マリの朗読と作詞作曲

古典や小説などの朗読と自作曲を紹介するブログです。
写真やイラストはフリー素材を拝借しています。

花様年華(香港映画)

2022年07月04日 | 本や映画

 

花様年華

 

ウォン.カーウァイ監督の

2000年制作の香港映画。

1962年の香港が舞台で、

ストーリーはいたってシンプル。

同じ家に間借りすることになった

既婚の男女が、

惹かれあいながらも結局は

(おそらく)プラトニックのまま

別れる話である。

こう書くと

ベタ過ぎて身も蓋もないけれど、

あと一歩を踏み出さない、踏み出せない、

二人の心の機微が丁寧に描かれている。

 

 

人口密度が高い香港の住宅事情は、

当時もすさまじかった。

二人はそれぞれの配偶者とともに

間借りするのだが、

本来は1世帯向けの住居に

4世帯が住んでいる感じで、

プライバシーを保つのは難しい。

 

住居でも仕事場でも

窓から外が見えるシーンは一切なく、

建物を出て路地に立っても、

見えるのは路面と壁だけ。

雨が降れば濡れるので、

それが屋外である唯一の証である。

二人の関係の濃さと閉塞感とを

表しているように思えてならない。

 

 

    

全編を通して流れる音楽がすばらしい。

シンプルな弦のアコースティック音色が、

二人で重ねていく時間を

大切に淡々と刻んでいく

 

 

男は一緒に外国に逃げようと誘うが、

女は決心がつかず、土壇場で留まる。

女を失った男は、数年後

カンボジアの遺跡の壁に

苦しい恋の秘密を封じ込める。

男の虚脱感と開放感とを

象徴するかのように、

大空がはじめて頭上に広がる。

 

切なすぎる大人の映画である。

 

英BBCが選んだ

「21世紀 最高の映画100本」の2位なのも

うなづける。

 


竹(若い頃の自作詩)

2022年06月29日 | 私の昔

 

以下に掲載する「竹」は、

わたしが18歳か19歳の時に書いた詩。

学生時代に書いたものは

社会人になるときすべて破棄したのだが、

頭の中にはしっかり残っていたので

再び文字にしてみた。

 

 

 

竹        MARI

 

わたしには、

人ヲ殺シタ覚エはないが、

人ヲ殺シタ恐レはある。

どうにかそれを紛らわせたく、

近所の老婆の家の窓辺に立った。

彼女は魔法使いだった。

わたしの訴えを聞いて、

白い布に呪文をいくつか書いてくれた。

わたしは一瞬、

心の隅でその魔力を疑った。

目と目が合った。

わたしは目を伏せた。

彼女は黙って裏山に入ると、

鉈で太い竹を一本、

バサリと切った。

切り口は冷たく天を突いた。

わたしは家に帰った。

 

夜、風が吹いた。

風は竹の切り口に当たり、

鋭く唸った。

それを聞いていると、

忘れていたあの恐れが

鮮やかによみがえってきた。

耳をふさいでいたが

耐えきれなくなったわたしは、

闇を犯して家を出、

竹藪に火を放った。

 

彼女の家がどうなったか、

わたしは知らない。

 

 

              

 

 

この詩を書いた当時、

三歳上のある先輩に見せたら

こんなことを言われた。

「魔法使いの老婆を信じられないのは、

それが自分自身だからである。

老婆を殺してしまったと

明言してないところが優れている。

それこそが

人ヲ殺シタ恐レに他ならないのだから」と。

驚いた。

作品とは、作者の手を離れて

鑑賞され解釈されるものだと知った。

彼は当時のわたしを

一番よく理解していた人かもしれない。

 

唐十郎の状況劇場に

連れて行ってくれたのも

その人だった。

その後、

鈴木忠志の早稲田小劇場を知り、

一人で何回も観に行った。

白石加代子主演の

「劇的なるものをめぐって抄」を

かぶりつきで見られたのは幸運だった。

夕暮れ時、

開演を待って列に並んでいると、

そばには壊れたビルの

高い壁だけが残っていて

ポッカリ開いた窓の向こうに空が見えた。

そして会場の隣の民家からは

夕餉のみそ汁の匂いが漂ってきた。

なんだか劇以上にシュールで、

忘れられない情景であった。

 

親はいい顔をしなかった。

文学や芝居なんぞに深く関わると

ロクなことにならない、と考える

真っ当な精神の持ち主だったのである。

 

やがて社会人になったのを機に、

わたしは書くことからも

アングラ劇を見ることからも

すっぱりと足を洗った。

それと前後して、

わたしの詩を読み解いてくれた人とも

疎遠になった。

多感と未熟と強い自意識の中で

のたうち回っていた学生時代。

あれから今日まで

よく生きてきたもんだ。

 

 


朗読・狸と与太郎(夢野久作)

2022年06月26日 | 小説の朗読

 

狸と与太郎(夢野久作)

 

与太郎とは

落語などで皆さんご存じのキャラ。

彼が森で狸と遭遇すると・・・。

 

朗読・狸と与太郎(夢野久作)

 


「悟浄歎異(中島敦)」より

2022年06月20日 | 小説の朗読

 

悟浄歎異(中島敦)」より終結部 

 

三蔵法師について天竺を目指す

沙悟浄の手記

 

冒頭の「孫行者(そんぎょうじゃ)」とは

孫悟空のこと。

沙悟浄は三蔵法師のことを

「師父(しふ)」と尊敬する。

 

 

 

俺(沙悟浄)が思うに

孫悟空は行動的大天才であり、

猪八戒は享楽的リアリストである。

それに引き換え俺は、

頭で考えるばかりで行動に移せない。

自分は常に調節者、忠告者、観測者に

過ぎないのか。

悟空からまだ何も学べていない。

   

「悟浄歎異(中島敦)」より

 

夜、星を見上げて野宿しながら、

悟浄は悟空、八戒、師父三蔵法師について

あれこれと思いを巡らす。

特に三蔵法師についての深く美しい洞察が、

胸をほのかに温かくする。

 

 

 

中島敦(1909年~1942年)は

東京生まれの小説家。

漢学の家系に生まれ、

東京帝国大学国文科卒業。

持病の喘息により、

才能を惜しまれながらも死去。

代表作は「山月記」「弟子」「光と風と夢」など。

 


蠅(横光利一)

2022年06月16日 | 小説の朗読

 

動画を公開していなかったので

公開して再投稿します

 

 

蠅    横光利一

 

宿場の饅頭屋のそばにとまっている

一台の乗り合いトテ馬車。

乗客が次々と集まっているのに、

なぜかなかなか出ようとしない。

 

ずいぶんと経ってから

やっと動き出したその馬車には、

猫背の馭者と六人の乗客、

そして一匹の眼の大きな蠅が乗っていた。

 

 

夏の炎天下、

様々な人生を背負った人々を乗せ

馬車は畑や森を次々と抜けていく。 

かの眼の大きな蠅は

車体の屋根の上にその身を休ませ、

馬車と共に揺れて行く。

そして馬車の行く手には

運命の道が待っていた・・・

 

 

           

 

 

高校の国語の教科書で

初めてこの小説に出会い、

深く印象に残った。

同じ作者の他の作品も読んでみたが、

残念ながら

あまりピンとこなかった記憶がある。

 

蠅(横光利一)

 

 

横光利一(1898年~1947年)

福島出身の小説家。  

菊池寛に師事。 

川端康成、片岡鉄平らと

「文藝時代」を創刊し

新感覚派の中心として活躍。