本当の人間関係を学び続ける学徒のつぶやき

人間関係学を学び続ける学徒の試行錯誤

現代社会における福祉関係者の役割

2018-01-20 07:55:48 | コラム

今回は最近特に注目の集まる福祉関係者の役割について考えてみます。

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 日本の現代社会は、医療技術の急速な発達や社会保障制度の発展により高齢化が進み、13年後の2030年には団塊の世代が80歳代に達し、人口の3分の1が高齢者になるといわれています。この超高齢化社会と呼ばれる社会の変化の中で如何に人々が幸せを実現していくかが福祉関係者に与えられた大きな課題です。
 人々の「幸せ」を実現するためには何が必要でしょうか。もちろん、人々の幸せを阻害する要因が貧困であれば、その人に健康で文化的な最低限の生活を営むための経済的支援、あるいは施設の提供などが有効でしょう。また、健康が問題であれば医療サービスが必要になります。しかし、人々の幸せを阻害するものは貧困や疾病だけではありません。
 人は生きものとしてこの社会に生まれ、老い、そして死んでいきます。また、人は様々環境でいろいろな関係を持ちながら暮らしています。よく「人は関係の中で生きていく」といわれますが、実は人間の現実の存在は、哲学者マルティン・ブーバーが指摘したように「関係」そのものです。しかし、人々は現代社会の中でこの関係を忘れ、自己という個に閉ざされてしまうことがあります。この関係が失われている状態では、人々は孤独感や疎外感を感じ苦しみます。人々が本来の人間性を呼び起こし幸せになるためには、一人ひとりに真剣にかかわり人々の関係を回復することが必要です。
 例えば、認知症の高齢者と地域社会や家族との関係を大切にして、高齢者が地域社会の中での役割を認識し、生きがいを感じながら暮すことは、その高齢者や家族だけではなく社会全体の本当の幸せにつながります。福祉関係者はプロとして、人々の関係を回復させるために行政や地域のNPO法人、医療機関や教育機関など様々な組織や専門職と連携し協力して社会全体の幸せを促進していくことが求められます。そして、このことが、現代社会における福祉関係者が果たすべき役割と考えます。

 


書籍の紹介 ~アービィン・ヤーロム著 「ヤーロムの心理療法講義」~

2018-01-13 09:50:00 | コラム

 今回は、アメリカ人の精神療法家であるアーヴィン・ヤーロムの本を紹介します。この本は私の大切なドイツ人の友人が昨年春、筆者に送ってくれたものです。

題名: ヤーロムの心理療法講義
訳者: 岩田 真理
出版社:白揚社、2,800円(税別)
原題: The Gift of Therapy

 アービィン・ヤーロム氏は、「1931年ワシントンD.C生まれ。スタンフォード大学精神医学名誉教授。住まいのあるカリフォルニア州パロ・アルトとサンフランシスコで診療。集団精神療法、実存精神療法を専門とする。精神療法に関する著書とセラピーを題材とした小説を執筆する著作家でもある。」(本書 著作者紹介より引用)

本書のサブタイトルは「カウンセリングの心を学ぶ85講」です。目次には全85講のタイトルが記載され、「共感」、「今―ここ」、「フィードバック」、「自己開示」、「死」、「夢」などのキーワードが並びます。筆者は忙しさにかまけてまだ40講までしか読めていませんが、大学時代に人間関係学を学び、現在IPRトレイニングのスタッフを務めるものには大変示唆に富み興味深い内容となっています。

もちろん、セラピーとIPRトレイニングは違いますし、セラピストと患者の関係とキャタリスト(トレーナー)とメンバーの関係も違います。しかし、対人援助という観点から見ると、セラピストの「患者の治療」を行うという役割とIPRトレイニングでキャタリストの「メンバーの学習と集団の成長」のため援助的な役割は共通しているところが大変多いと思います。

今後、IPRトレイニングがより発展していくためには、かつてのIPRトレイニングを超えていく必要があります。そのためには、アービィン・ヤーロムやヴィクトル・フランクルのセラピーの取り組みを参考にしながら、あるいは、取り入れながら、IPRトレイニングを進化させていくことが求められると思います。また、この本のように、私たちは広く社会に対してIPRトレイニングの重要性(メンバーの学習と集団の成長の重要性)をわかりやすく伝えていく努力が必要だとこの本を読みながら感じました。


主観的と客観的

2018-01-04 16:39:00 | コラム

昨年10月に掲載した記事を研究会誌に出稿するため清書しました。
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2017年10月1日

