からの出張接待がおこなわれ、とりわけ小豆島の肥土山接待講は、ここに常接待の場を設けていたといいます。
手水鉢に刻まれた文字が、当地と肥土山との関係の深さを示しています。
・・寛政3年(1732)御料 小豆島肥土山邑 万人講 太田氏妻
この「太田氏」は、小豆島で大庄屋を務めた太田氏であるとのことです。
また、当・塚原地区では、かつて(50年ほど前までは)農村歌舞伎が盛んだったそうです。そのことと、小豆島肥土山で(今もなお) 農村歌舞伎が盛んであることとの関わりに、案内板は注目しています。小豆島から伝わったか、小豆島へ伝えたか、その辺の研究が待たれるということでしょう。
高地蔵
案内板によれば、・・この高地蔵は、旧長尾西村、長尾名村、前山村の庄屋が発起人となり、文久元年(1861)、三か村が接するこの地に建立された、とのことです。4メートルに余る高さであることから、「高地蔵」と呼ばれている、と書かれています。
高地蔵は、阿波・吉野川下流域で多くみられる信仰で、大洪水が起きた年の建立が多いことから、洪水犠牲者を供養するものとして建てられた、と考えられています。本・長尾の高地蔵も、近くに鴨部川が流れていることから、鴨部川氾濫との関わりは、大いに考えられるところです。
「流水潅頂保存会」の案内書
なお、本・高地蔵の建立について、「流水潅頂保存会」の案内書は、次の様に記しています。
・・安芸の忠左衛門という方が136回目の遍路中、この地で亡くなり、そのことを契機に地元の弁蔵らが、行き倒れのお遍路さんを供養するため、文久元年(1861)、高地蔵を建設。この頃から、この高地蔵を本尊とする「流れ潅頂」の法要が、盛んになった。
建立年が案内板と同じなので、あるいは「地元の弁蔵ら」=「三か村の庄屋たち」とも考えられますが、案内板には、・・忠左衛門の墓碑を弁蔵・伊三良が発起人となって建立した・・とも記されていますから、とすると「弁蔵ら」と「庄屋たち」は、別人とも考えられます。
流れ潅頂(案内書より)
「流水潅頂保存会」の案内書から、写真をお借りしました。
上の写真は、毎年3月に行われるという、流水潅頂の法養で、高地蔵の前で執り行われています。高地蔵の御手が、上記の趣旨の通り、白布で遍路・忠左衛門の墓石につながれています。
下は、鴨部川の河原で行われている「流れ潅頂」です。
高地蔵側の石仏
「流れ潅頂」は、その執り行われる趣き、方法とも、地方によって異なるようですが、goo辞書は、次の様に記しています。
・・出産で死んだ女性の霊をとむらうために、橋畔や水辺に棒を立てて赤い布を張り、通行人に水をかけてもらう習俗。 布の色があせると亡霊が成仏できるという。 地方によっては水死者のためなどにも行い、供養の仕方にも違いがある。
馬の墓
明治24年11月1日 瓦毛馬 あわ川畑在
と読めるのでしょうか。「あわ川畑」は自信がありません。
「瓦毛」の馬が亡くなったようです。「瓦毛」は、「川原毛」とも書く薄茶色の馬の毛色です。その姿が刻まれ、愛されていたことがうかがわれますが、馬の名前は、記されていません。
塩原太助が愛馬を「アオ」と呼んだり(青毛は黒色です)、義経が「太夫黒」などと格式高く呼んでいたことが伝わっているので、名付けの習慣はあったのですが、この馬は、二人称は「お前」で、三人称は「うま」だったのでしょう。(残念ながら上掲・弁慶の馬の名は、わかりませんでした)。
馬の墓
また、馬の名前がないだけでなく、施主(飼い主)の名前もありません。・・あわ川畑在・・と、その在が記されているだけです。
なぜでしょう。畜生の墓石に自分の名を刻むことを、嫌ったのかもしれません。嫌いながらも、輪廻転生、それが来世の己かもしれないと思えば、徒やおろそかにも出来ず、墓標は建てて弔った、そんな複雑な心境だったのかもしれません。
家畜供養塔
「あわ川畑」と読めるのかどうかわかりませんが、だとするなら、そこは、今日の「阿波川端」なのかもしれません。阿波川端は、1番霊山寺がある坂東の西隣です。この辺まで荷馬としてやってきて、亡くなったとも考えられます。
物流の道だったからでしょうか、近くには別の馬の墓もありました。残念ながら写真を紛失しましたが、それは、人の墓からわずかに距離を置いた所に在りました。少し離れているとはいえ、人墓の近くであるのは注目されます。
