fetishism: 異常性欲、性倒錯の一種。性愛の対象が異性の存在の全体ではなく、その肉体の一部(毛髪、手、足、指、爪、耳など。通常は性器を除く部分)や、異性が身につけている物(靴、靴下、下着、ハンカチ、指輪など)、あるいは異性の象徴となるもの(コイン、皮革、毛皮など)を性対象とする傾向をいう。この物体をフェティッシュ fetish (物神、呪物)といい、フェティッシュの獲得、接触、所有によって、通常の性交以上の性的満足や興奮が達成される。節片淫乱症、物件恋愛、淫物症、呪物崇拝などと訳されたが、適切とはいえないので現在では原語のまま用いられている。
通常の性愛においても、愛する人の肉体やその一部が特別の愛着の対象となることはあるが、その部分が元来の対象から切り離されて、全体に対して圧倒的な優位性を得た状態が、性倒錯としてのフェティシズムである。たとえば毛皮をまとっていない女性とは性交が不能であるとか、フェティッシュ入手のために下着泥棒や毛髪切りなどの犯罪に駆り立てられる場合がこれにあたる。他の形態の性倒錯との関係では、足フェティシズムではマゾヒズム、愛人の性器を切り取って持ち歩いたり、食べたりするケースではサディズムやカニバリズム、異性の排泄物に対する愛好であるスカトロジー(その極端な場合が尿飲 urolagnia や食糞 coprophagia)などとの合併がしばしば観察される。フェティシズムでは、現実の感覚的快感よりも、想像力による官能的満足の追求が大きな役割を演じている。ケースとしては、男性に圧倒的に多い。フェティシズムの成因については、幼児期の最初の性的興奮と偶然的な物体との結合による条件づけとか、未熟な部分本能の段階への固着とか、フェティシズムを男性性器の象徴と考えて去勢恐怖に対する防衛と見る説とか、愛の全体性に対する破壊衝動をその根拠に見る立場など、さまざまな学説がある。ケースによってもその成因が違うことは考えうることである。
【文化としてのフェティシズム】 従来のフェティシズムなる用語は、宗教学(呪物崇拝・偶像崇拝)、経済学(物神崇拝)、心理学(節片淫乱症)の3分野で使われてきた。フランス語の fétiche はラテン語の facticius を語源にもつことからもわかるように、もともとは factice (<人工の><作品>)の意味であるが、これが17世紀以来<呪物>のコノテーションを帯びるようになったのは、ポルトガル語の fetico (呪具、護符)の影響である。その由来は15世紀後半にポルトガルの航海者たちが西アフリカへ行って、そこの原住民が歯、爪、木片、貝殻をはじめ、剣、鏡、玉、臼、首飾などを崇拝するのを見たとき、自分たちが本国でカトリックの聖人の聖遺物やお守りなどを fetico と呼んでいることに関連させた命名にもとづくといわれる。この語がフランス語に正式に登録されるのは1669年であり、ついてディドロ、ダランベール監修の《百科全書》には<フェティッシュ>という項目の下に次のような記述が見いだされる。<アフリカ、ギニアの住民が彼らの神々に与える名前。彼らはそれぞれの地域に一つのフェティッシュを、それぞれの家族に個別的ないくつかのフェティッシュをもっている。この偶像は……時には木であったり猿の頭であったり、あるいはそれに類するものである>。
[宗教学] フェティッシュがはっきりと<物神>の意味をもち、そこから fétichisme<物神崇拝>なる概念が学術用語として提示されるのは1760年に発表されたド・ブロス Charles de Brosse の学位論文《物神崇拝 Cult des dieux fetiches》においてであった。彼はその中で、<アフリカ・ニグロにおいて、フェティッシュと呼ばれる地上の物的なある種の事物を崇拝すること、これをフェティシズムと命名する>と定義している。これがのちの A.コントによる再定義を受け、<フェティシズムは、世界に対する人間の本源的態度>であり、人間精神史の最初の段階であるところの<神学的状態>における人間の心性であるとみなされたため、19世紀の実証主義時代を風靡した<原始宗教=フェティシズム>という定説が生まれたのであった。
