ヨブの腫物
ヨブの試練を信仰の目で見る時、そこにもイエス・キリストの模型を見ることができます。ヨブは東洋一のVIPでしたが、全ての財産を失う試練に会いました。同じように、イエス様はもともと天国の王の王であられ、一番のVIPでした。しかし、この世に来られ、貧しさの呪いを体験され、十字架に至っては、全ての財産を失われました。実に最後の一枚の下着さえもです。
次に、ヨブの試練は腫物によるもので、足の裏から頭の頂まで悪性の腫物で打れたのです。今日の医師が聖書の記述から診断し、処方箋を書くならば、ヨブの病は悪性のらい病であったといいます。それは律法によると呪われた人の受ける、汚れた病と考えられておりますが、イエス様もこれを体験されました。すなわち、イエス様の御頭の頂には、呪いの象徴いばらの冠が押さえつけられ、その針によって頭の頂までうたれ、イエス様の御足にいたっては、足の裏まで貫通した釘がありました。
こうしてむち打ちの全身の傷も加わり、イエス様は足の裏から頭の頂まで病に犯されたヨブに劣らない程、足の裏から頭の頂まで全身、肉体的な激痛に打たれていたのです。
最後にヨブの試練を更に激しいものとした出来事は、妻や友人たちの責め立てる言葉であり、ヨブにとってそれは精神的な苦痛を増大するものでした。信頼していた妻の裏切りの言葉がヨブを痛めます。
「それでもなお、あなたは自分の誠実さを堅く保つのですか。神を呪って死になさい。」(ヨブ二・九)。
更に、追い打ちをかけるように、その後、ヨブの友人たちが悔やみを言って慰めるために互いに打ち合わせてやって来ました。しかし、結果としてナアマ人ツォファルは律法主義的にヨブを責め、エリファズも自分の経験をもとに語り、ビルダデは先祖たちの言い伝えをもとに語り、いずれもヨブにとっては信仰的ではない、的外れのアドバイザーとして、わずらわしい、慰め手や偽りをでっちあげる者、能なしの医者(ヨブ一三・四)のようであり、いたずらにヨブの魂を悩ませ、内容的にはヨブへの迫害者のような存在となってしまったのです。(ヨブ一九・一~一三)。
ただ、四人目の友人エリフだけが的を得た信仰的なアドバイスを与えていました。そして、これら一連の火の試練を通過した後、最後に主が耐え抜いたヨブをよしとされ、御言葉を与えて語られました。その時、同時に主について正しく語らなかった三人の友人たちに対して主の公義の御怒りは燃え上がったのです。(ヨブ四二・七)。
そこでヨブは主の愛を受けて、実質、迫害者的存在だった三人の友人たちのためにとりなしの祈りをささげたのです。その時、神様の奇跡の御手がヨブに現われ、とりなし祈るヨブ自身が癒しと繁栄を受けたのです。
「ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにし、さらに、主はヨブの所有物をすべて二倍に増やされた。」(ヨブ四二・一〇)。
その後、神様に癒されたヨブの後の半生に生まれた三人の娘、エミマとケツィアとケレン・ハプクについて聖書は「その国のどこにもいないほどの美しい女性だった。」(ヨブ四二・一五)。とあります。
ヨブ自身、知らずして体験したこれら一連の火の試練と、その後の繁栄の生涯とは実に神様の奥義の中でイエス様の受けられる苦難とその後の復活の栄光を現わしていたのです。ここにイエス様の同じような体験があります。ヨブが身近な妻や友人たちから内容的に迫害を受けた以上に、イエス様は身近な愛する弟子たちに裏切られ、十字架を取り巻く迫害者たちにも悪口雑言のうちに御心を痛めつけられました。
しかし、炎のような試練の最後にイエス様は十字架上、自らを釘打つ迫害者なる全人類のために、赦して、とりなしを祈られたのです。(ルカ二三・三四、イザヤ五三・一二)
この信仰の試練に耐え抜いて勝利されたイエス様を御父はよしとされ、神様を愛する者に準備されたいのちの冠を与えて、死人のうちより復活させ、今は完全なる癒しのうちにヨブの試練通過後の祝福のように、復活のイエス様の栄光ははなはだ天上でも地上でも大きくなったのです。
私たちの信仰の創始者であり、完成者でもあられる義なるイエス様について聖書は語ります。
「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」(イザヤ五三・一〇)。
ここでイザヤが預言したイエス様の十字架以降現われる「末長い子孫」とは、末長く永遠にまで生きられる私たちクリスチャンのことです。キリストが足の裏まで通過した釘と頭の頂まである、いばらのとげにより全身サタンに打たれ、血潮を流して炎の試練を通り抜け、三日後の復活と昇天により癒された今、そこから生まれ出た私たちクリスチャンこそイエス様の復活の命で新生した末長い子孫として、ヨブの試練通過後生まれた東洋一美しかった三人の娘たちのように、この世界のどこにもいないほど最も美しく輝く特別な存在なのです。ヨブの試練も、その後に生まれた美しい三人の娘の輝きも全ては私たちの教訓のため、悟りのためです。イエス様の御顔が損なわれた血潮によりて、私たちクリスチャンこそ末長いイエス様の子孫として本当に美しい聖なる民族とされているのです。罪のしみも呪いのかげもなく、聖なる輝く特権ある、由緒正しいイエス様の血潮を受けた神様の血統的家族なのです。自信を持って立ち上がってください。クリスチャンは最も美しい民です。世の人々も本当は内心それを気づき、知っています。クリスチャンの内なる光はキリストの光、全ての命の源なのです。勇気をもって微笑んで、憂いの顔を捨てて明るく顔を上げていきましょう。
神様が味方、イエス様の犠牲があるのです。感謝して賛美して今も、最も輝く神様の子孫となり後には更に輝く栄光の体を受けましょう。内なる人が輝けば外なる人にも影響、感化します。内なる光は最も価値あるものです。神様がご覧になられる時、私たちクリスチャンは皆、この世界で最も美しい御自分の選ばれた民族なのです。
「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。」(イザヤ五三・一一)。 イエス様のいのちの激しい苦しみのあとは、十字架の後のことであり、そこにあるのは残された痕跡、イエス様の血潮であり、救われた末長い子孫、私たちクリスチャンです。そのため、イエス様の満足は、私たちが美しい栄光の体を受けて輝く顔を持ち、喜んで賛美と感謝で信仰に生きる姿を見ることです。あなたが生きて輝けばイエス様は満足するのです。ヨブは美しい娘たちに相続地をただで与えたように、イエス様もやがて美しい私たちに天国をただで与えてくださいます。(ヨブ四二・一五)。