写真は、立江で撮った「家畜供養塔」です。明日は我が身と思えば、家畜も大切にしなければなりません。
喫茶店
何度も書きましたが、北さんはコーヒー好きです。素通りは出来ません。
店の方と高地蔵の話を始めたら、上掲「流水灌頂保存会」のポスターを持ってきてくれました。ポスターを読みやすいように拡大コピーし、さらにクリヤーホールダーに挟んでくれています。説明を求められると見せられるよう、準備してあるのだそうでした。
一読して、またいろいろと話していただきました。高地蔵と忠左衛門の墓石が白布でつながれていることも、この話の中で知ったことです。
道祖神
道祖神が並んでいます。一ヵ所に集めてくれたおかげで、双体道祖神を何基も、まとめて見ることが出来ます。うれしいことです。
双体は男神と女神で成っており、男神は、猿田彦命とされています。瓊瓊杵尊をリーダーとする「天孫降臨」の一行を「天の八街」(やちまた・道がいくつもに分かれているところ)で待ち受け、葦原中国(あしはらのなかつくに)へと先導した国津神。それが猿田彦命です。その功績から、猿田彦命は「道の神」とされ、やがて道祖神と習合しました。
双体道祖神
女神は天宇受売命(あめのうずめ命)で、天岩戸の前で踊り、天照大神を岩戸から誘い出した神です。天孫降臨の一向に加わっており、のちに猿田彦命の妻となりました。
なお双体道祖神は、男女二神の双体であることから、良縁・子授け・安産の神ともされています。
未完堂
こちらには、さまざまの石仏が集められています。
写真奧の建物には、未完堂とありました。
道標
越智郡朝倉村(現今治市)の武田徳右衛門が建てた、「徳右衛門道標」です。多くの徳右衛門道標のうち、この道標は寛政6年(1794)の建立で、初期のものだとのことです。
(大師像) 是より大窪寺迄二里半
とあります。徳右衛門道標は、四角の石柱(多くは頭がかまぼこ形)の上部に大師像が刻まれ、その下に次の札所までの距離が記されているのが特徴です。次までの距離の表示に、遍路たちはどれほど助けられたことでしょう。なお武田徳右衛門の没年は、文化11年(1814)とのことです。
ダム
旧遍路道から県道3号・志度-山川線に出ると、「梅ヶ畑」バス停がありました。この地点からは、鴨部川を渡り、女体山越えの道に進むこともできますが、私たちはこの道はとりません。私たちがまず目指すのは、「前山おへんろ交流サロン」です。
写真は、「梅ヶ畑」バス停からら約300㍍ほど歩いた地点で撮ったものです。前山ダムが見えてきました。
道標
前山ダムの堰堤手前に、三連の道標が建っていました。
車道直進大窪寺10.6キロ
左ダム渡る女体山越え大窪寺7.8キロ
車道直進並足歩行 所要約2時間50分
女体山越えは所要約1時間余分かかる
登坂峻険約500M絶景・官道のコース也
ここからも女体山越えの道に出られるようですが、まずは「前山おへんろ交流サロン」を目指します。
ダム湖
前山ダムの堰堤から撮りました。もうここには来ないかもしれないので、堰堤に立ってみたのです。
前山ダムは、鴨部川を堰きとめて造ったダムで、治水と上下用水の確保が目的だそうです。
前山ダム堰堤から
下流方向は鴨部川です。
私たちが最初に鴨部川に出会ったのは、長尾寺の2キロほど手前でした。へんろ橋が架かっており、側の休憩所でドイツ母娘の忘れ物を拾得したのでした。
へんろ橋を渡って鴨部川右岸に出、しばらく川とは別れていましたが、長尾寺の先、一心庵がある塚原で、塚原橋を渡って左岸へ。その後は、左岸を川沿いに遡ってきました。
前山
「前山おへんろ交流サロン」の訪問は、(前々々号で記した)加茂の休憩所で「遍路大使任命証」や「結願バッジ」のことを教わって以来、ずっと楽しみにしていました。→(H21春1)
前山おへんろ交流サロン
到着です。
「前山活性化センター」を借りて、「遍路史料展示室 おへんろ交流サロン」が設けられています。
入館すると年配の男性がやって来て、・・おつかれさま。どうぞお座りください、・・と言って、お茶を出してくださいました。
訪問者名簿に名前を書いて、問われるままにこれまでのことなどを話していると、・・
結願バッヂ
もう一人、別の方がやってきました。
