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阿部重治郎の大道詰将棋見たり聞いたり七十年

2014年06月19日 | book
 北海道将棋連盟発行の故阿部重治郎さんの私家本。前作は白い表紙で少年時代からの継続してきた趣味の詰将棋について、特に大道詰将棋について、晩年にも心も体も健康でつつがなく嗜んでいるとの内容でした。こちらは赤い表紙で内容も冒頭から戦後詰将棋の発起人に警察OBがいて随分と尽力活躍したといきなりの記述から始まります。つまりは、この本では前作とは違って、大道詰将棋とは、一定の均一な人的質的を維持した空間、例えば学校とか会社組織ではなく、開放された空間での解放されたフリーな人間、つまりは放棄された人間で、詰将棋という算術の初歩と根気があれば容易に達成感と自己愛を得られるであろう目的を持った人間から金銭を横奪する詐欺的な行為であると具体的に述べているのでした。一定の後天的なその時代的な価値観を教育された、言語という行動を抑制したり躊躇と選択を義務付けられた思考方法で大道詰将棋を競技させ、錯覚を利用して教授料をせしめる、またはサクラと暴力により気の毒なディープな考えることが得意な世間知らずの青年を閉鎖し監禁し傷害を負わせて金品を強奪するという犯罪が、戦後の大道詰将棋の本質なのであり、また同様の類似の性質の人間社会の事象にも当てはまるであろう、慣習的伝統的な作法であることが、この大道詰将棋見たり聞いたり七十年には述べられているのです。家元制の世襲名人から実力性名人に将棋界が改革された頃、大道詰将棋は組織的に全国に普及しました。将棋という江戸時代には幕府組織と関係が深かった遊戯が規制が撤廃され、実力性という競技人口参加者が増えると同時に、一般に前述の人間社会の慣習と作法も伝播し利用されていったとの事でした。これは、もしかしたら、大道詰将棋だけの現象ではないのではないかと思えてしまうのでした。例えば会社持株がほとんどだった日本証券市場とかインターネット情報接続産業だとか、そしてもしかしたら市場経済という資本主義の、一般人の生活の本質までも、同類の慣習と作法に則って運営されているのではないのかと思えてしまう本の内容なのでした。解放された人間が得ようとする寄る術を、これは吸血鬼に咬まれたものが吸血鬼になるがに等しい連鎖的反応で拡散していく人間の抗えない性なのではないのかと、この阿部重治郎さんの私家本の端書を見ると考えてしまうのでした。たぶん、この答えはサクラと暴力が発生しない一定の品質を保持した空間であるのなら、ちゃんと詰んでいる正解だと思うのでした。最後に、この本の中にある気になる単語で「お兄さん」ということについての個人的な体験からある連想をしました。私がまだ10代だった頃のバブル景気と後に呼ばれた街の雰囲気が幾分は残っていたころ、通っていた予備校からの帰り道、池袋の街角で「お兄さん、どうですか」と声をかけられたことを思い出しました。その掛け声の主は一見するとちゃんとした、働く女性のような外見をしていましたがその前に立つ店の、大人のおもちゃの看板から風俗の女性だと見て取ることができました。学校で誰々が池袋でカモられたというような話を聞いていたのですぐに逃げることができました。その「お兄さん」と言った風俗の人はどこかの放送局のアナウンサーのような外見と印象でしたが何となく日本語がたどたどしく寂しそうな顔をしていたのを憶えています。いつしか私も開放された街角の往来を解放的に徘徊することもない、「お兄さん」とはもう呼ばれない年齢と人種になりました。大道詰将棋という、昭和という時代の激変期に誕生し消えていった庶民の遊戯について、すでに亡くなった阿部重治郎さんの2冊の私家本から懐かしさと感傷が失われた時代とともに思い出されるのでした。



















