漂泊亭日乗

英語が不得意なのに、アメリカに来てしまった日本人。彼の眼から見たアメリカ、日本を記しておきたいと思います。

獄門塾殺人事件(金田一少年の事件簿)

2007-10-03 12:27:16 | 書評
遂にコメントにも変な宣伝リンクがしつこく付くようになってしまったので、コメントも事前承認制にしたい。

さて、本題。
書評と言いながら、漫画の書評である(笑)。金田一少年の事件簿が始まったのは、1992年、15年も前だ。当時はまだ学生だった。何度も書いているが、自分は横溝正史や松本清張は大好きだったので、当時よく読んだ。しかし、いわゆる新本格推理という分野の新しい小説は読んだことが無かった(今も読んだことが無いが)。当時は既にこれらのブームは来ていたような気がする。

しかし、推理漫画というのはちょっと目新しかった。しかも、金田一耕助の孫という設定は、大丈夫か?という感じであり、当時の中高生にはあまり受けないんじゃないかというのが正直な感想であった。しかし、読んでみると、怪奇、ロマンといったあたりは、まさに横溝正史、江戸川乱歩という感じで、絵もなかなか良かったので、自分はすぐにはまってしまった。結局、推理漫画の火付け役となり、名探偵コナン(確かコナンの方が遅く始まったと思うが)、不定期とはいえ、未だに続いている。

既に公になっている話なので、書いてしまっても良いネタバレだと思うが、第二作の異人館村殺人事件を読んだときは島田荘司の占星術殺人事件がひらめいた。案の定同じトリックであった(従って、占星術殺人事件を読みたい人は異人館村殺人事件を先に読んではいけない)。そして、更に案の定、島田荘司との間で一悶着起こっていた。

他にも似たようなトリックはあると思う。考えてみれば、エドガー・アラン・ポー以来百数十年の歴史がある推理小説又は探偵小説は、殆どトリックを使い果たしているのではないかと思う。後は、どれだけストーリーを面白くさせるかというくらいしか無いだろう。

話が逸れた。金田一少年は一旦2000年に終了したが(それによって、自分もマガジンを購読するのを止めた)、その後も単発物が年一くらいで連載されている。

単発物は2004年から始まっていたので、こちらに来る前から既にあったようだが、読んでいなかった(連載されているのを知らなかった)。こちらに来てからも既に3作、計4作が発表されていたのだ。獄門塾殺人事件はその3作目。つい、こちらで単行本を買ってしまった。

いつもはトリックの一部だけくらいしかわからないのだが、今回は犯人、トリックともほぼ完璧に解けた(勿論、かなり読み返したが)。なかなか着想なども面白かったが、実際にやろうとするとかなり難しいだろう(金田一少年のトリックは全てそうだが)。

表紙にも書かれているように、宿敵高遠遥一との対決が見物だが、これはいつまで続くことやら。シャーロック・ホームズのモリアーティー教授、明智小五郎の怪人二十面相という感じなのだろうか。

それにしても、当初名前を連ねていた金成陽三郎は何で外れたのだろう。その後、ミステリー民俗学者八雲樹の方で名前を連ねていたが、面白さでは金田一少年には及んでいないと思う。

世田谷一家殺人事件~侵入者たちの告白~

2006-09-13 13:42:49 | 書評
世田谷区上祖師谷で宮澤みきおさん一家が惨殺された事件は記憶に新しいが、もう5年以上が経過している。実は、当時、事件現場の近くに住んでいた。当時は仕事が忙しかったこともあり、あまり意識していなかったのだが、今回この本を読んで、現場が自宅からかなり近かったことを知り、改めて慄然とした。

ちょっと古い言い方をすれば、この事件の下手人は未だに捕まっていない。

「世田谷一家殺人事件」はこの事件及びこの当時日本各地で起こった同種の事件を取り上げたものである。

この本の著者は齋藤寅氏というフリージャーナリストであるが、この本によれば、下手人はほぼ明らかになっているというのである。この本は、そこにたどり着くまでの齋藤氏の取材録ともいえる。