[経済学] K.マルクスは、ド・ブロス、A.スミス、コント、L.A.フォイエルバハに通底する、以上のような人間の自然的感情を前提とした原始宗教論に疑問符を付し、フェティシズムの成立を社会的関係性、歴史性から解明しようとした。彼が《資本論》において展開したフェティシズムの対象は、資本制下において商品となった生産物である。宗教的世界で<人間の頭の産物がそれ自身の生命を与えられ、それら自身のあいだでもまた人間との間でも関係を結ぶ独立した姿に見える>ように、<商品世界でも人間の手による生産物が、同じような様相を呈している>からであった。
そもそも生産とは、それが人間による活動であるかぎり、社会関係を前提にしないものはない。ところが、こうした社会関係にもとづく労働によってもたらされたはずの生産物が、ひとたび商品という形態をとるや、あたかもみずからに内在する価値を備えた即自的客体として現前し、生産者にとっても外在的な交換関係を結ぶ社会的主体となって自己運動を開始する。このような商品がこれを生産した<人間の意志を超えて動き出し、人間を拘束する>存在となる事態を、マルクスは宗教の神になぞらえて商品世界の<物神崇拝>と呼んだ。このフェティシズムの成立の最大の原因と考えられるものが貨幣である。何となれば、関係態である商品体系の中に一つの中心として貨幣が登場すると、その中心化によってそれぞれの商品があたかも個としての実体として存在するかのごとき錯視が生まれるからである。
[心理学] 前述のようにこの分野で用いられるフェティシズムは<節片淫乱症>などと訳されることもある、いわゆる性倒錯のことである。これは A.ビネによって最初に記載され、 S.フロイト、 E.クレペリンらによってその理論的究明が試みられた現象で、一般に、性対象としての異性の身体の一部とか、その人間に関係ある物品、さらにはその人の属性(能力、態度、気質など)がフェティシズムの対象となり、性欲満足の契機となる場合である。いずれのケースも、部分によって全体を象徴するメトニミー(換喩)もしくはシネクドーク(提喩)的シンボリズムであって、想像力の源である言語能力と切り離せない。
[文化記号学] 上記に示した三つのフェティシズム論は、それぞれ程度の差こそあれ、西欧の形而上学と自然科学に通底する実体論的発想から完全には逃れていないところに問題を残している。プラトン以来の伝統である絶対的な真理やロゴスへの信仰は、すべて真/偽、善/悪、正/邪などという二項対立から生まれる<本物志向>であった。たとえば心理学で言うフェティシズムを説明する際にきまってもち出されるのが、その対象である靴下や肌着は<自然的世界観(M.シューラー)における靴下や肌着でない>という異常性である。つまりはフェティシズム的傾向がことごとく正常な愛の現実にそなわる<汝>という形態から逸脱しているという見方でしかない。そうした問題の立て方、解明の仕方は、無垢な生理的欲求を仮設する自然主義的人間学の実体論的パラダイムそのものである。いったい<自然的世界観>における道具とか衣服とは何か。また、文化の中にはたして<正常なる愛の現実>が存在するのか。この欲求神話や実体論的思考は、先にあげた宗教学、経済学にも同じように見いだされる<本物/偽物>の図式を、疑うべからざる自明の前提として立てているのである。
宗教学でいうフェティシズムは、本物としての神に対する偶像(偽物)であった。そして経済学におけるフェティッシュも、自然的価値と考えられる生産物の<使用価値>の物在性(本物)を前提とした上での、商品がもつ<交換価値>の幻想性(偽物)であった。マルクスは、商品が本来的には生産物であり、さまざまな使用価値であるにもかかわらず、<人間の意志を超えて動き出し人間を拘束する一つの観念形態となる>ことを指摘し、その<倒錯性>を告発する。倒錯というからには、倒錯されざる本物がなくてはならないが、それこそ生産物自体が有する使用価値にほかならなかった。しかしながら、文化においては、人間の生理的欲求も、その欲求のかかわる事物の使用価値や生産労働も決して生のまま現れることはなく、交換価値と同じように、必ずやその社会・文化内の関係に媒介されて現れる。われわれが支配されているのは、単に市民社会において物象化し<事物の非同一的・差異的モメント>を隠蔽しているかに見える商品の交換価値にとどまらず、使用価値自体が内在せしめている記号性、関係性でもあることを見逃すわけにはいかないだろう。