阿部重治郎の大道詰将棋七十年


「大道詰将棋を作るのは大変ですか?」
「そんなものカンタン……」
今年の詰将棋全国大会開会式でのこと。老生に尋ねたのが高橋和女流二段。看寿賞受賞の栄に輝いた大先生である。思わず「……カンタン」といってしまった。
大道詰将棋には、それぞれに「型」が完成している。この中の、変化・紛れの部分から新しい筋を引き出せば一局完成となる。いざとなれば、大道詰将棋ゆえに許される、駒余り、余詰もOKという逃げ道も用意されているからである。
二十世紀に生まれ、二十世紀に廃れてしまったのが、街頭で大道棋士と客との勝負の大道詰将棋。現在はペーパーの上でしか駒は動かなくなってしまったが、多くのファンに支えられて、今世紀に継がれていくものと信じている。
老生の大道詰将棋を作って解いて楽しんだ七十年を振り返らせていただく。

平成十四年晩秋 阿部重治郎


◇生い立ち
生まれは山形県東田川郡余目町。大正8年10月9日生。
余目町は北前戦船で栄えた酒田市から内陸側にある。
親父の仕事は大工。テレビのコマーシャルじゃあないが大棟梁の五男坊。将棋は三番目の兄貴が竹内八段の元に通っていたこともあって、早くに覚えたようだ。十二歳の時に見た大道詰将棋がこの図。

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この将棋を七十年たった今でも覚えているのは、
大道棋屋のおっさん(というよりも、アンちゃんだった)が店を畳む間際に「飛車を成らない」と、こっそり耳打ちをしてくれた。
家に帰ってから、早速盤に駒を並べて確認。飛車ナラズに大感激をした。これが、詰将棋の神妙性に引かれるきっかけになったのだと思う。

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今振り返ってみれば、昭和6年のことで、こんな田舎町に大道詰将棋屋が来ていたということは、既に全国的に広がっていた証でもある。
詰めたらタバコを二、三個もらえたが、詰めそこなったら一回五十銭の教授料となる。当時大人の一日の日当が一円だったから、五十銭は大金。子供には手が出せなく、傍らで見ているだけだった。

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「歩問題」の四局目。前三局と比べると易しくはない。
ここまで来れば十分な商品価値がある。ただ、街頭ではあまり見たことがない。
もっとも飛車が入って、成るか成らぬか……そこに合駒……とパターンが決まっており、発展に乏しいのだ。
この▲6四飛の型は四十局ほどしかなく、 数多い大道詰将棋の中では少数派となる。

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はじめからこんな話ばかりを続けていれば、 年がら年中大道詰将棋ばかりをやっていたように思われても仕方がないが、そんなことはない。
大道詰将棋の主力は香歩問題。その原作ともいうべきものがこの詰将棋。将棋入門書にもよく載っている。
江戸時代、元禄16年に発行された「象戯力草」に載っているという。

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昭和12年、就職して大阪の高槻へ。今は都会になったと聞いているが、当時は田舎。ここでは、大道詰将棋を見ることはなかった。
将棋も昼休みに指すくらいで、何かと仕事の方が忙しかった。
「香歩問題」もその名のとおり香、歩各一枚の持駒が普通。銀中合いが出てくるのは珍しい部類に入る。この図のように香と歩三枚のものもある。

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◇入営
昭和15年2月に、現役兵として旭川にあった第七師団、師団直轄の通信隊に入営。通信兵となった。
紀元節を終えて数日を経て、新兵教育も済まないうちに満州行き。
牡丹江省東安に落ち着いた。
「香歩問題」の類作は八百局を超える。大道詰将棋の大本流である。

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軍隊は運隊といわれたことを年輩の人なら知っているだろう。部隊の出勤先により運不運が大きく左右される。
最初に行ったところは、ソ満国境。戦争こそしていないものの、第一線。ソ連軍には、昭和14年ノモンハンでこてんパンにやっつけられたことを聞かされていたので、緊張した。

その後、アメリカとの戦争が始まってからは、南方へ回される部隊が多くなってきた。
当然のことながら、私の所属していた部隊からも再三に渡って南方要員の転出が続いた。
私自身は幸いなことに異動することもなく後のシベリア抑留も逃れることができた。運がよかったとしかいいようがない。

