建築家のヤカン

個人的覚え書き。UPは順不同!(汗)(ワタシは建築家でないです。。。)

『シルビアのいる街で』~シルビアと

2010-09-22 | cinema f.d-f
いう街で。

はじめにスペイン語らしきもので白い字のタイトルが出る。
そのフレーズの、一番最後、”SYLVIA”というところだけをそのままに残して、前の部分がそっくりフランス語に入れ替わる。
フランス語タイトルには”DANS LA VILLE DE SYLVIA”とある。
もし英語にしたならば、”IN THE TOWN OF SYLVIA”に相当するだろう。 
”TOWN OF SYLVIA”。シルビアの街。
この「OF」は、所有のOFであるようにも読める。
あるいは同格のOFであるようにも読める。
「シルビアのいる街」というよりも、「シルビアという街」という風に。

実際、『シルビアのいる街で』は「街」そのものが映画の「視線の対象」である映画に見える。
つまり、「主人公」のひとりが「街」である映画に。
「街」の映画であること。”第2夜”パートが「追跡劇」であること。追跡者が男性であり、追跡されているのが年月を置いた以前知っていた女性であること。
これらの点が『夜顔』のことを思わせる。
もっと共通点を探すとしたら、追跡者の男性が訪れる「カウンターの向かい側が鏡張りのバー」が出て来ることもふたつの映画で似ている。

大きな違いは、『夜顔』の追跡者&被追跡者が共に年配者であったのに対して、『シルビアのいる街で』の両者は若々しい男女であること。
それに何より、『夜顔』セヴリーヌさんは完全に確定されるのに対し、『シルビアのいる街で』”シルビア”さんは、最後まで確定されない。
”誰”がシルビアさんなのか、”シルビア”さんとは”誰”なのか、この映画を通じて現れる”シルビアさん像”は最後まで曖昧さを保っている。
”シルビア”さんを追い求める青年の頭&心の外に”存在””実在”したのかさえはっきりせず謎のまま、曖昧だといえる。

個人として存在する誰かというよりも、様々な多くの女性を通じて、それらの像を重ねてブレ続ける輪郭の曖昧な多層の像。
”シルビア”さんとはそうしたものに思える。
青年が、自分のノートに書いた文字「彼女達」が伝えているように。
ノートの中には青年によるスケッチ描きの「女性像」達がおさめられている。「街」そのものであるかの様な女性達を、青年はスケッチにして自分のノートにおさめて持ち歩く。それらの像は、多くのページで線が重なって像が何重にもなっている。

実際映画そのものもまた、多重になった像を、画面に示す。
カフェのシーンでは、手前の人物・奥の人物がひとつの画面に重なって示される。あるいはガラス張りのカフェ外壁の上に映る像と、ガラスの向こうにある像とが重なって示される。
ガラスの上&向こうの像の重なりは、路面電車を写した画面でも徹底的に活用されている。

全ての人物、全ての事物が意図的に動かされ、配置されている。
いわば、全部が完全に「人工的」。
カフェの客達、「通行人」、道路工事や掃除人達、あらゆるささいな「脇役」達の、何と画面に出張って来ていることか!
「作られたもの」としての存在感。
全ての細部が「計算」されていることは、同じ「通行人」ex.花売り/小銭乞いの男性 が何度も別シーンに姿を現すことからも見てとれる。
この点が小津さん映画のことをそっくり思わせる。
「画面」だけではなく、「音」に関しても全く同様。この映画の「音」は、非常に注意力を喚起させるものがある。例えば音の「遠近」等、全部が「計算」されつくされているから。
言い方を変えれば画面&音声において全ての細部が「わざとらしい」。この「わざとらしい」には、悪いニュアンスは全然なくて。この「わざとらしさ」(細部に渡るまで全てが”演出”されていること)こそが、この映画の強い魅力。小津さん映画でやっぱりそうであるように。

第1夜ー第2夜ー第3夜と三部に分かれている。
”夜”というタイトルがつくけれど、画面上に現れる街は”夜”には見えない。夕刻あたりに見える。
”第1夜”は青年の宿泊するホテルの部屋から始まり、舞台はカフェに移る。
このパートの終り、運ばれてきたコーヒーをテーブルの上にひっくり返すアクションが、実に秀逸である。