J.ボードリヤールは<商品の論理が一般化し、今や労働過程や物質生産物だけではなく、文化全体、性行動、人間関係、幻覚、個人的欲動までを支配している>(《消費社会の神話と構造》)のが現代の特殊性だという考え方を示しているが、事態はむしろその逆であって、太古から存在した<文化のフェティシズム>が、ある特定文化圏においてある時代以降、特に貨幣・商品のフェティシズムという形をとって顕在化しただけの話である。人間はシンボル化能力をもつと同時に実体から疎隔されシミュレーションの世界に入っている。文化においては、それがいかなる原始的形態といえども<本物偽/物>の図式は成立せず、すべては人口の用具の所産、つまりは言葉による認識の網によって分節された関係態にすぎない。
<文化のフェティシズム>とは、本能の生理的ゲシュタルトにはそもそも描かれていなかった非在物に意味を与える人間の意識(時間・空間意識、美意識、死生観、羞恥心、エロティシズムなど)の発生と、その意識が生み出す文化内のいっさいの関係(人と人、事物と事物、現象と現象)が物化され、疑似自然化される事態をさしており、商品、貨幣、権力にとどまらず、動物としての二大本能である食生活や性行為までが<物神>となって、これを崇拝する人間を支配するさまにほかならない。
以上のごとき射程をもつフェティシズム現象は、もはや産業革命以降の物質・技術文明がもたらした害悪のみを指すのではなく、前近代、中世はおろか、古代、原始にさかのぼって人間の汎時的文化に見いだされる<構造的・関係的同一性を実体的自己同一性に転化させる>メカニズムである。したがって、これを解明するためには、狭義のエコノミーやリビドーという視点にとどまることなく、文化という共同幻想の根底にある自我と欲望を生み出すシンボル化能力そのものの本質を剔抉する必要があるように思われる。
通常の性愛においても、愛する人の肉体やその一部が特別の愛着の対象となることはあるが、その部分が元来の対象から切り離されて、全体に対して圧倒的な優位性を得た状態が、性倒錯としてのフェティシズムである。たとえば毛皮をまとっていない女性とは性交が不能であるとか、フェティッシュ入手のために下着泥棒や毛髪切りなどの犯罪に駆り立てられる場合がこれにあたる。他の形態の性倒錯との関係では、足フェティシズムではマゾヒズム、愛人の性器を切り取って持ち歩いたり、食べたりするケースではサディズムやカニバリズム、異性の排泄物に対する愛好であるスカトロジー(その極端な場合が尿飲 urolagnia や食糞 coprophagia)などとの合併がしばしば観察される。フェティシズムでは、現実の感覚的快感よりも、想像力による官能的満足の追求が大きな役割を演じている。ケースとしては、男性に圧倒的に多い。フェティシズムの成因については、幼児期の最初の性的興奮と偶然的な物体との結合による条件づけとか、未熟な部分本能の段階への固着とか、フェティシズムを男性性器の象徴と考えて去勢恐怖に対する防衛と見る説とか、愛の全体性に対する破壊衝動をその根拠に見る立場など、さまざまな学説がある。ケースによってもその成因が違うことは考えうることである。