戦地における兵隊たちの無聊を慰めるのが、内地から届く慰問袋。
慰問品として届けられた将棋の本に「合駒の仕方」といった講義物があった。香歩問題の中合いが詳しく載っていたのを覚えている。これは勉強になった。
ここからは「銀問題」の始まり。手始めに飛のサンドイッチ型銀問題。

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さて、満州に駐屯すること足掛け6年目。
昭和20年の春頃になると、兵隊たちの間からも「この戦争はイケナイ」とささやかれるようになってきた。
8月15日終戦。
第十番に続く二局目。玉型の△8三銀が△8三角に替わり怪しげな(?)△7七とが置かれている。

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◇大連のギショウ屋
武装解除のあと、ソ連軍に追い出されるように、満州から命からがら逃げ着いたのが大連。昭和21年の春のことだった。ここで引き揚げ船を待つ身となった。
手元にあるのはヒマと丈夫な身体だけ。いつ船に乗れるやら何の保証もなく、毎日の生活費を稼がねばならないことになってしまった。

ここで思いついたのが大道詰将棋。今思えば、カモになって私の生活を支えてくれた人には全く申しわけないことをしたと反省している。
誰も裕福な生活などしていない、毎日必死の思いで生きて行く中で、大道詰将棋に目を向けてくれるものやら不安がなかったわけでもないが、とにかくやってみるの一手。

その辺に落ちている板切れを拾ってきて、盤と駒を作り営業開始となった。
景品は中国人の闇市から仕入れてきたタバコ。この仕入れが一ケ五円。
詰めたら無料贈呈。失敗したら十円で買ってもらうルールである。
おっかなびっくり始めた大道詰将棋屋だったが、これが大当たり。

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現在のように嫌煙権だとか、タバコは健康に良くないなどと、難しいことをいわない時代。欲と二枚合わせでお客が跳び着いてきた。
なけなしのお金をはたいて仕入れたタバコは、瞬く間になくなってしまい、ほっと胸をなでおろしたものだった。店を出す度に、人が集まり腹の中で「ウッシッシ……」と笑いが止まらなかった。

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入営前の微かな記憶を頼りに作った詰将棋なので、粗造乱造。検討もお粗末。失敗作も多かったが、詰めば詰んだでこれもご愛嬌。
「あそこの大道詰将棋は詰む」との信用も増し、客が手を出す。一日五、六十ケのタバコが捌け、儲けが二、三百円にもなった。
三種類目の「銀問題」。見せ手は▲8二銀。

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ただ、作った駒がお粗末なので、強い風が吹くと飛んでしまい、駒集めに追われ商売にならなかった。桶屋は風が吹くと儲かるが、大連のギショウ屋はお手上げだった。
こんなやくざな商売も、引き揚げ船に乗る日がくれば何の未練もなくオシマイ。
一年程の営業活動だったが、「芸は身を助ける」とは、こんなことをいうのだろうか。


◇上陸
「岸壁の母」で歌われた舞鶴に上陸したのは、昭和22年2月のこと。船が接岸するまでの間、甲板に長いこと立ちつくしていたが、寒いとは思わなかった。
大陸から引き上げてきたといって、日々の生活が楽になるわけでもない……。入営前に居た高槻へ行ってみたがここも焼け野原。何もない。

この頃、一度仲間に誘われて神戸まで将棋大会に出かけて行ったことがあった。張り切りすぎて早く着いて、まだ誰も来ていなかった。七十歳くらいのお爺さんが寂しげに一人ポツンと座っていた。その人が木見八段だった。
木見八段(追贈九段)は昭和26年に逝かれた。何といっても大山、升田という、二人の実力名人の師匠である。


◇渡道
大阪で暫くブラブラしていたが、昭和23年の秋に北海道に住んでいる姉を頼って渡道。行った先は北海道で最も寒いと言われている陸別。ここで結婚した。結婚はしたものの、良い仕事はなかった。
さらに昭和24年になって釧路にある尺別炭鉱へ。義理の兄貴がここに勤めていた。「金問題」

