前回記事を掲載したのが昨年の9月と、1年以上の時間が空いてしまいました。
この1年で私の仕事や周辺の環境も変化し、1年前には全く想像もできなかったというのが実感です。
今年の新入社員研修をした時に気が付き、研修の中でも話したのですが、私が入社した20数年前当時の部長がちょうど今の私と同じ年齢で、そういった意味では今年の新人と私とちょうど同じだけ
年齢が離れていたということになります。
自分では若いつもりですが、新入社員から見るとえらく年食ったおっさんに見えるんだろうな・・・自分もそうでしたから。
当時はまだ仕事にも昭和の感じが残っており、一方、バブルが崩壊したといいつつもまだその余韻が残っているような時代でした。
当時は新入社員でなんの実績もありませんでしたが、心構えとしては”できないことはない、明日は自分たちが作る”ぐらいのことを思っていたように思います。
今からすると鼻持ちならない若者だったと思いますが、根拠のない自信に基づいたバイタリティーはあったように思えます。
その後バブルの崩壊やITバブル、またITバブルの崩壊、その後もリーマンショックなど目まぐるしく世情は変わりました。不思議なもので、同じように警鐘を鳴らしている人達がいるにも関わらず、その中に入っていると周りが見えなくなるというか、大きな目で見ればモノは変われど同じような過ちを繰り返しているんだな、と振り返ってみれば気が付くことです。
働き方もずいぶん変わったと思います。もちろん、自分も役職を持つようになり、当然仕事のレイヤが変わったのもあるのですが、一つ感じるのは仕事が非常に細分化され、全体が見えにくくなっている気がします。たとえば、インターネットが日本で商用化された90年代の半ばであれば、自分でPCにTCP/IPをインストールし、設定して動かしたため、トラブルシューティングまで自分で行いました。そのため、TCP/IPを理解することができ、そこからネットワーク機器やセキュリティ機器が出てきた際にも本質の理解は早かったと思います。現在はほとんどなんの設定もせずにすぐにPCをインターネットに接続することができ、また、デバイス自体もスマートフォンやタブレットに置き換わりつつあります。
その一方で我々の生活そのものがインターネットなしでは成り立たないほど依存度が高くなり(メールやAmazonでの買い物、Lineが使えなくなっただけでパニックが起こりますよね)、一方インターネットを使うためのテクノロジーはその数が増えるとともに高度化し、細分化されていっています。つまり、自分の知識や携わっている領域は広範囲をカバーしていると思っても実は全体の一部でしかないことは往々にしてあります。また、自分の知識と現実を比較すると現実の方がはるかにスピードが速く変化し、いくら勉強しても知識が追い付かない気がします。情報は氾濫し、スマホなどのデバイスで容易に情報が得られ、情報の需要と供給という観点から考えれば完全に供給過多の状態になっているともいえます。
最近よく考えるのはこのような時代にどのように働くか、ということです。
当然、自分の職務を全うするのがビジネスマンとして当然のことなわけですが、まずは自分の範囲を決めてしまわないことだと思います。先ほどのとおり、自分の知っている範疇は実は細分化されたサイロの中の一つであり、そのサイロの中に留まっていると世の中で起こっている事象に気が付かないばかりでなく、気が付くと大きな流れに飲み込まれている=時代遅れになっていることになりかねません。一見関係なさそうなジャンルの話も興味を持って情報として仕入れる、という姿勢が必要なのではないでしょうか。
また、時々は自分のやっていることを俯瞰して見る必要もあると思います。俯瞰して見る、といってもそんなに簡単なことではないように思えますが、例えば私は、いつも温故知新という言葉を思い出すようにしています。
誤解があるといけないのですが、“前にやってうまくいったから”もしくは“前にやってうまくいかなかったから”といったような短いスパンでモノを見るのではなく、それこそ歴史上の史実や因果律などをたどって照らし合わす、とでもいったらいいでしょうか。
例としてよいかわかりませんが、私の場合、いろいろな問題やトラブルが一気に重なった時は、織田信長が足利義昭、武田信玄、比叡山など周囲を敵で囲まれ、挙句の果てに朝倉を攻めに行ったら浅井長政に裏切られ退路を断たれたという史実を思い出します。
ほうほうの体で逃げ帰った織田信長がとった戦略は“近攻遠交”と“各個撃破”でした。結果、織田信長は危機を脱し、その勢力を広めていったわけです。
この戦略は私が今でも四面楚歌に陥った、と思った時には十分に通用しています。
しかしながら、その史実を知らなければ、実際自分の身に起こっていることが世界で初めて起きたことと感じ、どのように対応していいかわからないとパニックに陥るかもしれません。
先に述べたとおり、直接的に仕事にかかわりがなくても、いろんなことに興味を持ち、知ることがモノの考え方だとその人の行動にまで影響を与えるのだと思います。
昔から読み継がれている書物はよいと思います。
おそらく無数の本が昔から出版されてきていて、その大半は世の中から消え去っていったのでしょうそれ何十年、何百年と読み継がれている書物はおそらく真実ないしそれに近いことが書かれているからなのだと思います。温故知新、先人の知恵をうまく使うことが今の時代を生きていくことなのかもしれませんね。
しかしながら、ハウツー本のようにその知恵はその通りすればすぐに役に立つ、といった性質のものではなく、頭に片隅にあって、自分の理解が進む年齢になって、なおかつそういった場面で思い出して初めて役に立ったと思える、というものなのかもしれません。
