1995年1月17日午前5時46分に阪神・淡路大震災が発生し、6434人が犠牲になりました。
当時、私は大阪にいて関西には大きな地震は起こらないと過信して暮らしていました。
そこに1月17日早朝の大きな揺れ。
ベッドの中にいて、激しい縦揺れ(というのがそのときの感覚。実は兵庫県ではもっと激しい揺れだったことが後に判明する)を感じました。
火の気を確認し、テレビをつけると(電気は通じていた)NHK大阪のアナウンサーが地震発生を報じていました。(この時点では兵庫県のたいへんな状況を伝える情報はありません)
発生後数分で神戸の彼女から電話があり安否を確認しあう。ただ、この時には双方の揺れの程度の認識に違いがあることには気づかず。
大阪市西部では震度四程度だったので、普段通りに外出の準備を進めました。ただ、断水でそのままではトイレが使えず、風呂の残り湯を使いました。
外出するときには家族の車に便乗し(すでに道路はいつも以上に渋滞していました。あとから思えば特に神戸方面に向かう道は大混雑でした)、外出先でテレビを見ていると阪神高速神戸線・建物の倒壊や駅の崩壊など徐々に兵庫県の惨状が明らかになってきたのでした。
阪神大震災第1報
当時、私は大阪にいて関西には大きな地震は起こらないと過信して暮らしていました。
そこに1月17日早朝の大きな揺れ。
ベッドの中にいて、激しい縦揺れ(というのがそのときの感覚。実は兵庫県ではもっと激しい揺れだったことが後に判明する)を感じました。
火の気を確認し、テレビをつけると(電気は通じていた)NHK大阪のアナウンサーが地震発生を報じていました。(この時点では兵庫県のたいへんな状況を伝える情報はありません)
発生後数分で神戸の彼女から電話があり安否を確認しあう。ただ、この時には双方の揺れの程度の認識に違いがあることには気づかず。
大阪市西部では震度四程度だったので、普段通りに外出の準備を進めました。ただ、断水でそのままではトイレが使えず、風呂の残り湯を使いました。
外出するときには家族の車に便乗し(すでに道路はいつも以上に渋滞していました。あとから思えば特に神戸方面に向かう道は大混雑でした)、外出先でテレビを見ていると阪神高速神戸線・建物の倒壊や駅の崩壊など徐々に兵庫県の惨状が明らかになってきたのでした。
阪神大震災第1報