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尺別炭鉱にいるときに、今も使っている大道詰将棋用の駒を作った。炭鉱にいて危ない仕事をしているよりも、ギショウ屋の方が儲かるし、楽な仕事だと思っていたからだ。
また、三、四人の人と郵便将棋を指したのもこの頃。半年ほど前に「東公平さんが釧路の阿部重治郎と指した」と、『将棋ペン倶楽部』に書いてあったと聞いてびっくりした。

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私は、郵便将棋を指したという記憶しか残っていない。
何せ、五十年も前のことなのだ。慌ただしい日々を過ごしていたにもかかわらず、好きなことはしていた。
昭和25年の春には、紳棋会から発行した『秘手五百番』を注文したり、創刊したばかりの『詰将棋パラダイス』に自分の作った大道詰将棋を投稿しているのだ。

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目ざといといえばそれまでだが、見るところ(好きなこと)はしっかりと見ていたのだろう。
『詰将棋パラダイス』創刊号に詰将棋を載せたことは、私の大道詰将棋の中でも大きな勲章の一つと言えるだろう。これを契機に、五十年以上経た現在も同誌へ投稿している。

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◇有段者
ギショウ屋も商売である以上、簡単に詰められると困ってしまう。長年の経験と勘でヤバイ相手は解るようだ。駒を握らそうとしない。
その時の決まり文句が「有段者お断り」。プロ(?)として認められたことになるのだろうか。
地元ではすっかりいい顔になっていた。

ギショウ屋が店じまいをしたあと、一緒に旅館に付いて行き、将棋を指したり一杯飲ませてもらったこともあった。
お礼に新作を一つ教えたところ次の日早速使っていた。
あるとき、仕事で札幌へ行った。用件の方は早々に済ませて、狸小路へ。勿論大道詰将棋を見に行くのが目的。顔見知りではないので、駒を握ることができた。

途中で詰め損なったことに気がついたが、続けて指していると今度は向こうが受け損なって詰んでしまった。
「これはどうだ」と二局目が並べられた。
どうも詰まない。歩が一枚あるべきところにない。不審に思って、「いくら考えても解らないから、こっちが受けるから詰めてみてくれ」といってやった。

「教授料は五倍になるがよいか」という。
きっぱり「よい」と答えると、今度は「兄さん将棋は何段なのか?」と聞いてきた。
「二段」と答えると、たじたじとなって「自分は五級だからかなわない。いま三段の兄貴が来るから、それまで待ってほしい」と言い出した。
回りで見ている客の雰囲気も変わり始めた。

回りの雰囲気がおかしくなってきたので、「仕事が忙しいから帰る」といってタバコも貰わずに帰ってきた。
将棋の三段が来ても怖くはないが、空手の三段(?)では身が持たない。
後を追いかけてきた人が、「タバコを貰わないで引き上げてきてよかったネ……」といってくれた。アブナイ大道棋屋だったらしい。

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◇駒づけ
腕の良い大道棋士は、お客さんに駒を握らせるのが上手い。駒を持って、挑戦してもらわなければ商売にならないからだ。これを「駒づけ」といった。
金問題・銀問題・香歩問題というように、出題される詰将棋の持駒は一枚か二枚。普通の詰将棋のように、金銀三枚では、あの大きな駒は多すぎて持ちきれないのだ。

また、こんなこともある。持駒がなくとも詰むのに、あえて持たすのである。その駒を使うと紛れて詰まなくなってしまうのだ。
究極の問題、金を持駒にして、これを使うと詰まなくなる詰将棋を作ってみたいと本気で思っている。理論的には可能だろうが、よい詰将棋になるとは限らない。難しいものだ。


◇生兵法怪我のもと
大道詰将棋実戦記の第一番は、私のやられた話を取り上げることとしよう。
道東の中心北見市の隣町陸別に実姉の嫁ぎ先があった。そこへ遊びに行った途中の、北見の街でのこと。
めったにないことだが、難しい詰将棋を出していた。私の知らない問題で、いくら考えても分からない。