”第2夜”。舞台は街頭にテーブルを並べたカフェ。
カフェのシーンでは、視線を発する青年の画面と、カフェの客達(女性達)の画面とが、交互に示される。
実はこの2種類の画面の関係をはっきり示すショットは、映画の中にはほぼ無いと言ってよい。
2種のショットは完全に切り離されており、例えば各画面に示された2者間の位置関係を語るショットはほぼゼロ。
ただ、映画を見る者は、視線を発する顔のショットと、何らかの事物(対象)のショットとが交互に示されると、前者は「見る者」であり、後者は「見られるもの」(前者の画面が発する視線の対象)であると、半ば無意識のうちに「想定」する、のだ。
前の画面と後の画面とを、前の画面から発せられた「視線」が繋いでいる、と。
これは映画を見る者の「習慣」から来ている、と考えるべきなのだろうか?それとも「習慣」以外の何か「根拠」が、こうした「想定」にはあるのだろうか?
とにかく『シルビアのいる街で』を見る観客のほとんど全てが、カフェのシーンで青年は「見る者」であり、切り替えされるショットは「見られるもの」であるのだと、ごく「自然」に考えるだろうと。
ただし、この映画の場合、その「想定」にひとつの「根拠」を与えるものは、確かにある。
「スケッチブック」。青年の手元にあるノートには、青年によって「見られるもの」(青年画面が発する視線の対象)がスケッチされているはず。
このノートだけが、「見る者」画面と「見られるもの」画面とを確実につなぐ「根拠」である、と言えるだろう。このノートがこの映画に於いて非常に大きな「意味」を持ち、大きな位置を占めるものであることが、ここからもわかる。

こうした画面(2種画面の関係が完全に切り離されている)が続くからこそ、このシーンの終りに起こることが、大きな「事件」なのだ。
カフェ店内の席を立って去る女性の後姿を青年が捉え、その後を追う。
この時始めて、「見る者」と「見られるもの」との関係は、画面の上にはっきり示される=女性の後姿とそれを追う青年の後姿とがひとつの画面の中に入る。
ここで初めて確実に、「見る者」は「見られるもの」に視線を送っていると「確信」出来る。「見る者」(青年)と「見られるもの」(女性)とを繋ぐ「視線」が、画面の上、画面の中に「ある」(観客に見えている)と言えるのだ。

ここから始まる「追跡」も、スリリング。
女性の「視線」を、映画は画面に入れようとしない=後姿だけを示し続ける。
女性(の後姿)は前進移動画面で、追う青年(の前姿)は後退移動画面で示される。
青年だけが画面に「視線」を発し、追われる女性はそれを持たない。
街中での移動がこうして続いてやがて。
「シルヴィ...!シルヴィ.....!」
青年が、後姿に声を掛ける。
”シルヴィ!”というこの声は、実は映画はじまって間もなくに、すでに映画の中に登場している。青年の宿泊するホテル前の路上を捉えたショット。その中に、遠くからかすかに聞こえる音が響く。「シルヴィ!シルヴィ!」とその声は言っている。
この時の声は、どこから響いているのか同定は出来ない。
今度の呼びかけは、確かに青年から発せられている。
すると!
映画ははじめて、女性の「視線」をその画面の中に入れる=女性の前姿が示される=後退移動画面で女性の前進が示される。
ひとつの画面の中に、青年の視線&女性の視線、両方の視線が実際に存在している(路上を前進するふたりを前から捉えた画面)。
この画面が現れた時の、その特別感、突出感は、当然それ以前の画面のあり方(女性の視線を画面内にいれない)から来ているだろう。
徹底的に「計算」された演出法というこの映画のスタイルが、ここにも見てとることが出来る。

やがて路面電車の中で、青年と女性とが肩を並べて立つ。
この場面のはじめ、女性は顔に大きな黒メガネをかけて、その「視線」を完全に隠している。
後に映画の終り近く、”第3夜”、路面電車の停留所にて、やはり大きな黒メガネを掛けた女性の姿が示される。他の人々や通行する列車の陰を透かしてその向こうに見え隠れするこの女性の顔は、ドキッとするような非常に特別な形象をしている。