推理小説というよりもルポルタージュなのである程度は許されると思うが、若干のネタバレをすると、この本では本事件を外国人、特に中国、韓国からの留学生による犯罪であると結論付け、それが新たな犯罪形態となることを警告している。また、そこまでわかっていて犯人が捕まらなかった(今後捕まるかもしれないが)のは、警察部内における縄張り争いなどが大きな原因の一つとなっていると批判している。

この本の内容は全て取材に基づいており、推理を交えているわけではないので、その点の信憑性は高いと思う(もっとも、個々人の関係などについてはかなり誇張して書いているのではないかという点も見受けられるが)。ただ、肝心の「証言」がどこまで正しいのかはわからない。本当かもしれないし、彼らが単に自分達を誇張するために嘘を言っているのかもしれない。

しかし、こうした犯罪が増えつつあるのは確かである。現実に外国人による凶悪犯罪は増えている。実は、漂泊亭自身もちょっとした犯罪に巻き込まれたことがある。

一度は、ある中国人によるマッサージ店(卑猥なところではないが、きちんとしたところでもない)に入った際にクレジットカードをスキミングされ、悪用されそうになったのである。幸い、カード会社に通報が行き、保険が降りたので損はしなかった。見ていないところで、第三者がカードをスキミングする機会があったのはそこだけであり、彼らがやったのは確実だ。ちなみに、これは西新橋にあった(もう何年も前の話なのでもぬけの殻だろう)。

もう一つは、車上荒らしである。忘れもしない日韓共催のサッカーワールドカップの最中であった。丁度、日本-ベルギー戦の日だったと記憶している。このときは、助手席のガラスを割られて、車中のコイン(500円程)と使いかけのハイカ(5000円分)を盗まれた。警察を呼んだが、当然、犯人は捕まっていない。さて、これが何故外国人犯罪かと思ったかというと、見えるところに置いておいたとはいえ、車の中にはたった数百円しかなかったためである。例えば、カーナビなどがあったり、財布がそのままあったのならわからないでもないが、たった数百円のために窓ガラスを割るというかなり派手で、かつ荒っぽい行動を取っていることから日本人ではないと推測した。数百円を取るにしてはリスクの大きいやり方をしている。また車の中にあったCDは盗まれていなかったというのもその推論を後押しした。もちろん証拠は無い。しかし、これは外国人犯罪であったと今でも信じている。

日本もいよいよ日本人だけの国ではなくなってきている。偏見を持つわけではないが、少なくともこれまで日本人が日本人同士で暗黙の了解的に持っていた常識は通じない文化が入り、それが増えているわけである。現在のニューヨークもかなり安全だが、自分のみは自分で守るというのは日本以外ではどこの国でも常識である。

そういった意味で、この本は興味深い本であった。宮澤さん一家に対しては改めてご冥福をお祈りし、早く犯人が捕まることを望む。

宮部みゆき責任編集 松本清張傑作短編コレクション中

2006-06-19 02:28:03 | 書評
宮部みゆき責任編集の松本清張傑作短編コレクションの中巻を読了した。上巻を読んで以来、かなり久しぶりである。今回のお題は「淋しい女たちの肖像」と「不機嫌な男たちの肖像」の二つ。

「淋しい女たちの肖像」では、「遠くからの声」、「巻頭句の女」、「書道教授」、「式場の微笑」が、では、「共犯者」、「カルネアデスの舟板」、「空白の意匠」、「山」が取り上げられていた。

前半のうち、「巻頭句の女」と「式場の微笑」は読んだことがあった。前半ではやはり「巻頭句の女」が面白いと思う。これはまさに推理小説仕立てで、謎解きも面白い。「書道教授」もなかなか良かった。これは淋しい女たちの肖像でもあるが、宮部みゆきが分類するところの不機嫌な男たちの肖像でもあると思った。

漂泊亭は、どちらかといえば、後半の「不機嫌な男たちの肖像」の作品の方が好きである。こちらはいずれも推理小説という感じではなく、スリル小説、サスペンス小説という感じか。「空白の意匠」はサラリーマン小説という感じである。