 

月に一度、川崎で開催される社会人ゼミでは今、「現場からの現象学 本質学から現実学へ」(早坂泰次郎編著 1999年 川島書店)を読んでいます。昨日のゼミでは「第三章 主観的・客観的ということ ――主観主義・客観主義のあやまり――」を読み始めました。なかなか内容の濃い章なので、3回に分けて内容を簡単に紹介します。なお、このテキストは先生の最晩年の時にまとめられた本です。

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 私たちは職場や学校で日常的に主観的とか客観的という言葉をよく使う。客観的は肯定的、主観的は否定的に使われることが多い。特に報告書や提案書など公共性や正確性が求められる文書を書く時には極力主観を排除し客観性を高めるように指摘されたり指導されたりする。私も職場で人事査定に直結する目標管理報告書を作成するときには、誰が見ても正しく判断ができるように定量的な数字と基準を明確に記載するように厳しく求められる。この「誰が見ても正しく判断できる」ための根拠が「客観的」ということになる。一方、「主観的という言葉は、現代の人々にとって大変イメージのよくない言葉である。」とテキスト第三章の冒頭(p.48)に書かれているが、ビジネスシーンでも「主観的なことは非論理的で、特殊的であってあてにならない」(p.48)というのが常識だ。ユーザー向けに提案書を作成すること一つをとっても、提案書作成会議やレビュー会議で、如何に曖昧さを排除するかという目的のために、この提案の根拠は何か、想定される顧客課題の仮説と検証はどうか、見積工数と納期の定量的根拠を示せ、などと指摘され、提案内容が客観的であることが至上命題となり、主観的な表現は曖昧であてにならないこと、あるいは「属人的なこと」として排除される。

 この章の主題の一つはこの私たちが普段慣れ親しんでいるこの主観的と客観的とは対極のことがらで、客観的になるためには、主観は徹底的に排除しなければならないという我々現代人の常識に対しての疑問である。先生は先ず、そもそも主観的とは何かということかを、語源を同じくする主体的という言葉と比較しながら吟味する。「主観的」も「主体的」も明治期に西洋から入ってきた概念であるsubjectを翻訳した学術用語(術語)であるが、一般に術語的な言葉を日常語として安易に使うことの怖さを指摘する。本来言葉には曖昧さが付き物であり、むしろこの曖昧さこそが言葉の豊かさを作りだすが、日常生活で我々が主観的・客観的・主体的など明確な一義的意味を実現するために造られた言葉(術語)をよく注意しないで使うと、その言葉が持つ論理的・分析的な性格がその言葉を使った人間を逆に規定し縛り付ける危険性があるというのだ。この怖さの事例として、先生はIPRトレイニングの経験からいつも自分を客観的に保とうと頑張り続けたあまり総てに無感動になってしまったり、感情を殺し続けた結果「失感情言語症」になりかけていたりする人の存在を挙げる。(p.53~p54) 

 先生はカントのコペルニクス的転回や超越論的主観、現象学などを引き合いに出し「客観は主観がつくりだしたものだ」というオーストリアの現象学者ステファン シュトラッサ―の言葉はもはや現代哲学の常識となっているのではないかと述べる。それにもかかわらず現代人が「主観的」という言葉に否定的なイメージしか持てなくなったのは何故か。先生は、心理学や社会学などいわゆる実証的方法に強く傾斜した分野やテクノロジーと結びつきの強い自然科学の分野の知識や関心が広く行き渡ったこともあるが、「客観すなわち物質的存在は主観すなわち意識とは独立に存在し、前者が第一次的であって、後者、主観はそれの属性であり、客観を反映するものに他ならない。」「哲学辞典」(1982年 平凡社 早坂引用)と説く弁証論的唯物論が広く深く浸透した影響もあるのではないかと述べる。(p.55)  そして、哲学を学ぶ人の常識とそれ以外の多くの人々の日常的感覚との乖離の原因の一つを「多くの哲学者たちの関心が殆ど何時でも本質の解明を目指す本質学に集中し、日常の経験に向けられることはあまりなく、したがってこうした乖離をうめることにも無関心だという事実にある」と、本質学にとどまり現実に目を向けようとしない現代哲学者の姿勢を、「たてまえとしては立派でも、きれいごとに終わってしまっており、現実の指針や力になりえない」と厳しく指摘します。(p.56)

 