この路面電車の中で、青年と女性とははじめて言葉を交わす。
会話の内容は、彼女が青年の探す”シルビア”ではなかった、ということである。
「6年前にバー”飛行士”で会ったでしょ?君はコンセルヴァトワールに通ってるって」(”飛行士”という名前がロメールさん映画のことを連想させる)。
「違う...違うわよ。この街には1年前に来たの」。
女性が”シルビア”ではないとキッパリ否定されるところで、映画は青年と女性の顔とを同じ画面に入れて示す。
2人の視線が最も親しく同じ画面の中にある時。それが”シルビア”さんが否定される時であるとは。
ある意味、非常に皮肉な演出。
走る路面電車の窓から見られた街の光景が画面に示される。列車の線路に面して、商店が並んでいる。そのショウウィンドウのガラスに、走る路面電車自身の姿が映っている。
「像の重なり合い」という、この映画では繰り返し見られる現象が、ここでも見られる。
青年は、がっくり肩を落とす。
「人違いだったなんて...最低、最低だ.....」「たいしたことじゃないわよ。気にすることないわ」。
「最低、最低だ」を繰り返す青年に向けて、女性はきっぱりと仕草を示して見せる。口の前に、指を一本立てて。「もう何もいわないで」と。
この時の女性の”シッ....”の顔も、やがて青年のノートに記されているのを見ることが出来る。

”第2夜”の終り、青年はバー”飛行士”を訪ねる。
バーの中は、やはり多くの女性達で賑わっている。隣の席の女性に、青年は親しげに顔を寄せて何か話しかけている。
バーの中の女性達も、カフェの女性達と同じように、それぞれが青年の視線の対象であるかのようにしてその姿が画面に示される。
バーのシーンが終わると、青年の宿泊している部屋の光景になる。
ベッドの上に、女性の寝姿がある。
向かい合って、それを見つめる視線を発する青年の寝姿。
この女性は、バーカウンターで隣り合っていたあの女性だろうか?薄暗さや乱れた髪の様子などから、顔がもうひとつはっきりとは認識出来ない。
優しい、親しげな視線を、青年の顔は発している。まるでこの女性が探している”シルビアさんであるかのように。

”第3夜”。第3夜の舞台は街頭、その中心は路面電車の停留所。
このパートでも、様々な、多数の、多様な「女性達」の姿が入れ替わり立ち代わり画面に示される。
やはり全ての女性に、青年が探す”シルビア”さんの姿が宿っているかのようにして。
どの女性もその一部が”シルビア”さんであるかのようにして。

通り過ぎる路面電車の「ガラス窓&扉」を利用した「像の重なり合い」を示す画面が、非常に魅惑的。いくつもの女性像が、その上で、それを透かしたその向こうで重なり合い、輪郭を交差させている。
やがて、音立てて一台の列車が、スピードを上げて通り過ぎる。
画面の中を(そしておそらく青年の視覚の中を)次々と通り過ぎて行くガラス窓の中に、瞬時、紛れも無くくっきりと”シルヴィア”さんの姿が現れる。
”第2夜”、青年が追った、どこか憂いのあるあの女性の姿が。
この場面の驚きと新鮮さには、特筆すべきものがある。

移動するガラス窓の上にor向こうにくっきりと現れたこの姿を締め括りとして、映画は終りを迎える。
奇跡のような出来事が起こった後の街は、何事もなかったかのようにおだやかにさりげない。
”シルヴィア”さんを映した列車が通りすぎた後の、路面電車の線路。
人々が、街の通りを行き交う。

”シルヴィア”さんとは誰だったのか?
”街”こそがひとつの”シルヴィア”さんだったのではないか。
女性達の像がいくつもに重なるこの”街”こそが。
おだやかな街の通りの様を映して、映画が終わる。


(EN LA CIUDAD DE SYLVIA[DANS LA VILLE DE SYLVIA]/JoseLuisGUERIN/Spain・France)