「空白の意匠」以外は、「書道教授」も含めると策士策におぼれるのたとえがぴたりと当てはまるような話である。主人公達が策を練りに練って、完璧なものとするのだが、最後に人間の欲望や弱さが蟻の一穴となって破綻してしまうというものである。そういう意味で非常に人間臭いドラマともいえる。

「カルネアデスの舟板」は、題からすると、上巻に収録されていた「一年半待て」のような法律の弱点を突くとイメージがあるが、ちょっと違う。カルネアデスの板は話の中で出てくるのだが、必ずしもそれが主題にふさわしいかどうかは疑問がある。

ただ、この中では、いくつか興味深い台詞がある。これは教科書検定が始まった頃を舞台にした話なのだが、「戦後、今までの旧い日本歴史は破壊され、その民主化は唯物史観的な左翼の理論に支えられて今日に及んでいる。それを支持してきたのは現場の学校教員である。若い教員ほど進歩的な理論を抱き、全国に厖大な組織を持っている。「偏向的」な本が売れてきたのはそのためである。いや、売らんがために教科書会社がそのような内容をつくったのである。出版会社にイデオロギーはない。イデオロギーを教科書に盛ったのは、商売のための手段に過ぎない。」。これは今のマスコミにも通ずるものがある。「教科書会社」を「マスコミ」に変えても全くおかしくない。

清張はどちらかといえば、左側の人間であったが、こうした見方は非常に鋭いと思う。

そしてもう一つ。「「カルネアデスの板」だって不合理ではないか。海中に突き落とされるのは弱い者であり、板に残るのは力の強い者か、機転の利くものである。結局は、その不合理を合理化し、正当化したにすぎない。・・・いつも、生きるために、力の強い者が勝ちなのである。・・・それを非難するのは、没落者の資格である。」。この意見は清張の生い立ちとも大きな関係があるのかもしれないが、こうした当たり前のようになっていることに対する立場を変えた意見が清張文学の根底にあり、それがこの小説家の小説の面白さと幅広い支持につながっているのだと思う。

沈まぬ太陽最終巻読了!

2006-05-14 14:15:54 | 書評
大分前に御巣鷹山編を取り上げたが、他の本を読んでたり、そもそも遅読だったりした結果、ようやく最後まで読み終わることができた。

最後は少々「悪」に対して鉄槌が加えられるものの、全体としては「不条理」が勝つという終わり方である。

しかし、前も書いたように、ドキュメントに近いとはいえ、やはり「小説」であり、一方とそれに敵対するもう一方を相当デフォルメしていると思う。そのあたりは少し割り引いて読まねばならないだろう。この「小説」を全て実在の出来事と捕らえるのは危険である。

さて、一点だけ、作者が誤解している点を指摘しておきたい。

作者は議員が提出した質問主意書について、閣議決定で幕引きを図ったからけしからんという書き方をしている。これは制度を知らないと言える。

ちょっと前に民主党の質問主意書が多すぎ、相当程度、霞ヶ関を疲弊させていることや鈴木宗男議員からの恰も復讐のように外務省に質問主意書が投げられていることが話題になった。

何故、霞ヶ関を疲弊させるかと言えば、これが閣議決定を踏まえた文書で議長に返されるためである。閣議決定を行うため、内閣法制局などで審査を受けた上、いわゆる関係省庁との調整を行わなければならないようである。

すなわち、質問主意書が出された以上は閣議決定を行わなければならないのである。

作者は如何にも官房長官の入れ知恵で異例な措置を取ったかのように書いているが、閣議決定を行ったとこと自体は、制度に則って淡々と行われたに過ぎない。小説の中では、質問主意書を行った議員も含めて、閣議決定に持ち込んだことを非難しているが、それがけしからんということであれば、そもそも、質問主意書を提出すること自体が問題なのである。

