wakuwakuなエトセトラ

出来ればこのブログで、読書の経歴と韓流ドラマの変遷を残しておきたいと思っています。

「風の群像」杉本苑子著やっと読み終わる。尊氏・直義(ただよし)仲良かった兄弟がなぜ・・・

2012-10-04 21:46:51 | 読書日記
平成24年10月1日 杉本苑子著「風の群像」(上下巻)を読み終える。
   


図書館の本で、リクエストがされていなかったのをいいことに、何度も返しては借りてを繰り返し、5ヶ月くらいかかっただろうか。その間違う本も読んでしまったりして。

たまたま、新聞にこの本の主人公である「足利尊氏」の顔はどんな顔?の記事があった。特徴はタレ目、丸い鼻、下ぶくれであるとされ、
  


この本を読んでいて、一番嬉しかったのは、淵辺義博が出てきたことである。
後醍醐天皇の皇子である護良親王を鎌倉の東光寺(現在の鎌倉宮)に幽閉したのは足利直義であり、手厚く扱ったが、北条が叛乱した時に護良親王を生かしておけなくなって、直義の命により、この淵辺義博が自害する護良親王を介錯した。

私の住んでいる淵野辺の地名はこの淵辺義博からとったもので、大きな沼があって、その淵に住んでいたからこういう名字をつけたのであろうが、淵野辺東の所には館跡もある。
  


また、私は、鎌倉にある護良親王が幽閉されていた鎌倉宮にも行ったことがあるし、尊氏と直義が戦ったさった峠にも上ったことがある。さった峠での戦いはこの本では書いてなかったが、直義が義詮と不和になり北陸の金ヶ崎にいく。尊氏は南朝にくだって直義追討令をもらい、攻める。直義は鎌倉を目指し、尊氏は東海道を東へ東へといき、やはり鎌倉入りを目指す。なぜ鎌倉を目指すのかそこのところはよく分からないが、その途中がさった峠である。北から直義軍、西からの尊氏軍で見(まみ)えたのだろう。

直義の養子になる直冬が子どもの時に住んでいた「宝戒寺」にも偶然にも行ったことがある。ちなみにここは北条代々の当主が住んでいたところで、新田義貞が鎌倉を攻め、北条が滅ぼされた時に、後醍醐天皇の命により北条の御霊を弔うために尊氏に建てさせたものである。



物語は、鎌倉時代末期の執権北条高時の時代から始まり、鎌倉が滅び、後醍醐天皇が建武の新政を起こし、南北朝時代になり、尊氏が征夷大将軍になって室町幕府が成立し、でも安定はせず、尊氏・義詮(よしあきら・尊氏の嫡男)・高師直(こうのもろなお)対直義・直冬(ただふゆ・尊氏の子どもでありながら認めてもらえず、直義の養子になる)らとの戦い、結局駿河のさった峠での戦い(でもこの本ではこのさった峠の戦いの様子は全く書いてなかった)で直義軍が負けて、鎌倉で和睦をするが、直義は自害し、数年後には尊氏も亡くなり、物語が終わる。

尊氏は死ぬ間際、兄弟や一緒に育った家来たちと由比ガ浜で貝を拾って遊んだことや鎌倉の里、大藏ヶ谷(おおくらがやつ)で集まり語って笑いあったことを想い出す。
天下を治めるためには、そして自分の子どもを守るためには、兄弟とて刃をむけなければならなかった、欺かなければならなかった、そんな時代。宿命といえば宿命だが、なんか切ない。