研究料奉納の覚悟で駒を握ったが、当然の如くやられた。二度目も失敗。納得ずくで手を出したので、悔しさも半分といったところ。
これもそうないことだが、このときはギショウ屋が「正解はこれこれ……」と、要点を示して教えてくれた。
帰ってから、徹底的に研究をした。調べれば調べるほどよくできた詰将棋で、傑作だと思った。

よく○×八段の弟子だったと豪語する(ほとんどウソ)大道棋士が多い中、掛け値なしに相当の棋力があったように思う。大道棋士も生半可な力では、お客さんが正解をはずしたときに、これをとがめることができず吹っ飛ばされてしまう場合もあるからだ。
後年、形幅清氏の名著『大道棋奇策縦横』に、ページを多く割いて詳しい解説が載っていた。

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あの形幅氏でさえも、相当の力を入れて研究していたことをここで初めて知った。たかが大道詰将棋でも、生半可な知識では通用しない厳しいものがあるのである。
「生兵法怪我の元」とはまさにこのこと。
この後、初見のものはその場では手を出さないこととし、図を覚えて帰り、研究することを常とした。

形幅清さんの著書『大道棋奇策縦横』の巻末図が、かつて私が二回も奉納してしまい、一生忘れられない詰将棋。
形幅さんは、一時期同じ砂川に住んでいて交遊があった。しかし、昭和36年埼玉県に移られて二度と会うことはなかった。
余談。富良野出身の形幅さんのお姉さん(と思われる人)と、北村憲一さんのお父さんは小学生の同級生だったと聞いた。


◇後ろ姿
釧路の尺別炭鉱で働いていた頃のこと。
妻の姉が釧路に住んでいたので、お祭りにでも呼ばれたのだろうか。一歳のなるかならないかの娘を連れ、三人連れで出かけていった。
釧路駅の繁華街(黒金町)で足が止まってしまった。久しく見ていなかった大道棋に目が留まったのだ。

小一時間ほど見ていただろうか。退屈になった妻は私の許を離れ、その辺を一回りして戻ってきた。
「もう帰ろうよ……」
そんな素振りを見せたようだったが、まだ済んでいないものがある。
今日の詰将棋は知っている問題。しかし、答えを知っているからといってすぐに手を出さないのも仁義。ギショウ屋の顔を潰してはいけない。

一通り儲けさせてからが私の出番である。
「兄さん、どうだい……」
勧められても、まだ解けていないような顔つきでおもむろに盤の前に出る。難しい顔つきをし、考えている振りをしつつ正解を入れた。この辺の芝居は慣れたものだ……。
正解を入れられて、ギショウ屋は悔しそうに景品のたばこを渡そうとするが……。

ここでかねてから用意の決めゼリフをひとくさり。
「たばこは吸わないから、景品は要らない……」
……といいながら、少しばかりきざっぽく、くるりと背を向けて、颯爽と盤の前を離れるのである。
きっと、後ろ姿も決まっているのだろうなぁ……と、一人にやけていた。


◇教授料
どうしても詰めることのできない詰将棋を見逃して帰るのは悔しいものである。ギショウ屋に正解を尋ねることもできた。気前の良いときは、大勢の前で正解を披露することもあった。
新しい問題とか、いい問題(マブネタといった)となると次の営業に影響するのでおいそれとは教えてくれない。

また、このときの教授料の相場は、ご倍と決まっていたようである。
あるとき、答えの知っている問題を見ていた。どうしても詰められない人が正解を求めてギショウ屋と交渉に入った。
話がまとまったようで、秘伝の公開を楽しみに待っていたが……。
「この人だけに教えるので、場を離れてほしい」

ギショウ屋から追い払われてしまったが、教授料を払った人とは面識があったので、あとで聞いてみた。
「どんな手順を教えてくれたのか?」
快く並べてくれたが、私の知っている正解とは違っているではないか。
彼がギショウ屋から教わった詰め方は、途中で詰まなくなってしまう手順で、正解ではなかったのだ。