無論、当時は日航(モデルは日航しかない)に関して、政府や与党を含めて色々な議論があったことは確かであろうが、ことこの質問主意書に関してはリアリティーが無い。

小説としてはなかなか面白かった。もし、映画かテレビドラマにするとしたら、恩地=仲代達矢、行天=田宮二郎というイメージだ。

日本航空御家騒動と「沈まぬ太陽」(その2)

2006-03-05 02:43:58 | 書評
「沈まぬ太陽」の続き。

あるサイトで、御巣鷹山編だけ別の登場人物にすればよかったのではという意見があった。御巣鷹山編だけは、その名前が示すとおり、墜落地点もさることながら、被害者の多くを実名で書いている。賛否が別れているのはそのためもある。もし、山崎豊子が企業対個人を主題としたかったのであれば、それでも十分話は成り立ったと思うし、面白味も損なわれなかったであろう。ただ、漂泊亭としては、その後の会長室編を読んでいないので、御巣鷹山編がどのように会長室編に続くのかわからないので、前に書いたとおり、何とも言えない。

それにしてもである。小説は虚構としても、日航が持つ体質は小説とあまり変わらないのだろう。そもそも、激しい労使対立や派閥争いがあったからこそ、こうした小説が生まれる素地があったということである。

しかし、こうした組織は先行きが危ない。派閥が凝り固まっているということは、経営が常に派閥の論理で展開されるということであり、いわゆるお客様志向に無いということである。派閥の論理が優先されると、個人の能力が無視され、社員のモチベーションも下がり、社員の関心も内部にしか行かない。自分としても、こういうことが続く企業の飛行機には命を預けられないというのが正直な感想である。

確かに全日空は日航に比べて高いが、安全を買っていると考えれば安いものである。
(本当にそうかどうかはわからないが、少なくとも1966年の松山沖事故以来は、自社の責任による死亡事故が起こっておらず、近年のトラブルも日航より少ない(らしい))。

組織が大きくなると、自分の本来の事業ではなく、内部管理、内部抗争に目が行きがちである。その典型例は政府であろう。

日本には航空会社は二社しか無いのだから、日航が元々親方日の丸企業、ナショナルフラッグキャリアとはいえ、企業の原点に立ち返って欲しいものである。

これは先日書いた民主党にも同様のことが言える。


日本航空御家騒動と「沈まぬ太陽」(その1)

2006-03-03 15:08:01 | 書評
日本航空の御家騒動は社長が交代するということで、一旦、決着したようである。ネットで、社内クーデターが起こったというニュースを見たときは、ドラマのようなことがあるのだなと思った。

奇しくも、今、山崎豊子の「沈まぬ太陽」を読んでいるところである。丁度、御巣鷹山編を読み終わったところだ。

「沈まぬ太陽」には色々な意見がある。主人公の恩地元については、モデルが存在することから、特に御巣鷹山編については、重大な虚構があるとする批判がある。具体的には、恩地元のモデル(小倉寛太郎という人らしいが)は、御巣鷹山編に出てくるような行動は一切しておらず、前のアフリカ編も含めて主人公を美化しすぎという批判である。

「沈まぬ太陽」と検索するといくつかの文献が出てくるのだが、恐らく、その批判は本当なのだろう。関係者が不愉快な気持ちになるのもわかるが、そこは小説と捉えるしかないのだろう。

確かに、ほぼノンフィクション小説であるのだから明らかな嘘は問題だという意見もわかるが、それでは小説としての面白味が減ってしまう可能性がある(会長室編を読んでないので、まだ何とも言えないが)。

山崎豊子の小説では、例の「白い巨塔」を読んだが、財前五郎をはじめ、登場人物が個性豊かで非常に面白かった。これもモデルはいるだろうが、無論、その人と全く重なるわけではないだろう。

小説は架空の物である以上、そこに出てくる登場人物が普通の人で、普通の行動しか取らないのだったら全く面白くないと思う。以前紹介した松本清張の贋作物でもそうだが、小説の多くが実際の事件、事実などを元に書かれることは多い。しかし、それだけでは単発のネタで終わってしまう。それをデフォルメして、より面白おかしく「物語」に仕立てるのが小説家の真髄であり、それが飯の種になっているのである。善役にしても悪役にしても、それが普通人離れしているから面白いと面白いのだ。