この1年で私の仕事や周辺の環境も変化し、1年前には全く想像もできなかったというのが実感です。
今年の新入社員研修をした時に気が付き、研修の中でも話したのですが、私が入社した20数年前当時の部長がちょうど今の私と同じ年齢で、そういった意味では今年の新人と私とちょうど同じだけ
年齢が離れていたということになります。
自分では若いつもりですが、新入社員から見るとえらく年食ったおっさんに見えるんだろうな・・・自分もそうでしたから。
当時はまだ仕事にも昭和の感じが残っており、一方、バブルが崩壊したといいつつもまだその余韻が残っているような時代でした。
当時は新入社員でなんの実績もありませんでしたが、心構えとしては”できないことはない、明日は自分たちが作る”ぐらいのことを思っていたように思います。
今からすると鼻持ちならない若者だったと思いますが、根拠のない自信に基づいたバイタリティーはあったように思えます。
その後バブルの崩壊やITバブル、またITバブルの崩壊、その後もリーマンショックなど目まぐるしく世情は変わりました。不思議なもので、同じように警鐘を鳴らしている人達がいるにも関わらず、その中に入っていると周りが見えなくなるというか、大きな目で見ればモノは変われど同じような過ちを繰り返しているんだな、と振り返ってみれば気が付くことです。
働き方もずいぶん変わったと思います。もちろん、自分も役職を持つようになり、当然仕事のレイヤが変わったのもあるのですが、一つ感じるのは仕事が非常に細分化され、全体が見えにくくなっている気がします。たとえば、インターネットが日本で商用化された90年代の半ばであれば、自分でPCにTCP/IPをインストールし、設定して動かしたため、トラブルシューティングまで自分で行いました。そのため、TCP/IPを理解することができ、そこからネットワーク機器やセキュリティ機器が出てきた際にも本質の理解は早かったと思います。現在はほとんどなんの設定もせずにすぐにPCをインターネットに接続することができ、また、デバイス自体もスマートフォンやタブレットに置き換わりつつあります。
その一方で我々の生活そのものがインターネットなしでは成り立たないほど依存度が高くなり(メールやAmazonでの買い物、Lineが使えなくなっただけでパニックが起こりますよね)、一方インターネットを使うためのテクノロジーはその数が増えるとともに高度化し、細分化されていっています。つまり、自分の知識や携わっている領域は広範囲をカバーしていると思っても実は全体の一部でしかないことは往々にしてあります。また、自分の知識と現実を比較すると現実の方がはるかにスピードが速く変化し、いくら勉強しても知識が追い付かない気がします。情報は氾濫し、スマホなどのデバイスで容易に情報が得られ、情報の需要と供給という観点から考えれば完全に供給過多の状態になっているともいえます。
最近よく考えるのはこのような時代にどのように働くか、ということです。
当然、自分の職務を全うするのがビジネスマンとして当然のことなわけですが、まずは自分の範囲を決めてしまわないことだと思います。先ほどのとおり、自分の知っている範疇は実は細分化されたサイロの中の一つであり、そのサイロの中に留まっていると世の中で起こっている事象に気が付かないばかりでなく、気が付くと大きな流れに飲み込まれている=時代遅れになっていることになりかねません。一見関係なさそうなジャンルの話も興味を持って情報として仕入れる、という姿勢が必要なのではないでしょうか。
また、時々は自分のやっていることを俯瞰して見る必要もあると思います。俯瞰して見る、といってもそんなに簡単なことではないように思えますが、例えば私は、いつも温故知新という言葉を思い出すようにしています。
誤解があるといけないのですが、“前にやってうまくいったから”もしくは“前にやってうまくいかなかったから”といったような短いスパンでモノを見るのではなく、それこそ歴史上の史実や因果律などをたどって照らし合わす、とでもいったらいいでしょうか。
例としてよいかわかりませんが、私の場合、いろいろな問題やトラブルが一気に重なった時は、織田信長が足利義昭、武田信玄、比叡山など周囲を敵で囲まれ、挙句の果てに朝倉を攻めに行ったら浅井長政に裏切られ退路を断たれたという史実を思い出します。
ほうほうの体で逃げ帰った織田信長がとった戦略は“近攻遠交”と“各個撃破”でした。結果、織田信長は危機を脱し、その勢力を広めていったわけです。
この戦略は私が今でも四面楚歌に陥った、と思った時には十分に通用しています。
しかしながら、その史実を知らなければ、実際自分の身に起こっていることが世界で初めて起きたことと感じ、どのように対応していいかわからないとパニックに陥るかもしれません。
先に述べたとおり、直接的に仕事にかかわりがなくても、いろんなことに興味を持ち、知ることがモノの考え方だとその人の行動にまで影響を与えるのだと思います。
昔から読み継がれている書物はよいと思います。
おそらく無数の本が昔から出版されてきていて、その大半は世の中から消え去っていったのでしょうそれ何十年、何百年と読み継がれている書物はおそらく真実ないしそれに近いことが書かれているからなのだと思います。温故知新、先人の知恵をうまく使うことが今の時代を生きていくことなのかもしれませんね。
しかしながら、ハウツー本のようにその知恵はその通りすればすぐに役に立つ、といった性質のものではなく、頭に片隅にあって、自分の理解が進む年齢になって、なおかつそういった場面で思い出して初めて役に立ったと思える、というものなのかもしれません。