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海の街『南知多町』花屋兄弟日記♪

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唐人お吉物語内海・下田・京都☆1

2012年03月29日 21時38分21秒 | 南知多町 地域に伝わる逸話


【お吉とは?】

幕末・開国史に於いて、幕府に翻弄され 世人に蔑まれ 不遇の一生の果てに 非業の最期を遂げた

とされる実在する人物で、

『唐人お吉』として、罵声や中傷を浴びせられていた。

本名『斎藤きち』という。




【唐人お吉物語】


1841年(天保12年)11月10日に、

愛知県知多郡 南知多町 内海の西端(尾州西端村)の船大工『斎藤市兵衛』と妻『きわ』の間に、次女として、生を受ける。



4歳(1844年(弘化1年))までは、

内海で過ごすも、父が船大工として一旗挙げるべく、女房 娘たちを、伴って、内海を離れ、

静岡県下田市(伊豆国賀茂郡)へ移るも、早くに父を亡くし、

篤志家に里子に出され 船頭相手の洗濯女・酌婦(酌女)となる。



7歳(1847年(弘化4年))の時に、

河津城主『向井将監』の愛妾であった『村山せん』の養子になり、琴 や 三味線 お茶 お花 作法 など を習いました。



14歳(1854年(安政1年))の時に、

村山家の没落により 家族の家計を救うため 3年の年季つきの 芸妓となり、
年季明けには 幼なじみの鶴松と一緒になる予定であった。

その頃から 芸者名『お吉』と名乗る。


子供の頃より、お酒の席についていたり、

琴や三味線も出来る 芸達者な『お吉』は 瞬く間に下田一の人気芸妓となる。



お吉17歳(1857年(安政4年))

アメリカ総領事館(玉泉寺)、日本初代 駐日総領事ハリス・タウンゼントは、

日米外交を行っている最中、慣れない異国暮らしからか体調を崩し、床に臥せてしまう。

困ったハリスの通訳『ヘンリー・ヒュスケン』は、日本人看護婦の斡旋を地元役人に依頼する。


しかし、当時の日本人には、看護婦という概念が理解できず、妾の斡旋依頼だと誤解して、

あまり下賤のものでは、体裁が悪く、逆に家柄が良ければ誰も受けてはくれまい。


と頭を抱えている下田奉行所の 目に留まり 候補にあがったのが、


当時、下田一の芸妓で、

171センチの長身 色白 容姿端麗、立ち居振舞いは 優雅かつ上品で、器量もよく 才色兼備、

『新内明烏(しんないあけがらす)のお吉』とうたわれるほどの評判 と 美貌を兼ね備えた お吉である。

【三味線 新内】

※通商条約を迫るアメリカに対し、幕府側の交渉の引き延ばしのために送られたともされています。


下田奉行所の命をうけ、心ならずも、ハリスのもとへ看護婦 名目の侍妾として、奉公にあがることとなりました。


しかし、病気(顔に腫物)のせいで、3夜で解雇されるも、他に適任者がいなかった為、

ハリスが回復するまでの 3ヶ月の間、奉公をすることとなります。



当時、大多数の日本人は、外国人に偏見をもっており、

外国人に身を任せるのを、恥とする風潮があった。


もちろん、幼なじみの婚約者もいたお吉も、それに当てはまり
結婚も控えていたし、断固として ことわり続けたが、

高給(現在の価格にすると 年棒300万円ほど)のほか、 恋人の鶴松を士分に取り立てるという条件を出され、

鶴松に相談すると
『おらぁ お侍になりてぇ』と言われ、

幕府役人の執拗な説得にも折れ、ハリスの下へ赴くこととなった。


当初 お吉には、同情的な目が向けられたが、

次第に羽振りのよくなっていく お吉に対し、次第に嫉妬と侮蔑の目を向けられるようになる。



ハリスに仕え、その後に出来た腫物という事も拍車をかけ、

お金のために、異国人に身を委ねた。。。

と噂が広まり、


『触れば手が腐り、見れば目が腐る。』などと中傷され、

以後『唐人お吉』と差別される。


幕末 維新の動乱の中 芸妓


当然ながら、仕事が立ちゆかなくなり、

この頃から 酒色に耽るようになっていった。


      (続)



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