2017年10月7日 

  このテキストのサブタイトルが「本質学から現実学へ」とあるように、本質学だけに集中するのではなく「現場(臨床)からの」現象学を目指していこうというのが、長年、IPRトレイングを主宰してきた先生の大きなテーマですが、ここでは主観的と客観的の話に戻りましょう。

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 単にモノを見ること、例えば自然科学では天体の運行や組成の分析、生体組織の観察と検査などで、極力誤差のない正確なデータが求められる。このことは至極当然のことであり、自然界の千差万別な対象や現状にできるだけ接近するためには欠かせないことである。また、コンピューターテクノロジーの世界でもプログラムを設計するときに機能をモデル化し、極力プログラムの可読性を高め、開発プロセスを分業化して属人性を排除することが品質と効率を向上させるために重要とされる。このように自然科学やテクノロジー(技術)の分野では確かに正確さや高品質、高効率を実現するために客観性は有効であり大きな力を持つことは間違いない。しかし、対象が人間の場合はまったく様相を異にする。

  かつて哲学者マルティン・ブーバーは著書「人間の間柄の諸要素」の中で「だが私が私の存在の持つ隠れた働きによってこの対象化に或る乗り越えがたい制限を付け加え得ることが人間の持つ特権なのである」(「対話的原理Ⅱ」みすず書房 P.91)と述べたように、人間は人間をモノやコンピュータープログラムのようにどこまでも対象化し客観化することはできない。あえてそれを人間が人間に対して強行しようとすれば、それは強制になり暴力につながりかねない。自分を他者からモノのように対象化され観察されたら人間はどう感じるだろう。病院で医師が患者に触診したり検査したりするが、これは患者という人間(人格)に対してではなく、患者の病気に対してである。また、患者は医師という病気の治療の専門家という職業と技術を信頼して自分の病気を医師に見られること、病気を対象化されることをいとわない。(テキストP.25にも記述があるとおりここでいう医師は精神医学・精神科医の多くを除く。)繰り返しになるが、ここでは対象化されるのは病気であって患者そのものの人格が対象化されるのではない。

   私は職場で目標管理報告書を作成するとき、定量的な目標設定と評価基準を決めて上司と握るがどこか空虚な感覚を持つのは何故だろう。私はサラリーマンだから会社の仕組みややり方に従って書類を作り評価を受けることは仕方がないことではある。しかし、仕事に対して自分が感じている悩みや辛さ、情熱や喜びを定量的な目標設定や評価基準で表現するのには限界がある。結局、自分は会社から定量的に管理されるだけの存在で、人格を持つ存在・主体的な存在として仕事にかかわる可能性を狭められているという息苦しさがこの虚しさの原因なのかもしれない。このことは日常の生活でのごく些細な例であるが、極端な例は、フランクルの『夜と霧』に書かれている収容所のように自分(収容者)を他者(ナチス)からモノのように対象化され客観的に観察されたり判断されたりする場合である。そのような状況で収容者として生きたら、どんなに苦しく、寂しく感じるだろうか。収容者は相手に恐怖と戦慄を感じ、さらに怒りを感じ、絶望に耐えながら必死に希望を見出して生きていくに違いない。これがブーバーの言う「人間の持つ特権」だと思う。

 人間の現実存在に集中するIPRトレイニングではこのような「人間の持つ特権」の感覚・実感を参加者は体験する。(もちろん、IPRトレイニングと先の収容所の例とは別物である。)参加するメンバーの中には自分では意識せずに相手をモノとして客観的な対象としてみてしまう傾向の強い人が少なからず存在する。こういう人たちは、IPRトレイニングの場で相手の人間を身なりやうわべだけの態度で判断し、相手の人格をしっかりと受け止めて相手に視線を届けようとはしない。また、このような人は自分の本当の姿(人格)は自分だけが知っていて、他者は知りえないと思い込んでいることが多い。そんな時、彼(彼女)から視線を向けられた相手の人が「見られた感じがしない」と言ったり「冷たい感じがする」と言ったりすることがよくある。人間相手ではモノのようにはいかない。生身の人間である相手はモノとは違い感情で反応するのだ。彼(彼女)は次第にグループから孤立していき、グループには何とも言えない空虚感と焦燥感が募っていく。

 

2017年10月7日

 メンバー同士が視線をかよわせることに集中し、人間の現実存在に気づき、本当の人間関係を学習するIPRトレイニングのことは別の機会に紹介していくとして、ここでは再び主観と客観の話に戻りましょう。