「遍路大使任命証」と「結願バッジ」を持ってきてくださったのです。
私たちの前に揃えて置いて、・・お受け取りください・・と。
任命書には、私たちの名前が記されていました。そのための名簿記名だったとわかりました。
ウレシー!と、思わず声が出ていました。北さんは、・・これかぁ・・と、感慨深げです。
野根のゴロ石
・・この道には小辺路修行の岩とおもわれるものが、点々とあります。
展示場を周りながら、けっこう詳しい説明をしてくださいました。せっかくの説明にもかかわらず、理解力不足だったのは申し訳ないことだったと思っています。
メモには、・・野根ゴロゴロを昔の遍路たちがどう越えたか、館員さんが仮説を述べられ、意見を求められた、・・などとも記されています。どんな仮説だったのか、メモに残せなかったのは、今更ながら残念です。
納め札
写真撮影OKとのことでしたので、いっぱい撮らせてもらいました。
これは納め札の変遷の一部です。天井に吊した俵には、善根宿に遍路たちが残した納め札が、詰まっています。たくさん溜まると、俵に詰めて、家の一番高いところに吊したのだそうです。
俵
写真は、つい最近届いた俵だそうです。巻き尺は北さんのもので、50センチ引き出されています。縦は、1メートル弱でした。
・・これね、届いたばかりで、俵から(納め札を)出しよるんですわ。ご覧になりますか?・・と言ってくれました。
むろん、ぜひとも見せてください、とお願いしました。
納め札の塊
これを解すのは大変な作業だと思います。
・・薄皮をはがすように取り外してゆくんですよ。・・と、おっしゃっていました。
納め札
さすがは和紙です。はがし、延ばすことが出来ました。
印判の使用が多いのは、やはり手書き作業が大変だからでしょうか。
文字の崩しが強くないのは、確固とした信心を表したいからでしょうか。
納め札
延ばした札をファイルします。そして、これらを一枚一枚、解読し、記録します。
これまではノートに書いてきましたが、これからはエクセルを学んで、データベース化しようと思っている、とのことでした。
・・先の長い話ですが、楽しいですよ、・・と話してくれました。
道の駅ながお
気がつけば、2時間近くの滞在になっていました。まだ足りない気がしていますが、そうもなりません。
道の駅で弁当を買い、出発することにします。
道は、真念さんが拓いたという「花折れ遍路道」です。女体山越えを避けたのは、私の疲労を考えてのことでした。北さんの靴の問題は、解消していたのですが。
句碑
打ち終へて 三寸減りし 遍路杖
一寸は3センチほどだがら、三寸は9センチ余です。
歩き始めた頃は、邪魔とさえ思ったお杖です。・・なんで四角なんだろう、持ちにくくて仕方がない、・・なんて思っていたものです。
・・一突、一突が力を与えてくれます。・・などと書いているのを読んだときは、・・そんなことは自分には起きないことだ・・と思っておりました。
お杖
ところが今はどうでしょう。もはやお杖は欠かせません。U字溝の穴に突き込むなんてことは、もうなくなりました。万一突っ込んでも素早く反射し、差し障りなく引き抜くことが出来るのです。杖の四角も(お杖タコができて)今は苦になりません。杖に風圧を感じて、楽しんでいたりもします。
因みに、杖の材質にもよるのでしょうが、私たちの杖は、20センチ以上、つまり8寸近く減っていました。
結願の道
・・俺たちは結願を、明るく迎えるのだろうか、しんみりと迎えるのだろうか、・・こんな問いかけを、北さんにしてみました。
北さんは応えなかったのですが、どうやら’しんみり’については否定的のようでした。「交流サロン」での喜びようから一転、’しんみり’などは、考えられなかったのかもしれません。
また私たちは通し打ちではありません。区切り歩きを重ね、無理せず歩いてきました。トンネルを抜けるよりは、極力、峠を越えるようにはしてきましたが、それは「修行」というより、私たちの「遊び心」からでした。「内省」よりは「鵜の目鷹の目」。そんな遍路を続けてきた私たちに、「感極まる」などのことは、起こりそうもないと思われました。
五剣山
ふり返ると五剣山が見えました。
山は見る方角により、その姿をすっかり変えてしまいます。しかし五剣山は、どこから見ても五剣山です。
休憩所
