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自発的と積極的の情愛

SNSで最近話題(?)のセリアのガラスペン欲しンゴなわたくしさんです。

 サムネはまだ青いレモン。米津玄師。


 「~られる」は
受身「あいつにプリンを食べられる
可能「この実は食べられる
尊敬「天皇がプリンを食べられる
自発で「食べる」難しいので、「感じる」を使うと「十分に美味しいと感じられる」。「その食い方は不味いと思われる

 といった具合に。

 でも、用法でいくと、自発というのは"勝手にそうなってしまう"というニュアンス、自分で制御できない内心的なものなのに対して、割と日常的に使う自発は、むしろ自分の意思や制御できることに使われているような気がするんですよね。
「自発的に活動に取り組む」とか「自発的に発言する」だとか。つまり「積極的に」と言い換えられるというか。

 別に言葉の使い方云々について言及したいのではなく。
 この話がどこへ向かうのかといえば、「愛」です。

 わたくしは「愛」の探究者なので。


 岡田斗司夫の動画で昔、『愛情というのは自然に湧くものではなく、愛そうと思うことが愛なのだ』的な話をしていたのが印象的で、キリスト教的な愛の話だったのかな。

 つまり、『自発的な愛』を望めないから『積極的な愛』に切り替えていくのだと。

 つまり『自発的』と『積極的』は場合によっては正反対なニュアンスを持つのやも分からんな。

 もうひとつ、印象深いことがあって、それはとあるゲーム実況の動画だったんですよね。
 その題材のゲームが恋愛シミュレーションで、OPの前だから後だかに複数人いる攻略対象の美少女の1人がランダムで出てくるんです。
 で、多分実況者は完全初見だったみたいで、そのランダムで出てきた美少女を攻略すると決めたらしいです。他の美少女キャラクターを掘り下げようとすることもなく。「運命の人(ランダムで出てくる演出の美少女)じゃないから」という理由で。
 他に可愛らしい美少女キャラクターがいるにもかかわらず。"ランダムで出てきたから"という理由で。

 もしかすると、「~だから」という理由で愛することってできるのか?という感じ。惰性にも似ているが。
 「カノジョだから」「妻だから」ひいては「(親が決めても)婚約者だから」、その人に恋心はなくても、そういう立場にあるから、好きでいられるというか、好きということにしておける。

 「もう好きじゃないから」という観念がない。恋愛感情による付き合いではない。

 でも、多分、わたくしもこのタイプな気がしています。
 それはまた「愛」とは別のものなのかも分からんけれども。
 事勿れ主義っぽそうでもある。保守的で。


 ま、わたくしには何かを愛するという能がないから仕方がないね。薄情なんです。


 エッセイ書いてみたいんですけど、エッセイってこういうことでいいんですか?ブログと何が違うんだ?




 



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