自民独裁政権が報道に対して復讐
リクルート事件に端を発する一連の政治スキャンダルは、竹下、宇野の2つ の内閣を吹っ飛ばした後も断続的に続き、最後には小沢一郎一派の造反で自民党を政権から引き摺り下ろすところまで行き着いた。しかし当然のことながら、権力は「飼い犬の手を噛んだ」記者たちに対する激しい報復に出た。先述したように、もともと本当の意味で権力から独立できていないジャーナリズムが、 権力の逆鱗に触れれば、身の毛もよだつような報復が待っているだろうことは 想像に難くない。
まずは椿発言事件だった。当時テレビ朝日の椿報道局長が、あたかもテレビ 朝日が全社的に自民党政権の崩壊を意図的に画策したかのような文脈で使った「久米・田原内閣」という台詞の録音されたテープが、外部に流れ、それをサ ンケイ新聞が一面トップで伝えたことに端を発する事件だ。自民党は偏向報道 を理由に、椿氏を国会に証人喚問するなどして、飛ぶ鳥を落とす勢いだったテ レビ朝日の報道局長を社会的に抹殺した上に、テレビ朝日に対して放送免許の更新に条件を付けるなど、下手をするとテレビ朝日というチャンネルが本当に消えてしまいかねないほどの厳しい制裁を下したのだった。
この事件の後遺症は非常に大きかった。確かに椿氏の発言そのものは、例え非公式なオフレコ会議の場であったとしても、報道局長という責任ある立場にあるものとしては不用意だったといわざるを得ないが、それにしてもメディア が本来の役割ともいえる、堕落した権力のチェックという当然の行為を行うと、 その後そのメディアにどのような災いが降りかかるかを、このケースは露見さ せてしまった。また、そのような事態に陥った際に、日本のジャーナリズムに は連帯らしい連帯が皆無で、誰も助けてくれないことも、この事件が明らかに した。
効いた脅し
その後の政治報道の凋落振りについては、周知の通りである。多くの国民が のぞむ政治の変革の可能性が垣間見えても、メディアは自民党の逆鱗に触れることを恐れ、変革の手助けをことごとく拒んだ。国民の多くの期待を担った新 党が登場しても、メディアは新党現象を「冷静に」伝えるよう、細心の注意を払うようになった。椿発言の反省から、「より公正な報道」を心がけようという動機からであれば結構なことだが、その背後にあるのは、報道機関、とりわけテレビ局の幹部が、単に椿報道局長の二の舞になることを恐れるあまり、踏み込んだ新党報道にブレーキをかけた結果に過ぎなかった。サラリーマン記者たちにとっては、椿氏の二の舞となる可能性は、彼らのペンを鈍らせるだけの十分な動機となり得たようだ。
例えば3年前に民主党が発足した時のことだ。菅直人、鳩山由紀夫ら、これ までの自民党とは明らかに一線を画した若い世代の台頭に、多くの有権者が変革の風を期待した。当初、民主党に対する有権者の関心は非常に高く、また、その民主党に何らかの死角があれば、それをもしっかりと有権者に伝えること が、ジャーナリズムとしては当然の役割だったはずだ。
しかし現実には、マスコミ、とりわけ有権者に大きな影響を持つテレビの報 道には、極力民主党だけに焦点を当てた報道を避けようとする姿勢ばかりが目についた。筆者も当時民放のニュース番組に関わっていたが、民主党に触れるのであれば必ず同等、あるいはそれ以上の時間を割いて自民党を扱わなければ ならないという雰囲気が、業界全体に満ち溢れていた。椿発言に端を発する政治権力の報道への介入は、これだけ重く暗い傷跡を残していたのだった。このような状況では、政界に新しい風など期待できるはずも無いではないか。
さらに強めるメディア規制・言論介入
椿発言事件以降も政府、自民党は報道機関に対する有形無形の圧力をかけ続けている。そして此度の自自公の政権協議の中で、報道への圧力はついに来るところまできた。9月1日、連立のための政策協議を終了した自民、公明両党は、人権侵害を理由に「報道内容をチェックする中立公正な第三者機関設置の検討」をすることで合意に達している。ニュースステーションによる所沢ダイオキシン報道やプライバシーの保護に問題があったとされる臓器移植報道などを理由に、明らかに報道を監視することを目的とする新たな機関の設置に向かって動き始めたのだ。これは政治権力による報道への制度的な介入に他ならない。
もしかするとこのことは、戦後私たちがアメリカから与えられた言論、報道の自由という民主主義の崇高な理念を、その価値を必ずしも十分に認識することのないまま、ついにそれを部分的とはいえ手放すところまで来てしまったことを意味しているのかもしれない。結局私たちは、報道の自由という ものを、最後まで本当に自分たちのものとすることができなかったということなのだろうか。
報道をチェックする第三者機関という制度は、北欧やドイツに見られるオンブズマン制度のように、既に権力から独立したジャーナリズムが確立している 国で、報道の行き過ぎ、とりわけ商業理論の先行によるプライバシーや人権侵 害に対する歯止めという意味で設けられたもので、日本のようにもっとそれ以 前の問題を抱える国でこのような制度ができれば、それが権力の言論介入に利用されることは自明の理である。
こうしてみると、日本も朝鮮もアジアでひとくくりなのが現状だといえよう。
大事なのは、反社会的だと思う企業には協力しないこと。
不労・不買・不利用を実行すること。
例えばライブドアが反社会的だと思うなら、ライブドアブログは使わない。
ちょっといい条件出されたら、すぐ協力するような人間ひとりひとりが日本のあり方を決めている。
