他にも 息子の義平 朝長 頼朝、一族の源義隆 平賀義信 源重成、家臣で乳兄弟の鎌田政清とその妻 斎藤実盛 渋谷金王丸らを伴い、
東国で勢力挽回を図るべく、東海道を下るが、その途上たび重なる落武者狩りの襲撃を受け、
朝長 義隆 重成は、深手を負い 命を落としてしまいました。
また 頼朝も一行からはぐれて捕らえられ、
義平は北陸道を目指して 一旦離脱するが再び京に戻って潜伏し、
生き残っていた義朝の郎党 志内景澄と共に清盛暗殺を試みるが失敗し、討ち死にする。
馬も失った義朝 舟を使い 美浜町野間の長田家を訪れるべく 隣の内海に 逃げ延びてきた時、
長田の親戚でもある 鎌田政家と その妻(長田の娘)
武勇に優れた 金王丸 と 僅かな家臣のみを引き連れていました。
やっとの思いで 源義朝一行が、野間の長田 邸についた時、長田は、言いました。
長田『よくぞ遠路はるばる訪ねて下さいました。お疲れでしょう。おくつろぎ下さい。』
長田は、源氏の敗色が濃いということをいいち早く知っており、ここである謀略を考えていました。
『ただ滅びゆくより ここで わしが打ち果たし、平家につかえる足掛かりとなってもらい、今まで長田が尽くしてきた恩情にこたえてもらおう』
あまりにも自分勝手な言い分ではありますが、行動に移します。
政家は、娘に言いくるめさせるか、酒でも飲まして 隔離するたけで、ことすむが、
武勇に優れた金王丸がいると 仕損じる事も考えられたため、
金王丸に
『新鮮な海の幸を食べて頂きたいのだが、めぼしい魚がなくて困っている。今後の旅に出るにも 食料が必要でしょう。
隣の内海で 魚をとってきてくれまいか』と伝えました。
まだ昼間であったため、今きた道を内海へ向かい戻り、内海の漁師を訪ねました。
片道6~7キロ、山道もある 険しい道のりになります。
内海で一晩すごし、野間の長田 邸に戻る最中、野間での異変を聞きました。
先日訪れた 内海の岡部村(現:南知多町内海 岡部区) と 野間の内扇村(現:美浜町野間 内扇区)の間にある別所(べっそ)というところまで、急ぎ足で到達したときに、一人の老婆と出会いました。
その老婆に、
『野間で何かあったのか?』とたずねると
『義朝様が討たれた。』との答えだった。。。
一瞬興奮して 我を忘れた 金王丸は、突然
『ばかやろう!!!』
と叫んで 力いっぱい 老婆を殴り付けてしまいました。
その老婆は、その場で石になってしまったそうで、その石を『うばはり石』といい、その場所を『うばはり谷』といいます。
また うばはり谷には、金王丸が、その時 力任せに大地を踏みつけたために足跡が今ものこり、『金王丸足跡石』と呼ばれている。
我を取り戻した 金王丸は、飛ぶように速く 長田邸を目指すも 、
長田邸待東に 受けていた長田家の兵と 乱戦となり 辿り着けず 逃げ延びたとのこと。
乱戦が繰り広げられた 長田忠致屋敷 跡 と 田上の間に かかる橋を 『乱橋』と呼ぶようになりました。
もう一人の家臣 鎌田政家は、酒を呑まされたところを景致の騙し討ちにあい、
政家の妻(長田の娘)は、政家を丸め込むように諭されるも断り、
長田に馬鹿なことはやめるようにと 訴えるも 捕縛され、あやめられてしまいました。
(政家が討たれ 嘆き悲しみ 川に身を投げて自殺したという説もあります。)
今も内海の山には、
源義朝が座り大岩姓を授けるきっかけにもなった『大岩』
と
『うばはり石』『金王丸足跡石』という史跡が、残されています。
※周辺に駐車場もなく 山道のため 見に行くのには、徒歩が妥当かと思われます。
もし見に行かれる際も、人通りも皆無に近いため その土地のことを よく知った方と同伴 下さい。迷子や脱輪の危険性があります。
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