前山を出て以来、誰にも会うことなくやって来ました。
私たちだけの道です。ウグイスも、私たちだけのため、鳴いてくれています。
昼
昼食をとることにしました。道の駅で買ってきたチラシ寿司と、北さんからのお接待の巻きずし、それにアンパンをいただきました。
峠の地蔵さん
峠にはお地蔵さんがいらっしゃって、旅人はこれを優しく護り、邪悪なるものは厳しく、その立ち入りを許しません。写真は、ここ相草東峠のお地蔵さんです。「相草東」は、今日の地図では、「多和相草東」と表記されています。
このお地蔵さんは、「七十丁の地蔵」と呼ばれていたようです。相草東峠が大窪寺から70丁の地点とされ、ここを起点として、1丁(約109㍍)毎に丁数を減じながら、丁石が造立されていたからです。
その多くは現存し、実際、私たちもそのいくつかを、目にすることができました。
世話人
地蔵堂の側に、新旧2基のの石碑がたっていました。
古い円柱の碑には、・・大正十五年六月・・ 世話人 峠・・
新しい石板には、・・遍路道 相草東峠 地蔵 世話人 (八名の名前) 昭和五十二年八月
とあります。新旧の碑に、共通して峠姓が見られることから、峠一族が、代々、この地蔵さんの「世話人」役を務めてきたことがうかがわれます。
なお、古い円柱碑の「大正の大」は、欠けていて判読できませんが、真念さんがこの道を拓いた江戸時代以降で、「正」が後ろにつく「○正」の年号は、大正しかありません。また大正15年は、昭和に改元された年でもありますが、改元は12月なので、6月はまだ大正時代でした。
志度高校の遍路ウォーク
後方から軽快な足音が聞こえてきました。ふり返ると、短パン半袖の男の子が一人、駆けてきます。
北さんが、・・おーい、どこまで走るんだい、・・と問いかけると、彼は立ち止まり(でも足踏みは続けながら)・・大窪寺まで走ります。志度高校1年の「遍路ウォーク25キロ」です。・・と応えてくれました。
北さんが、・・「ウォーク」なのに走るんかい、・・と言うと、それへの返事は、
・・はい、一位を狙っています。・・でした。
それを聞いて北さんは大あわて、・・えっ、ごめん、行って、行って!
道
彼は走り出してくれたのですが、・・事はそれでは終わりませんでした。
申し訳ないと思った北さんが走る後ろ姿に向かって、・・ガンバレー!ごめんな!・・と叫ぶと、彼は、また立ち止まり、・・ありがとうございます・・と、一礼してくれたのです。
北さんは、・・いけねぇ、またやっちまった!・・と反省しきりです。
それにしても、なんと清々しい若者だったことでしょう。
チェックポイント
多和小学校に設けられた、志度高校のチェックポイントです。
先生に彼の話をし、邪魔をしたことを詫びると、
・・いいえ、お気になさらずに。これは「遍路ウォーク」なのです。ですから、お遍路さんに呼びかけられたら、それに応えない方がおかしいのです。それに、この行事では順位やタイムは、格別には競ってはいません。
・・あの子は、ただ速いだけの一位を狙っていたのではないと思います。狙っていたのは、いわば’名誉ある一位’ではなかったでしょうか(笑)。
先生は、こんな意味のことを話してくれました。なるほど、勉強になりました。時に見かけるスピード遍路さんにも、参考になる話だと思います。
三本松峠口三十六丁石
案内板には、次の様にあります。
・・丁石より右前方の急な坂を登り、頂上より山の背を左折して、東へ進む。前方の三本松峠の開削は、(九十年前の)大正年間である。
・・それ以前百五十年間のへんろ道は竹屋敷まで山の稜線に沿って木々の間をたどったのである。今も山中にへんろ墓や、生物が落ち葉に埋もれて、長い長い眠りを続けている。
「山の稜線に沿ったへんろ道」いつか歩いて見たいものです。
竹屋敷口三十丁石
・・大窪寺まで、あと約3.3キロメートルとなった。竹屋敷・槙川・兼割(かねわり)と、結願寺までの最後の村里へ入って行く。
・・三十町、二十九丁の丁石は、高松塩屋町の中條氏の二人の尼僧が施主となっている。
・・「法界万霊」のためとして、あらゆる霊魂の菩提を祈るもので、この地で250年の歳月を経たものである。
・・このあといよいよ結界へ近づく。
道
結界へと近づいてゆきます。
もうすぐ田植え
水が張られています。間もなく田植えでしょう。