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 前回書いたように、モノを対象とする自然科学ではモノのあるがままの現象をとらえるため、あるいはあるがままの現象に接近するためにコンピューターや精密な科学機器を駆使し、より正確で多量なデータを処理し分析することが必要となる。このことには、私もなんら異論はない。しかし、今ここにいる人間のあるがままの現象をとらえる現実学としての人間科学(臨床の知)のためには、自然科学のこの方法では限界がある。私たちはカントのコペルニクス的転回や「客観は主観がつくりだしたものだ」というステファン シュトラッサ―の言葉に立ち戻らなければならない。

 先生は、「科学機器や技術を使うこと、それによって数量的解析を行うことだけが科学的研究であり、『客観性』の実現だと信じている人々――その人々は同時に、人間の認識から『主観』を完全に排除できると信じてもいる――にことを欠かない。」(p.64)と述べ、このような態度を「客観主義」とし、「主観の基礎が客観であり、客体であるとする見方」(p.62)と指摘する。そして、「『主観』も『客観』も、ともに人間の認識の在り様なのだから、基本的に自己という主観の働きであることは否定しようのない事実である。『科学者』を自称する客観主義者が口にし、文字にする『主観と客観は正反対のことで、主観は排除しなければならない』という通念が根拠のないものであることはもう明らかであろう。」(p.66)といい、私たちが普段慣れ親しんでいる「主観」と「客観」に対して抱くイメージや常識をものの見事に打ち砕く。さらに、先生は「まず認めなければならないことは、そもそも認識とはことごとく――科学的認識を含めて――主観的だという事実である。」(p.66)と強調する。

   先生は、主観的認識の在り様を、「主観主義的」と「集合主観的」、「共同主観的」の3種類に分類する。「主観主義的」とは、私的な主観に留まる思い込みだけの主観をいい、「集合主観的」とは、私的な主観の集合であり、多数知=客観的という感覚が偏見を醸成する土壌となる。「共同主観的」とは、「様々な分野の専門家たちを、それぞれにあるがままの現象へと開いていく主観的認識」(p.61)をいう。そして、共同主観的の在り様は、訓練された小数知――専門家の知――であり、「訓練されていない原始的な多数知よりも、「あるがままの現象の認識」という意味においてより客観的であることを明らかにしている。」(p.61)という。

 「客観的」の意味が、私たちが使っている「主観」と正反対の意味ではなく、先生がいう「あるがままの現象の認識」という意味とすれば、客観的になろうという努力とは、如何に私たちの主観を大切に育て、訓練していくかということになる。そのためには、たとえば自然科学や科学技術の分野では、正確なデータや数値が必要になることもあろう。しかし大切なことは、私たちが人間である以上、さらに相手が人間である場合には、私たちの主観を如何に鍛えていくのかが最大の課題になる。再びテキストから引用するが、先生は「自分の主観を大事に育て、豊かにしていくことこそが客観化への歩みでもあるわけである。」(p.67) と述べ、「臨床の場とは、『臨床の知』の方法を『主観主義』や『集合主観』が『共同主観』的認識へと成長し、客観化されていく訓練と学習の場でもあるわけである。」(P.67)とこの章を締め括っている。

   現代社会では、ICTやビッグデータ解析、AIなどコンピューターテクノロジーの急速な発展とその成果によって、主観と客観が対極としてとらえ、極力主観を排除しようとする風潮がますます勢いを増してきている。また、企業において様々な管理がコンピューターによって合理的に実現されていく反面で、人間関係が抑圧されたり希薄になったりする傾向が強まってきているように感じる。このまま、自分の主観を押しつぶされたくないと思う時、どうやったら自分の主観を大切に育て、豊かにしていくことができるのだろうかと自問する。また、自分の主観を大切にするためには、多数知の中に埋没せず、洗練された小数知の孤独を覚悟することが求められることを自覚する。客観主義や主観主義、多数知に埋没してしまい、人間である自分を失わないためには、一歩一歩しっかりと主観を鍛えながら歩んでいくしかない。

  私は、今までの長い会社生活の中で、自分が相当「客観主義」に毒されていることを感じている。自分の主観とは別に、確固たる客観的なものが存在しているという錯覚、例えば会社の評価や、給与査定、社会的地位に対する受け身の感覚を簡単に取り去ることは難しい。

今、自分にできることは、IPRトレイニングのスタッフとしてスタッフやメンバーと「今、ここで、見て、感じ、伝える」訓練と学習を積むことと、川崎の社会人ゼミに参加し現象学の学習を重ね自分の主観を更に洗練していくことだと思う。