小説家が記者やルポライターと異なるのはそこだろう。逆に、ルポルタージュや新聞はそうなってしまうと価値が無くなってしまう。

(つづく)

今日はここまで。ちなみに写真は本文とは関係ない。

宮部みゆき責任編集 松本清張傑作短編コレクション上

2005-12-28 12:36:16 | 書評
こちらの紀伊国屋で目について、ついつい買ってしまった。全三冊あるが既に中巻も買ってしまっている。

上巻はまだ読んでいる途中であるが、なかなか面白い作品がそろっている。まず、「ある「小倉日記」伝」は必読であろう。これは清張が芥川賞を受賞した作品であり、清張が本格的に作家の道を歩み始めた頃の作品である。清張作品の基礎はこのあたりにあるといっても過言では無いだろう。

上巻でお勧めの作品は「一年半待て」と「捜査圏外の条件」「真贋の森」あたりか。いずれも初期の頃の短編小説である。清張作品の面白さは「蟻の一穴」という点ではないだろうか。犯人や犯罪者は最後の最後まで完璧にやりとおすのだが、本の小さなミスを犯し、そこから犯罪が露見したり、失敗してしまうのである。そして、この「蟻の一穴」は人間の弱い心そのものであると漂泊亭は思うのである。

「削除の復元」も「ある「小倉日記」伝」の延長線上にあり面白い。

宮部みゆきは絶賛しているが、「恐喝者」や「理外の理」はそれほど面白いとは思わない。

とはいえ、好みだけで選ぶとどうしてもある時期の作品が固まってしまったり、べたな選定となってしまったりするのだろう。

今日はちょっと早めの仕事納め。明日からカルガリーにスキーに出かけるので、更新はしばらく無い。

今日はここまで。

国家の罠(佐藤優)

2005-11-14 12:04:45 | 書評
ハワイには1週間近くおり、またNYからハワイまでも10時間近いフライトであったので、本を持っていった。「国家の罠」という、あの宗男疑惑の際に外務省のラスプーチンと呼ばれ、その後逮捕された佐藤優氏が書いた本である。

ここでは自分がこれまで行ってきた仕事と今回の宗男疑惑が国策捜査であったことが書かれている。内容的には非常に示唆に富む本であり、面白かった。当時の外務省というと、伏魔殿と呼ばれて、公金横領の疑惑ばかりが目立ったが、この宗男疑惑について言えば、もっというと、この佐藤氏に関して言えばそういうこととはかけ離れていたようである。まあ、そうであろう。彼は私腹をこやしたわけでもなんでもなく、宗男の懐刀として活躍していたから逮捕されたのである。

この本を読んでいると、こういう仕事をしている外交官もいるのかと感心させられる。彼はいわゆるノンキャリであり、政治家を背後につけて出世しようという意欲も殆ど無かったであろうから(いくら政治家を背後につけてもノンキャリアが幹部になることは非常に難しいであろう)、ここで書かれていることは若干過褒である部分は否めないにしても事実では無いかと思う。

漂泊亭は佐藤氏の主張もさることながら西村検事とのやりとりが面白かった。漂泊亭は西村検事と同じ考えである。宗男疑惑は、小泉内閣の下、国内政治が日本的社会主義から競争的社会に変わろうとする中での、必然的なターニングポイントであったとするものである(著者の言葉を借りれば(ケインズ型からハイエク型へ)。他方、佐藤氏は国際政治の面でも国際協調的愛国主義から排外主義的ナショナリズムへ変化する中で宗男疑惑が槍玉に挙げられたと主張するが、この辺りは疑問である。西村検事の言うように、宗男氏が外務官僚を恫喝したりという案外単純なところに理由があるような気がする。