これもよくあったことで、それなりの棋力がないとガセを掴まされても分からないのだ。結局のところ、私がただで正解を教えることになってしまった。少しばかり愉快な気分になった……。
「ガセ」とは、瓦石(がせき=瓦と石の意。転じて無価値なもの)からきた言葉ではなかろうか。にせ物、紛い品を掴まされたときなどに、よく使われる。


◇天ぷら屋
昭和27年炭鉱夫から足を洗い、砂川に移って天ぷら屋を開いた。手当を弾んだので、パートのおばちゃんやおねえちゃんを十人以上抱えていたこともある。
この当時はまだ閉山問題も起きておらず、空知地方の炭鉱地帯は景気が良かった。お祭りにはどこへ行っても大道詰将棋を見ることができた。

芦別、赤平、歌志内、上砂川、美唄、三笠、夕張……とここに大小百程の炭鉱があり、最盛期には八十万人以上が住んでいたという。
昭和40年前後には、道将連の砂川支部長も務めていた。
いいことばかりもなく、昭和37年夏の台風で空知川が氾濫を起こし、床上浸水に遭い大切に持っていた『詰パラ』の大半をやられてしまった。


◇彼は魔法使い
大道詰将棋の醍醐味は、何といっても実戦。薄暗い街頭で、あの独特の雰囲気の中でギショウ屋と駆け引きを交わしながらの勝負。
将棋仲間の昔話、「指す」方からは、やられた話ばかり聞く。一方詰将棋組は勝った話ばかり。しかし、負けた話に面白いものが結構ある。どの詰将棋で、どの局面でやられたと話が細かいのだ。

「やられた晩は眠られない」などとよくいうが、三十年、四十年経ても悔しい思いをしたときのことは忘れられないものだ。
畏友古関三雄さんからイッパイ飲みながら聞いた話。
函館出身の古関さんは、海上保安官として巡視船に乗組み道内の港、港を巡った。船が寄港するたびに大道将棋荒しを続けたという。

制服にサングラスのスタイルで上陸。まず一勝。船に戻って私服に着替えて再上陸。これで二勝目。ギショウ屋泣かせの剛の者だった。
古関さんのように、転々と場所を違えていると駒の握れ得をした。私の場合は、砂川に定住するようになってからは、顔をしっかりと覚えられてしまい「有段者お断わり」の一声で、駒を握らせてもらえなかった。

再び古関さんの登場。
昭和35年夏、稚内。つき合っていた彼女(今の奥さん)とデート中、店を張っているのを目ざとく見つけての話。
「ちょっと待て……」
といっては、たばこを貰ってくる(取ってくる)様を、彼女は魔法を見るかのように眺めていたという。
悪い奴がいたものだ……。(笑)


◇梅も桜も……
大道棋士は、大きな盤の側にいろいろな看板を立てて店を出していた。
「○○将棋協会五段……」などと見たことも聞いたこともない団体の看板だったり、「一回百円」までさまざまだ。
「梅も桜もありません……」と書いた看板を出している九州出身の大道棋士がいた。今も元気なら百歳の大台だろう。

自分一人でバイをしているとの宣言でもあり、マジメな営業(?)というわけだ。客の中にさくらが混じっていることもよくあった。さくらは初心者の素振りをしておかしな手を指して回りを賑わし、客集めや客の食いつきを良くするための演技に長けていた。
これも古関さんから聞いた話で、巡視船が整備のために函館ドックに入渠したときのこと。

同僚と一緒に上陸。何はさておき大道棋。タバコをいただこうとの魂胆である。
ギショウ屋を見ると顔なじみ。これでは、駒は握らせてもらえない。ここで古関さんは同僚に知恵をつけて一稼ぎもくろんだ。答えを教えて、代わりにやってもらうのだ。
手が進み、正解の筋に入った……と思ったら、いつの間にか盤上の駒がずれているではないか。勿論詰まない。

回りにいたさくらが気を利かして、詰まないように駒を動かし仲間のピンチを救っていたのである。見事にやられてしまったという。
次は埼玉県の篠原昇さん。三、四十年前、東京の赤羽駅東口にはよく大道棋が出ていて、その頃の思い出話から。
ある日。いつものように覗いてみたが、まだ日も高く客が誰もいなかったので、大道棋士から声をかけられた。