【文化としてのフェティシズム】 従来のフェティシズムなる用語は、宗教学(呪物崇拝・偶像崇拝)、経済学(物神崇拝)、心理学(節片淫乱症)の3分野で使われてきた。フランス語の fétiche はラテン語の facticius を語源にもつことからもわかるように、もともとは factice (<人工の><作品>)の意味であるが、これが17世紀以来<呪物>のコノテーションを帯びるようになったのは、ポルトガル語の fetico (呪具、護符)の影響である。その由来は15世紀後半にポルトガルの航海者たちが西アフリカへ行って、そこの原住民が歯、爪、木片、貝殻をはじめ、剣、鏡、玉、臼、首飾などを崇拝するのを見たとき、自分たちが本国でカトリックの聖人の聖遺物やお守りなどを fetico と呼んでいることに関連させた命名にもとづくといわれる。この語がフランス語に正式に登録されるのは1669年であり、ついてディドロ、ダランベール監修の《百科全書》には<フェティッシュ>という項目の下に次のような記述が見いだされる。<アフリカ、ギニアの住民が彼らの神々に与える名前。彼らはそれぞれの地域に一つのフェティッシュを、それぞれの家族に個別的ないくつかのフェティッシュをもっている。この偶像は……時には木であったり猿の頭であったり、あるいはそれに類するものである>。
[宗教学] フェティッシュがはっきりと<物神>の意味をもち、そこから fétichisme<物神崇拝>なる概念が学術用語として提示されるのは1760年に発表されたド・ブロス Charles de Brosse の学位論文《物神崇拝 Cult des dieux fetiches》においてであった。彼はその中で、<アフリカ・ニグロにおいて、フェティッシュと呼ばれる地上の物的なある種の事物を崇拝すること、これをフェティシズムと命名する>と定義している。これがのちの A.コントによる再定義を受け、<フェティシズムは、世界に対する人間の本源的態度>であり、人間精神史の最初の段階であるところの<神学的状態>における人間の心性であるとみなされたため、19世紀の実証主義時代を風靡した<原始宗教=フェティシズム>という定説が生まれたのであった。
[経済学] K.マルクスは、ド・ブロス、A.スミス、コント、L.A.フォイエルバハに通底する、以上のような人間の自然的感情を前提とした原始宗教論に疑問符を付し、フェティシズムの成立を社会的関係性、歴史性から解明しようとした。彼が《資本論》において展開したフェティシズムの対象は、資本制下において商品となった生産物である。宗教的世界で<人間の頭の産物がそれ自身の生命を与えられ、それら自身のあいだでもまた人間との間でも関係を結ぶ独立した姿に見える>ように、<商品世界でも人間の手による生産物が、同じような様相を呈している>からであった。
そもそも生産とは、それが人間による活動であるかぎり、社会関係を前提にしないものはない。ところが、こうした社会関係にもとづく労働によってもたらされたはずの生産物が、ひとたび商品という形態をとるや、あたかもみずからに内在する価値を備えた即自的客体として現前し、生産者にとっても外在的な交換関係を結ぶ社会的主体となって自己運動を開始する。このような商品がこれを生産した<人間の意志を超えて動き出し、人間を拘束する>存在となる事態を、マルクスは宗教の神になぞらえて商品世界の<物神崇拝>と呼んだ。このフェティシズムの成立の最大の原因と考えられるものが貨幣である。何となれば、関係態である商品体系の中に一つの中心として貨幣が登場すると、その中心化によってそれぞれの商品があたかも個としての実体として存在するかのごとき錯視が生まれるからである。
[心理学] 前述のようにこの分野で用いられるフェティシズムは<節片淫乱症>などと訳されることもある、いわゆる性倒錯のことである。これは A.ビネによって最初に記載され、 S.フロイト、 E.クレペリンらによってその理論的究明が試みられた現象で、一般に、性対象としての異性の身体の一部とか、その人間に関係ある物品、さらにはその人の属性(能力、態度、気質など)がフェティシズムの対象となり、性欲満足の契機となる場合である。いずれのケースも、部分によって全体を象徴するメトニミー(換喩)もしくはシネクドーク(提喩)的シンボリズムであって、想像力の源である言語能力と切り離せない。