佐藤氏のこの本の中には母への思いが頻繁に出てくる。独身なのであろうか?また、父親は既に他界されているのであろうか。

いずれにせよ、本を読むだけでも、この著者がかなり有能な人物であることはわかる。まだ、裁判の途中ではあろうが、今後とも活躍して欲しいものである。

今日はここまで。

影の車(原題:潜在光景) 松本清張

2005-09-22 10:47:52 | 書評
たまには、好きな松本清張作品について書こう。

以前、書いたが松本清張作品は短編が面白い。影の車というのは、短編集の表題である。たしか中公文庫であった

それと、もう一つ、これは映画のタイトルでもある。漂泊亭の今回の題は、むしろ映画を意識した。映画の「影の車」は「潜在光景」を映画化したものである。

原作はおそらく昭和三十年代のものと思われる。清張の初期の作品である。ネタバレになるので、あまり書かないが、平凡なサラリーマンが子持ちの未亡人(この未亡人は、そのサラリーマンの幼馴染であるのだが)と出会うところから物語が始まる。男と未亡人と子供。大体何が起こりそうなのかは想像できるが最後の主人公の言葉が圧巻であり、ここに表題の「潜在光景」の意味が隠されている。

清張の短編はクライマックスと表題のマッチングがすばらしい。いつも「ああ、そうだったのか」と唸らせられる。

とはいえ、漂泊亭がこう思うのは正直なところ初中期の作品、昭和三十年代から四十年代の清張作品である。五十年代以降の短編作品についてはあまりよく知らない。どの作家もそうであるが、やはり、初期の十年間くらいの作品というのは、彼らの意気込みがそのまま作品に反映されており、非常に面白い。

「影の車」(潜在光景)は、最近は映像化されていないので(映画は昭和45年の作品)、「砂の器」、「黒革の手帳」、「天城越え」などに比べれば地味であるが、清張作品の真髄を表す作品の一つであると思う。

最近、「影の車」がDVD化されるらしいので取り上げてみた。

漂泊亭はこの作品は何回も観た(無論、ビデオでだが)。もちろん、DVDも買う予定である。Amazonでは岩下志麻が主役となっているが、これは加藤剛(大岡越前にして、「砂の器」映画版の和賀英良!)が主役の映画である。

写真は以前紹介したハーキマーの鉱山。

今日はここまで。

金田一耕助シリーズについて(その2)

2005-08-23 12:02:01 | 書評
横溝正史の小説で面白かったといえばなんだろう。結構読んだが、やはり有名どころか。漂泊亭が好きな小説は、「獄門島」、「犬神家の一族」、「八つ墓村」、「本陣殺人事件」、「夜歩く」、「悪魔の手毬唄」、「真珠郎」、「仮面舞踏会」といったところか。

正史は短編より長編の方が圧倒的に面白いと思う。また、戦後直後の作品の方が面白い。一番脂が乗っていた時期なのだろう。

映像作品では、石坂浩二主演シリーズではやはり第一作の「犬神家の一族」と第二作の「悪魔の手毬歌」か。内容的にはあまり面白くないが、映像の美しさと中井貴恵の演技の下手さ加減が良い「女王蜂」も好きである。

古谷一行主演シリーズでは横溝正史シリーズⅠの作品はどれも面白い。特に「獄門島」は最高傑作といわれている。漂泊亭は「三つ首塔」と「悪魔が来たりて笛を吹く」も好きである(どちらも小説の方は好きではないが)。

Ⅱでは「八つ墓村」、「真珠郎」「仮面舞踏会」と「黒猫亭事件」は面白かったかな。後は松竹の「八つ墓村」も良い。主演はショーケンだが、ショーケンは金田一ではない。ショーケンは田治見辰弥で、金田一は何と寅さんこと渥美清である。設定も現代だが正史もの特有の世の中から隔絶された田舎の雰囲気はよく出ていた。漂泊亭は石坂浩二の犬神や手毬唄に並ぶくらい面白かったと思う。これは推理というよりもホラー映画に近かったが。

何年も前だが、漂泊亭はこの映画で使われた「広兼邸」というのを見てきたが立派な屋敷だった。この周辺は江戸時代から明治時代にかけ、ベンガラで儲けて財をなした家が多く、正史ものに出てきそうな古い家がたくさんある。確か西江邸というのも鶴太郎か誰かのシリーズで使われたはずである。