リクルート事件に端を発する一連の政治スキャンダルは、竹下、宇野の2つ の内閣を吹っ飛ばした後も断続的に続き、最後には小沢一郎一派の造反で自民党を政権から引き摺り下ろすところまで行き着いた。しかし当然のことながら、権力は「飼い犬の手を噛んだ」記者たちに対する激しい報復に出た。先述したように、もともと本当の意味で権力から独立できていないジャーナリズムが、 権力の逆鱗に触れれば、身の毛もよだつような報復が待っているだろうことは 想像に難くない。
まずは椿発言事件だった。当時テレビ朝日の椿報道局長が、あたかもテレビ 朝日が全社的に自民党政権の崩壊を意図的に画策したかのような文脈で使った「久米・田原内閣」という台詞の録音されたテープが、外部に流れ、それをサ ンケイ新聞が一面トップで伝えたことに端を発する事件だ。自民党は偏向報道 を理由に、椿氏を国会に証人喚問するなどして、飛ぶ鳥を落とす勢いだったテ レビ朝日の報道局長を社会的に抹殺した上に、テレビ朝日に対して放送免許の更新に条件を付けるなど、下手をするとテレビ朝日というチャンネルが本当に消えてしまいかねないほどの厳しい制裁を下したのだった。
この事件の後遺症は非常に大きかった。確かに椿氏の発言そのものは、例え非公式なオフレコ会議の場であったとしても、報道局長という責任ある立場にあるものとしては不用意だったといわざるを得ないが、それにしてもメディア が本来の役割ともいえる、堕落した権力のチェックという当然の行為を行うと、 その後そのメディアにどのような災いが降りかかるかを、このケースは露見さ せてしまった。また、そのような事態に陥った際に、日本のジャーナリズムに は連帯らしい連帯が皆無で、誰も助けてくれないことも、この事件が明らかに した。
効いた脅し
その後の政治報道の凋落振りについては、周知の通りである。多くの国民が のぞむ政治の変革の可能性が垣間見えても、メディアは自民党の逆鱗に触れることを恐れ、変革の手助けをことごとく拒んだ。国民の多くの期待を担った新 党が登場しても、メディアは新党現象を「冷静に」伝えるよう、細心の注意を払うようになった。椿発言の反省から、「より公正な報道」を心がけようという動機からであれば結構なことだが、その背後にあるのは、報道機関、とりわけテレビ局の幹部が、単に椿報道局長の二の舞になることを恐れるあまり、踏み込んだ新党報道にブレーキをかけた結果に過ぎなかった。サラリーマン記者たちにとっては、椿氏の二の舞となる可能性は、彼らのペンを鈍らせるだけの十分な動機となり得たようだ。
例えば3年前に民主党が発足した時のことだ。菅直人、鳩山由紀夫ら、これ までの自民党とは明らかに一線を画した若い世代の台頭に、多くの有権者が変革の風を期待した。当初、民主党に対する有権者の関心は非常に高く、また、その民主党に何らかの死角があれば、それをもしっかりと有権者に伝えること が、ジャーナリズムとしては当然の役割だったはずだ。
しかし現実には、マスコミ、とりわけ有権者に大きな影響を持つテレビの報 道には、極力民主党だけに焦点を当てた報道を避けようとする姿勢ばかりが目についた。筆者も当時民放のニュース番組に関わっていたが、民主党に触れるのであれば必ず同等、あるいはそれ以上の時間を割いて自民党を扱わなければ ならないという雰囲気が、業界全体に満ち溢れていた。椿発言に端を発する政治権力の報道への介入は、これだけ重く暗い傷跡を残していたのだった。このような状況では、政界に新しい風など期待できるはずも無いではないか。
さらに強めるメディア規制・言論介入
椿発言事件以降も政府、自民党は報道機関に対する有形無形の圧力をかけ続けている。そして此度の自自公の政権協議の中で、報道への圧力はついに来るところまできた。9月1日、連立のための政策協議を終了した自民、公明両党は、人権侵害を理由に「報道内容をチェックする中立公正な第三者機関設置の検討」をすることで合意に達している。ニュースステーションによる所沢ダイオキシン報道やプライバシーの保護に問題があったとされる臓器移植報道などを理由に、明らかに報道を監視することを目的とする新たな機関の設置に向かって動き始めたのだ。これは政治権力による報道への制度的な介入に他ならない。
もしかするとこのことは、戦後私たちがアメリカから与えられた言論、報道の自由という民主主義の崇高な理念を、その価値を必ずしも十分に認識することのないまま、ついにそれを部分的とはいえ手放すところまで来てしまったことを意味しているのかもしれない。結局私たちは、報道の自由という ものを、最後まで本当に自分たちのものとすることができなかったということなのだろうか。
報道をチェックする第三者機関という制度は、北欧やドイツに見られるオンブズマン制度のように、既に権力から独立したジャーナリズムが確立している 国で、報道の行き過ぎ、とりわけ商業理論の先行によるプライバシーや人権侵 害に対する歯止めという意味で設けられたもので、日本のようにもっとそれ以 前の問題を抱える国でこのような制度ができれば、それが権力の言論介入に利用されることは自明の理である。
こうしてみると、日本も朝鮮もアジアでひとくくりなのが現状だといえよう。
大事なのは、反社会的だと思う企業には協力しないこと。
不労・不買・不利用を実行すること。
例えばライブドアが反社会的だと思うなら、ライブドアブログは使わない。
ちょっといい条件出されたら、すぐ協力するような人間ひとりひとりが日本のあり方を決めている。