「一局指そう……」
時間潰しに将棋を指すはめになったと思っていたのは篠原さんだけ、気がついてみると回りは黒山の人だかりで、体のいいさくら役……とわかったのは、この将棋を負けたときだったとか。
人寄せパンダだったのだ。
グループ行動をとるギショウ屋もいた。この手合いはヤバイ。余計なことを言うと痛い目に合うことにもなる。

「インチキ……」
などというと大変。
目付きの鋭い連中が周りを取り囲む。インネンをつけられただけでは済まず、路地裏へ連れ込まれて袋叩きにされた上に財布ごと有り金を巻き上げられてしまう。珍しい話ではなかった。
こんな輩がはびこるようになってから、大道棋は次第にだめになっていった……。

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◇野垂れ死に
昭和27年、尺別炭鉱を退職し、砂川に出てきた。心機一転、38歳の転身だった。砂川駅の近くで開業。てんぷら屋のおやじとなった。
私の仕事は仕入れ係。魚介類の仕入れは、かって鰊漁で栄えた日本海の港町留萌。よくでかけていった。
留萌へ行くといっても、当時はトラックも自由にならず国鉄を利用するしかない。

留萌へは一日掛かりの大仕事。砂川から深川経由。時間待ちで深川の街をぶらつく。
……そう、いるところにはしっかりといるもので、ギショウ屋がいた。
大道棋士の先生、あまりにもみすぼらしく、道具類も私が持っているものの方が立派に見えた。
その後、回りの人から話を聞いたところ、簡明にいえばルンペン。今のホームレス。

大道棋士の先生、深川の駅で寝泊まりをするのも再々。大道棋で細やかな生活費を稼いでいたのだ。まもなく亡くなったと聞いたが身寄りもなく、野垂れ死にに近いものだったろう。
私も炭鉱で働いているときは、大道棋になろうと本気で考えていた。坑内の劣悪な環境と比べると、こぎれいで清々しい仕事に見えてくるから不思議だ。

近くの山から木を切り出してきて、営業用の大きな駒も作った。今も手元にある。その駒をながめるたびに、この頃のことを思い出す。
家族を捨てて、全国を回っていたなら、どこかで野垂れ死にをしていたに違いない。踏ん切りがつかなかったことの一つに、二人目の子供ができたこともあった……。


◇北海道代表
昭和41年、第四回赤旗名人戦の空知地区代表となり、全道大会でも逆転につぐ逆転で優勝。遂に北海道代表になってしまった。
上京しての楽しみは、大道詰将棋。東京に着いて早速に上野駅周辺を見て回ったが、どこにも出ていなかった。時代が変わったのを感じた。

こんな不遜な態度で臨んでいては、将棋に勝てるはずもなく、一回戦でチョン。
大会前日、誰が言い出したのか「原田八段に会いに行こう」と話が決まり、何人かで押しかけ、ご馳走になってしまったことを思い出す。
原田八段は、その当時日本将棋連盟の会長を務めておられた。大正12年生まれで、軍隊経験も持っておられる。


◇狸小路の大道棋士
昭和四十年代の半ば、札幌の狸小路で三人の大道棋士がいたという。その姿を覚えている人も少なくないはずだ。
まず一人目は大道五目専門(氏名不詳)の人。
大道棋士は二刀流使いが多かったように思う。人集めに五目並べから始めて、人が集まった頃に、その盤をひっくり返し、駒を並べて詰将棋に切り替えるのである。

大道五目は全くやらなかったのでよくわからないが、青森県の荒谷光一さんは、国税庁の職員ながら(十数年前に退職された)大道五目はプロ級の腕前。学生の頃はアルバイトもしたらしい。根っからの大道棋マニアだ。
隻腕の大道棋士は、片山勇志さんといい、古関三雄さんがいうには、片山さんは戦後まもなくの頃函館にいて同じ将棋会の仲間だったという。