[文化記号学] 上記に示した三つのフェティシズム論は、それぞれ程度の差こそあれ、西欧の形而上学と自然科学に通底する実体論的発想から完全には逃れていないところに問題を残している。プラトン以来の伝統である絶対的な真理やロゴスへの信仰は、すべて真/偽、善/悪、正/邪などという二項対立から生まれる<本物志向>であった。たとえば心理学で言うフェティシズムを説明する際にきまってもち出されるのが、その対象である靴下や肌着は<自然的世界観(M.シューラー)における靴下や肌着でない>という異常性である。つまりはフェティシズム的傾向がことごとく正常な愛の現実にそなわる<汝>という形態から逸脱しているという見方でしかない。そうした問題の立て方、解明の仕方は、無垢な生理的欲求を仮設する自然主義的人間学の実体論的パラダイムそのものである。いったい<自然的世界観>における道具とか衣服とは何か。また、文化の中にはたして<正常なる愛の現実>が存在するのか。この欲求神話や実体論的思考は、先にあげた宗教学、経済学にも同じように見いだされる<本物/偽物>の図式を、疑うべからざる自明の前提として立てているのである。
宗教学でいうフェティシズムは、本物としての神に対する偶像(偽物)であった。そして経済学におけるフェティッシュも、自然的価値と考えられる生産物の<使用価値>の物在性(本物)を前提とした上での、商品がもつ<交換価値>の幻想性(偽物)であった。マルクスは、商品が本来的には生産物であり、さまざまな使用価値であるにもかかわらず、<人間の意志を超えて動き出し人間を拘束する一つの観念形態となる>ことを指摘し、その<倒錯性>を告発する。倒錯というからには、倒錯されざる本物がなくてはならないが、それこそ生産物自体が有する使用価値にほかならなかった。しかしながら、文化においては、人間の生理的欲求も、その欲求のかかわる事物の使用価値や生産労働も決して生のまま現れることはなく、交換価値と同じように、必ずやその社会・文化内の関係に媒介されて現れる。われわれが支配されているのは、単に市民社会において物象化し<事物の非同一的・差異的モメント>を隠蔽しているかに見える商品の交換価値にとどまらず、使用価値自体が内在せしめている記号性、関係性でもあることを見逃すわけにはいかないだろう。
J.ボードリヤールは<商品の論理が一般化し、今や労働過程や物質生産物だけではなく、文化全体、性行動、人間関係、幻覚、個人的欲動までを支配している>(《消費社会の神話と構造》)のが現代の特殊性だという考え方を示しているが、事態はむしろその逆であって、太古から存在した<文化のフェティシズム>が、ある特定文化圏においてある時代以降、特に貨幣・商品のフェティシズムという形をとって顕在化しただけの話である。人間はシンボル化能力をもつと同時に実体から疎隔されシミュレーションの世界に入っている。文化においては、それがいかなる原始的形態といえども<本物偽/物>の図式は成立せず、すべては人口の用具の所産、つまりは言葉による認識の網によって分節された関係態にすぎない。
<文化のフェティシズム>とは、本能の生理的ゲシュタルトにはそもそも描かれていなかった非在物に意味を与える人間の意識(時間・空間意識、美意識、死生観、羞恥心、エロティシズムなど)の発生と、その意識が生み出す文化内のいっさいの関係(人と人、事物と事物、現象と現象)が物化され、疑似自然化される事態をさしており、商品、貨幣、権力にとどまらず、動物としての二大本能である食生活や性行為までが<物神>となって、これを崇拝する人間を支配するさまにほかならない。
以上のごとき射程をもつフェティシズム現象は、もはや産業革命以降の物質・技術文明がもたらした害悪のみを指すのではなく、前近代、中世はおろか、古代、原始にさかのぼって人間の汎時的文化に見いだされる<構造的・関係的同一性を実体的自己同一性に転化させる>メカニズムである。したがって、これを解明するためには、狭義のエコノミーやリビドーという視点にとどまることなく、文化という共同幻想の根底にある自我と欲望を生み出すシンボル化能力そのものの本質を剔抉する必要があるように思われる。