いのちの木
主なる神様はエデンの園の中央にいのちの木を生えさせられました。これは善悪の木とは違い、取って食べても良い実でしたが、アダムはこれを心に止めず、決して手をつけようとはしませんでした。
今でもいのちの木のようにとって食べても良いのに、多くの人々が目も向けずに心を止めて、手をつけようともしないままの、本当は一番、園の中で尊い積極的に食べるべきすばらしい木があります。
それは園の目立つ中央に生えていながらも無視されたいのちの木のように、世界の全ての人々の中央に目立って堂々と準備されている、目を開けば探すのにも難しくない、いのちの木であるイエス・キリストの十字架です。いのちの木にいのちの実が結んだように、十字架の木にはいのちの実である主なるイエス様が結ばれたのです。誰であれ、この御方をいのちの木の実として信じて取って食べ、内に受け入れるならば、永遠のいのちを持つ復活の体を持つことになるのです。
「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません
。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」(ヨハネ六・五三、五四)。
食べてはいけない性質の善悪の木の実とは正反対に、これこそ積極的にとって食べなければならない、なくてはならない食物なのです。
結ばれた実と木自体はごく小さな隠れたような短い接点の茎(へた)によって結ばれており、それは人の手でももぎ取れるほどの小さなものですが、しっかりと木に実をつなぎ止める役割を果たし少々の風が吹いても絶対落ちないようみごとに結ばれております。同様に十字架の木に結ばれた永遠のいのちの実であるイエス様と、十字架の木の間にもごく小さなへたによく似た形を持つその役割を果たす接点がありました。それは、風が吹いてもしっかりと十字架の木につなぎ止める役割を果たした手足に打ち込まれた釘だったのです。これがイエス様の御体をはずれ落ちないように十字架という木に結びつけていた接点だったのです。しかし、へたはいつしか必ず除かれるように今イエス様の復活によりて取り除かれております。
こういうわけですから、いのちの木、十字架の御元へ大胆に行って、いのちの実なるイエス様の御言葉という果肉を積極的に食べて受け入れ、その果汁のようなイエス様の血潮でいのちに富む、復活の体をいただきましょう。