畦沿いに足跡がついているのは、最後の畦点検に廻ったからでしょうか。
もうすぐ田植え
右は、もう水張田ですが、左は、まだです。
田起こしは終わっているので、今日明日にも、水が張られるのでしょう。
道
志度高校1年生全員による「遍路ウォーク」の、最後尾の子たちです。
24キロも歩いてきたドベ(最後尾)集団ともなると、先生に追い立てられながら・・モーヤダー、シンドーイ、車ノリターイ・・などとブータレているものと思っていましたが、想像は外れていました。
先生の姿は、見えません。
ブータレルどころか、足を痛めた子を励ましたり、助けたりしながらゴールを目指す姿には、感動すら覚えさせられました。
矢筈山
写真は、矢筈山でしょうか。
この地点で左方向に見える山は、矢筈山(788㍍)なのですが、確信は持てません。というのも、矢筈山には、その名の通りピークが二つあるはずなのですが、この地点からは、一つにしか見えていないからです。お化け煙突のように、やがて見えてくるかと期待しましたが、確認できませんでした。
(ピークが二つある山に、「矢筈山」という名がついていることが多いのは、「矢筈」がMの形をしているからです。Mには、ピークが二つあります)。
ゴール
「遍路ウォーク」のゴールです。
先生方に、・・いい生徒さんですね。あんな子たち相手の毎日は、楽しくてしようがないでしょう、・・と話すと、こんな応えが返ってきました。
・・いえいえ、体力勝負ですよ。
たしかに、ある程度歳をとると、「若さ」に接するだけで疲れますものね。それも毎日毎日のことともなれば、体力勝負というのもわかります。しかも、こちらは老いてゆくばかり。敵は毎年、入れ替わって新しくなるのですから。
なお、(前述の)彼は、度重なる「妨害」にもかかわらず、美事、栄えある’一位’でゴールしたそうです。
お参り
とりあえずのゴールは山門の手前。しかし「遍路ウォーク」の最終ゴールは、大窪寺本堂・大師堂での参拝です。むろん参拝は、強制されてはいませんが、見た限り、全部の生徒が向かっているようでした。
勝利(克己)の報告でしょうか、学業成就のお願いでしょうか、痛い足を引きながら本堂へ向かう姿は、たしか、私たちにも「覚え」があるような・・。
結願へ
さて、「遍路ウォーク」に夢中になっていましたが、いよいよ私たちも、自分たちの「結願」に向かわねばなりません。
仁王門をくぐります。その大きさが印象的です。
なお、大窪寺にはもう一つの門、二天門があります。いつしか定まった、私たちのお参りの仕方からいえば、私たちは二天門から入るべきだったのですが、この時は気づきませんでした。
石段
「結願」の時がきたというのに、よく話に聞く「感動」のようなものは、私の中には生じていませんでした。
もちろん嬉しさはありました。やや神妙にもなっていました。けれども、それらは「感動」と呼べるような、非日常的な感情の動きではありませんでした。その意味では、私はいつも通りだったのです、
淡々と石段を上ってゆきました。
藤
玉泉寺でも見ましたが、この時季、藤が満開でした。
ミツバチがいっぱい来ていました。ご利益いっぱいの蜂蜜になることでしょう。
お大師さん
撮りはぐりましたが、藤棚の側に、大師堂があります。本堂にお参りした後、またここまで引き返してきます。
大きな大師像は、弘法大師 御入定 一千百五十年記念 の像です。
小さなお大師さん
「万体お大師さん」とでも言いましょうか。前々号に寄せられた天恢さんのコメントを思い出し、掲載しました。
お杖
寶杖堂(ほうじょう堂)というのだそうです。歩き終えた人たちのお杖が、奉納されています。
これらは毎年、春と夏、「柴灯護摩供」で供養されるのだそうです。ただし私たちは、持ち帰ります。
原爆の火
寶杖堂の前に「原爆の火」がありました。
ヒロシマ・ナガサキは、残念ながら、まだ過去のこととはなっていません。
現在のことです。
青い桜
売店のおばさんが、・・青い桜が咲いてるよ、・・と教えてくれました。
私が知る「青い桜」は葉桜を意味しますが、おばさんが言うのは、葉ではなく花でした。初めて見る花でした。
・・ありがとう、・・と声をかけると、気合い声が返ってきました。
・・大きな声でお参りするんよ、お大師さんに聞こえるようにね!