話がずれたが漂泊亭が面白いと思ったのはここまでで、あとはせいぜい古谷一行の二時間シリーズの初期の頃のものまでだ。正直なところ、鶴太郎のシリーズも小野寺昭のシリーズも稲垣吾郎のシリーズもあまり好きではない。古谷一行もちょっと年を取りすぎであると思う。

以前の回で二時間推理ドラマはワンパターンと書いたが、横溝正史ものはワンパターンのオンパレードである。上記にも書いたとおり、伝奇ロマンに満ち、世の中から隔絶された田舎の村。二大勢力の争い。絶世の美女。複雑な家系。そして風采のあがらない探偵。まさに二時間ドラマにぴったりの素材である。推理小説とは相反するが、話の流れが分かりすぎているだけに、往年の水戸黄門(笑)のように安心して見られる。やはり、金田一シリーズは内容云々よりも「画」として楽しんでいるのである。

こんなこと書いていると、日本に帰ってDiscover Japanの旅をしたい。。。

写真は遂に自由の女神像である。混んでいたがセキュリティは思ったより甘かったような気がする。

今、テレビで911特集をやっている。もうすぐそんな時期か。日本の総選挙の日でもあるが、こちらでは殆ど報道されないかもしれない。

今日はここまで。

金田一耕助シリーズについて(その1)

2005-08-22 00:35:50 | 書評
映画、二時間ドラマといえば、漂泊亭が好きなのは金田一耕助シリーズである。

あの純日本的なおどろおどろしさと洋風な推理小説のマッチングというのは正史が最初ではないかと思うが、あの雰囲気は大好きである。

映画に触発されて横溝正史の本はたくさん読んだ。しかし、あの金田一耕助のイメージが作り上げたのは小説というよりも、むしろ映画だろう。もちろん着物に袴、髪を掻くとフケが霧散するというのは横溝正史が原作にはっきり書いているが、映像イメージとして固定したのは1976年の市川崑監督、石坂浩二主演の「犬神家の一族」だろう。そして、現在も続く金田一モノの原点となったのだと思う。

戦後直後、世の中と隔絶され因習に満ちた、しかし一見平和な片田舎で次々と血の惨劇が繰り広げられる。樋口尚文著「「砂の器」と「日本沈没」~70年代日本の超大作映画」の表現をを借りれば「印象的な背景のもとで花のように「活けられる」小粋な死体たちのビジュアル」ということになろうか。そして、それを愚図愚図しながらも金田一耕助が解決する。その後の金田一モノは多かれ少なかれ、この「犬神家の一族」の影響を受けていると思う。同著では、この映画について内容よりも「画」を先行させたと評したが、まさにそのとおりだと思う。この映画以降、金田一モノは「画」になり、それを楽しんでいるのである。

テレビドラマの「横溝正史シリーズ」も面白かった。後の二時間ドラマではなく、一時間ドラマのシリーズで一つの小説につき3回から6回程度の回数で完結させるというものである。まさに石坂浩二と並ぶ金田一耕助俳優である古谷一行が主演であった。横溝正史的には石坂浩二は格好良すぎるので、古谷一行の方が適役と思っていたらしい。横溝正史シリーズは長い分だけ丁寧に話が進められており面白かった。

第一シリーズと第二シリーズがあったが漂泊亭は第一シリーズの方が好きである。なお、横溝正史の小説は発想的には面白いが、正史は文章が下手であり、小説としての面白さは松本清張にはかなわないと思う。

今日のお店は「酒蔵」。ここはミニ日本である。秋刀魚寿司が美味しい。ご飯を秋刀魚のひらきで巻いてあるのだが、粽を秋刀魚で巻いてあるという感じである。

211 E43rd St., (Bet. 2nd & 3rd Aves.)

写真は引き続き自然史博物館。トパーズの原石である。一緒に写っている手と比べると非常に大きいことがわかるだろう。

今日はここまで。