その当時で二段位だったというからなかなかの腕前。晩年は手稲区に住んでいたこともあり、区内の将棋大会で優勝して名前が載っていることに気づいた古関さんは片山さんを尋ねたが、既に住居を引き払っており、その後手掛かりがないという。
片山さんの消息をご存じの方は、道将連までご連絡いただきたい。

三人目は桑原さんといい、詰将棋の出題ではなく「一局いくら」と、将棋を指す大道棋屋さんだった。新井田基信さんは子供のころ一局五十円で指してもらったという。大人の料金は二百円だったとか。
酒好きの桑原さんはお客がつくと盤・駒をお客に預けたまま、貰ったお足をもって一杯引っかけにすぐ出かけていったそうだ。


◇最後の大道棋士
大阪の京橋で、黒田栄さんという人が昭和51年頃まで店を出していた。
「大道棋はインチキだ」といわれる風潮のなか、警察の取り締まりも厳しくなり、昭和40年代末には姿を消していた。そんな中にあって、黒田さんは良心的な大道棋屋さんと認められて、警察もとがめなかったのだろう。

残念ながら一度も会うことはなかったが、私と同年代の大正10年生まれ。55歳のとき、膵臓癌で亡くなられた。
黒田さんが、私等大道棋ファンに受け入れられたのは、『詰将棋パラダイス』誌上に発表された新作詰将棋を次々と実戦の場で使い、その成果を紹介してきたことによる。
商売になる詰将棋、ならない詰将棋は、実際に使ってみなければわからない。


◇テツ(徹)人加藤徹氏
大道詰将棋ファンは、年寄りばかりではない。若い人にも多くいる。
インターネットで「おもちゃ箱」の口座を持ち、テツ人の異名を取る加藤徹氏もその一人。今なお多くの新型を開発し続けておられ、平成の第一人者として尊敬している。
昨年の夏、詰将棋全国大会が札幌で開催されたときもテツ氏は参加された。

懇談会ではビールを飲み始めてからは、何を話したのか忘れてしまったが、休憩時間のときに愉快なことがあった。
大道詰将棋の話に続いて、テツ氏が新作を一番披露されたが、一発で筋に入ってしまい、簡単に解いてしまった。
テツ氏も驚いたのではないか……。じつは、その頃私も同じような筋のものを手がけていて、記憶が新しかったのだ。


◇終の住処
砂川から現在の清田区北野へ住まいを移して二十年余。北海道在住も五十五年になる。
十二歳のときに見た詰将棋に感激し、将棋を一生の友として親しんできた。
八十歳を越えたが女房共々目も、耳も(口も)達者で、惚けることもなく、毎日楽しく過ごしている。

健康な人生を送ることができるのも、頭で考え、手を動かす「将棋」という楽しみがあったからではないかと思っている。
現在も、六十歳以上の将棋愛好者が集まった「棋楽会」の会長を務めている。札幌、及びその近在から会員を集め、定期的に将棋会を催し、将棋が終わったあとは楽しく一パイ会と、仲良くやるのだ。

「大道詰将棋を作ってきた……」といっても、活字になって残っているものは五十局ほど。大連時代に作ったものは何も残っていない。
今年の夏に東京で開かれた詰将棋全国大会には、現役最高齢の大道詰将棋作家として参加をした。
自分の年齢の数だけ良い詰将棋を残したいと思いながら今も作り続けている。


◇詰将棋七段
最後に自慢話を聞いていただく。
昨年の夏、札幌で詰将棋全国大会が開催された。その席上、全日本詰将棋連盟会長の門脇芳雄さんから詰将棋七段を贈られた。自分の好きなことを長く続けてきただけなのに……と、恐縮してしまう。
大道詰将棋の普及発展に貢献した功績による……とのことで、嬉しく頂戴した。
年齢の数だけよい大道詰将棋を作りたい……のが私の夢。いまだに実現しておらず、ぼけるわけにはゆかない。
詰将棋グループの世話人を務める北村憲一さんが私のところへ来ては、尻をたたく。これがまたいいタイミングでやって来るのだ。