iconoclasme: 字義的に、イコンすなわち聖画像の破壊を意味し、イコンの礼拝のみならず、その制作をも許されないとみなす思想。726-787年、815-843年、ビザンティン皇帝たちによって国家の宗教政策とされ、この帝国における国家と教会との独自の関係を背景に(皇帝教皇主義)、その経過で宗教以外の領域をも巻き込んで、歴史的大事件となったばかりでなく、その余波は遠くカロリング朝フランク王国にまで及んだ。
レオ3世が726年、当時特別尊崇をあつめていたコンスタンティノーブルのバルコプラテイア地区のキリスト像を撤去させ、730年勅令(偶像破壊令)をもってイコンは偶像だとしてその礼拝を禁止した背景には、ウマイヤ朝のカリフ、ヤジード2世(在位720-724)の同趣旨の法令発布や、ユダヤ教、キリスト教異端パウロ派における、キリスト教徒を偶像崇拝主義者だとする批判の声のほか、キリスト教内部における長い論議があった。すなわち、原始キリスト教では、旧約聖書《出エジプト記》に忠実に、キリスト教芸術は象徴的寓意的意味をもつにすぎないものと理解されていたが、続いて、一般信徒の教育のために聖書の救済史を物語としたり、キリストその他を礼拝像とすることに、しだいに抵抗を感じなくなった。だが発展はそれにとどまらず、キリスト教聖者の像にまで奇跡をもたらすとする民間信仰にゆきつき、かかる傾向に対しては、キリスト教神学者や宗教会議の批判が絶えなかった。したがってレオ3世がキリスト教浄化のため、イコン礼拝の禁止を宣言したとき、それを支持する者たちは、ことに小アジア地方では、けっしてわずかではなかった。
ビザンティン帝国のイコノクラスムは、時代的に、787年コンスタンティノス5世の母である摂政イレノのもとでニカエア公会議がイコン礼拝を復活してから、レオ5世が815年にそれを再び禁止するまでの一時期をはさんで、第1期、第2期に分かれ、843年ミハエル3世の母である摂政テオドラが再びそれを復活して、イコノクラスムは最終的に終わった。
神学的に議論が進化したのは第1期であり、イコン礼拝派には、8世紀前半、ダマスクスの修道士ヨハネスが現れ、キリスト本体論を論拠に、ロゴスの人間化ゆえにキリストのイコンは正しい、不可視の神は像化できないが、キリストは、神が人として現れたものであるゆえ像化できる、この人間化により物質は浄化され、物質もキリストを描くのにふわさしいものとなった。イコン礼拝はしたがってこの浄化に対する信仰告白を意味する、とした。
これに反芻したのがコンスタンティノス5世であり、キリストの像化はその神性の像化ゆえに許されない、キリストの唯一の真の像は聖餐でしかなく、ここにおいてのみ、像とその本体との同一性が保持されている、と主張した。
イコン神学は、イコンに対する賛否両派を問わず、ギリシア教会の最大関心事の一つであり、独自の発展をとげた。これに反し、ネストリウス派、単性論派等の東方諸教会にあっては問題とならず、また西方でも、信徒に対する純教育的見地から像礼拝が論じられたにとどまり、ギリシア教会のイコン神学は、カロリング朝神学者たちにより正しく理解されず、エカエア公会議の教義に対し拒否的であり、ローマ教皇がその正しさを彼らに説得しなければならなかった。
イコノクラスムは、狭義には8~9世紀のビザンティン帝国で起こった聖画像破壊を指すが、超越的存在、不可視の聖なるものの表現に自然的形像、特に人間像を用いることを忌避する立場は、偶像主義の美術(たとえばギリシア・ローマの自然主義的神人同形像)と対立して、美術史上広く現れている。原始宗教においては一般に超自然的存在は表されず、神道では長い間神像はなく、仏教美術でも西方から触発されるまで仏陀はもっぱら象徴(菩提樹など)によって表された。ユダヤ教では偶像否定の伝統が根強く、キリスト教やイスラム教にも受けつがれた。イスラムが厳格にこれを遵守し優れた装飾美術を創造したのに対し、キリスト教は地中海世界の神人同形像と同化した。しかし、キリスト教のこのような図像体系に対する反撃は常に存在し、ときに激化した。その最大の例がビザンティン帝国のイコノクラスムである。西欧でも12世紀のベルナールによるクリュニー派美術批判と非図像主義的シトー派修道院の創造、15世紀のサボナローラによるルネサンス美術の破壊、宗教戦争時代のプロテスタント勢力およびフランス革命時代の民衆によるカトリック美術の破壊などがあった。この潮流は、キリスト教美術の中に非図像的抽象的美術を育て(アイルランドなど)、プロテスタント圏内では世俗画の発展を促す(オランダなど)一方、反宗教改革美術を強化した(イタリア、スペインなど)。また、ビザンティンでは図像の抽象化精神化を深める結果をもたらした。
