平成25年3月20日(水)、
この斎藤 栄さんが書いた「鎌倉ミステリー紀行」(かまくら春秋社)が私の歴史好きを刺激している。
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2月に鎌倉へ行った時、東慶寺に行ったり、源氏山に行ったり、鎌倉文学館に行ったりした。
その文学館で「ミステリー小説家」として、また、鎌倉に行かりのある作家として、この斎藤栄さんが紹介されていた。
帰ってから早速、図書館にリクエストして、借りたのがこの「鎌倉ミステリー紀行」である。
あまり期待して読んだわけではなかったが、読み始めると、今まで歴史の断片に接してきた知識が、つながる快感を経験できてホント面白かった。
是非、このブログに 載せておいて、実際に訪ねてみようと思う。
①大船にある「常楽寺」
三代目の執権北条泰時が妻の母の菩提を弔うために建立した寺。
木曽義高の首塚もある。この義高は、木曽義仲の長男であり、頼朝の娘婿である。非情にも頼朝は、義仲を殺すと、すぐさま、家臣に命じて、婿の首を切ってしまう。冷酷である。
泰時は、かつて歩いたことのある「朝比奈切通し」を開いたとされている。私が歩いた時は、和田義盛の三男、朝比奈三郎が作ったと書かれていた。大男で稀に見る力持ちであっ たから、この切り通しを開いたのだと。だが、実際は和田合戦が終了してから27年も経ってからつくられているし、この朝比奈三郎はこの和田合戦後行方不明になっているというのだ。でも、名前だけは使われて残っている。
なぜなのか。斎藤氏は、このことを、この朝比奈三郎の母は義盛の妾で、巴御前といい、とても大柄な女で、安房ノ国の大陸系の人が住むところで育ったとされ、そこから生まれた三郎は、日本人離れした武将で北条に恐れられていたのではないかということだ。だから追及されずに安房国に逃れられた。でも、みんなに知られていて、人気のあったから、江戸の人が付けたということだ。
ちなみに、その朝比奈切り通しにあった「刀洗水」は、梶原景時が、上総介広常(かずさの すけひろつね)を切った時、その刀を洗ったとされる。確かにちょろちょろ流れていた湧水があった。
②西御門にある来迎寺そばの「太平寺」
鎌倉尼五山の一つで尼が住職をしていた禅寺。尼寺は今では東慶寺だけが残っている。
そこの住職の青岳尼は、古河公方の血を引く、足利義明の娘として生まれた。現在の千葉市あたりに小弓城を持ち、楽しい生活をしていた。ところが父義明は、北条氏綱に敗れて戦死する。そして、娘二人は鎌倉に連れてこられて尼になる。
姉を青岳尼といい、妹を旭山尼と称して、それぞれ太平寺、東慶寺の住職となる。その時おそらく青岳尼は七・八歳であった。そして20年近い歳月が流れ、この間二人は父親の菩提を弔った生活をしていた。
この時31歳になっていた、かって青岳尼の許嫁であり、義明を支えた有力武将であった里見義弘は、何と20年も経ったのに突然、軍艦80隻をつらねて、鎌倉に侵攻して、真っ先に太平寺に突入し、青岳尼を奪い去り、安房国へ連れ去ったのである。そして、還俗させて自らの妻として、晩年まで楽しく過ごしたということである。後北条の3代氏康が、旭山尼宛に手紙を書いているので、ほんとのことなのだろう。すごいロマンスである。愛の強さである。
そして、東慶寺には、太平寺ゆかりの聖観音菩薩立像が あるという。この仏は、かつて太平寺の本尊であったものを、青岳尼は安房国へ持っていった。ところが、その翌年に、旭山尼が急逝してしまったので、妹の供養のために、この仏を東慶寺に渡したという経緯がある。
先月行った時に、こんなことを知らなかったので、この立像を確認できなかった。是非もう1回行って、見てみたい像である。