本堂と胎蔵峰・女体山
本堂が見えてきました。しばらく立ち止まり、眺めました。
・・では、参りますか、・・と北さん。
・・参りましょう、・・と私。
声を交わし、本堂前へと進みました。
ローソクを灯し、線香を立てました。動作が、いつもより心なしか丁寧だったでしょうか。
読経は、いずれかが読み始めると、他方がそれに和して始まります。この時は、私が始めました。一瞬、おばさんの「気合い」が頭を過ぎりましたが、出てきた声は、いつもの声でした。
本堂
読経は、いつも通りに終わると思われました。
ところが、・・ 羯諦羯諦 波羅羯諦 ・・と読んだときのことです。私の中に変化が起こりました。
心が大きく揺れてしまい、絶句しそうになりました。北さんが動じることなく読み続けてくれたお陰で、自分を取り戻すことが出来ましたが、危ないところでした。
何が私の心を揺らしたのでしょうか。
言葉化することは難しいのですが、あえて一言でいえば、それは・・悔い・・だったのだと思われます。
二天門
その引き金は、はっきりしています。
実は・・ 羯諦羯諦 波羅羯諦 ・・の部分は、私の読経への集中が、必ずと言っていいくらい、途切れる部分なのです。
一番霊山寺で般若心経を読んだときのことです。この部分にかかったところで、私は子供の頃に近所の子たちと遊んだ、”ギャーテー遊び”を思い出してしまったのです。”ギャーテーギャーテー”と声を揃えて叫びながら、その声の可笑しさが面白く、笑い転げるという、実にたわいない遊びです。
二天門へ
ところが困ったことに、以来、どの札所でも、この部分にさしかかると懐かしい友垣が思い出されて、読経から意識が逸れるようになっていたのです。
・・ 羯諦羯諦 波羅羯諦 ・・あの時もいつも通りに、友垣たちと遊んだ記憶が、頭を過ぎったのでした。しかし何故でしょうか。あの時に限って、私に「変調」が生じました。その訳は、説明は出来ません。あえて言えば、それが「結願」という時だったからでしょうか。
私は、我が人生の愚かさを悔いて、心を揺らしていたのです。一瞬、子供の頃の私が、今在る私を照らしたのかもしれません。
とまれかくまれ、このようにして、私は「結願」しました。
店
さすがは結願寺の門前です。食べ物処や土産物店がずらり、並んでいます。
道標
ドイツの母娘と愛知さんは、バスで下山しました。すれ違った車内から、ちぎれるように手を振ってくれました。私たちも振り返しました。楽しい時間をありがとう。お元気で!
写真は「槙川講中」の寄進になる道標です。切幡寺と白鳥(しらとり)→(H23秋4)への方向と距離が示されています。「槙川」は私たちが通過してきたところで、大窪寺まで2キロ余ほどの地域です。今日の地図では「多和槙川」と表示されています。
宿
宿に向かう私たちは、寡黙でした。もうすこしの間、自分だけの思いのなかに浸っていたい、そんな気分だったのでしょう。
張り紙
玄関の張り紙に、
・・お帰りなさい。お疲れ様でした。ゆっくりなさってください、・・と書いてあります。我が家のように、ゆっくり休んでください、ということでしょう。
部屋で休んでいると、・・タダイマー!・・の声が聞こえてきました。あのノリのいい声は、長尾寺で同宿だった函館さんです。
赤飯
函館さんとは、明日、切幡寺まで一緒に歩くことになりました。・・切幡寺下に美味しいうどん屋さんがあるので、一緒に食べましょう。そこでは荷物も預かってもらえるよ、・・とのことで、ならば頑張ってついて行きます、ということになったのです。
新しい出会いは、和泉さんでした。この方、私と同年ですが、22回目を廻っているのだそうです。驚きました。予算のこともさりながら、どうやって時間が工面できたのでしょう。聞きはぐってしまいました。
部屋に帰り、改めて北さんと乾杯。前回の遍路で知り合った、気仙沼さんに電話しました。とても悦んでいただけました。
さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次号では、私たちは四国遍路の円環を完成させるべく、切幡寺に向かいます。更新は、11月15日の予定です。
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