レオ3世が726年、当時特別尊崇をあつめていたコンスタンティノーブルのバルコプラテイア地区のキリスト像を撤去させ、730年勅令(偶像破壊令)をもってイコンは偶像だとしてその礼拝を禁止した背景には、ウマイヤ朝のカリフ、ヤジード2世(在位720-724)の同趣旨の法令発布や、ユダヤ教、キリスト教異端パウロ派における、キリスト教徒を偶像崇拝主義者だとする批判の声のほか、キリスト教内部における長い論議があった。すなわち、原始キリスト教では、旧約聖書《出エジプト記》に忠実に、キリスト教芸術は象徴的寓意的意味をもつにすぎないものと理解されていたが、続いて、一般信徒の教育のために聖書の救済史を物語としたり、キリストその他を礼拝像とすることに、しだいに抵抗を感じなくなった。だが発展はそれにとどまらず、キリスト教聖者の像にまで奇跡をもたらすとする民間信仰にゆきつき、かかる傾向に対しては、キリスト教神学者や宗教会議の批判が絶えなかった。したがってレオ3世がキリスト教浄化のため、イコン礼拝の禁止を宣言したとき、それを支持する者たちは、ことに小アジア地方では、けっしてわずかではなかった。
ビザンティン帝国のイコノクラスムは、時代的に、787年コンスタンティノス5世の母である摂政イレノのもとでニカエア公会議がイコン礼拝を復活してから、レオ5世が815年にそれを再び禁止するまでの一時期をはさんで、第1期、第2期に分かれ、843年ミハエル3世の母である摂政テオドラが再びそれを復活して、イコノクラスムは最終的に終わった。
神学的に議論が進化したのは第1期であり、イコン礼拝派には、8世紀前半、ダマスクスの修道士ヨハネスが現れ、キリスト本体論を論拠に、ロゴスの人間化ゆえにキリストのイコンは正しい、不可視の神は像化できないが、キリストは、神が人として現れたものであるゆえ像化できる、この人間化により物質は浄化され、物質もキリストを描くのにふわさしいものとなった。イコン礼拝はしたがってこの浄化に対する信仰告白を意味する、とした。
これに反芻したのがコンスタンティノス5世であり、キリストの像化はその神性の像化ゆえに許されない、キリストの唯一の真の像は聖餐でしかなく、ここにおいてのみ、像とその本体との同一性が保持されている、と主張した。
イコン神学は、イコンに対する賛否両派を問わず、ギリシア教会の最大関心事の一つであり、独自の発展をとげた。これに反し、ネストリウス派、単性論派等の東方諸教会にあっては問題とならず、また西方でも、信徒に対する純教育的見地から像礼拝が論じられたにとどまり、ギリシア教会のイコン神学は、カロリング朝神学者たちにより正しく理解されず、エカエア公会議の教義に対し拒否的であり、ローマ教皇がその正しさを彼らに説得しなければならなかった。
イコノクラスムは、狭義には8~9世紀のビザンティン帝国で起こった聖画像破壊を指すが、超越的存在、不可視の聖なるものの表現に自然的形像、特に人間像を用いることを忌避する立場は、偶像主義の美術(たとえばギリシア・ローマの自然主義的神人同形像)と対立して、美術史上広く現れている。原始宗教においては一般に超自然的存在は表されず、神道では長い間神像はなく、仏教美術でも西方から触発されるまで仏陀はもっぱら象徴(菩提樹など)によって表された。ユダヤ教では偶像否定の伝統が根強く、キリスト教やイスラム教にも受けつがれた。イスラムが厳格にこれを遵守し優れた装飾美術を創造したのに対し、キリスト教は地中海世界の神人同形像と同化した。しかし、キリスト教のこのような図像体系に対する反撃は常に存在し、ときに激化した。その最大の例がビザンティン帝国のイコノクラスムである。西欧でも12世紀のベルナールによるクリュニー派美術批判と非図像主義的シトー派修道院の創造、15世紀のサボナローラによるルネサンス美術の破壊、宗教戦争時代のプロテスタント勢力およびフランス革命時代の民衆によるカトリック美術の破壊などがあった。この潮流は、キリスト教美術の中に非図像的抽象的美術を育て(アイルランドなど)、プロテスタント圏内では世俗画の発展を促す(オランダなど)一方、反宗教改革美術を強化した(イタリア、スペインなど)。また、ビザンティンでは図像の抽象化精神化を深める結果をもたらした。