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バンダル王国

2014年06月17日 | word
 西ローマ帝国末期に北アフリカの地中海沿岸に建設されたゲルマン人を支配者とする国家。ドイツ語で Reich der Wandalen と称する。末期的状態にあったローマ帝国に大きな脅威を与え、その崩壊を促す結果となったところから、後に野蛮なゲルマン人の見本として、ときにはプロイセン的軍国主義の原型として槍玉にあげられることにもなった。しかし実際には部族としてのまとまりは弱く、ローマ領アフリカの社会を変革する力をもつものでもなく、むしろこの王国は既存の体制を利用して急速に浮上した専制的支配者の国家、つまりローマ帝国そのものの分身にほかならなかった。
 王国の実質的な建設者として重要な役割を果たしたのはガイセリック Geiseric 王(?~477。在位428~477)であるが、429年に彼に従ってジブラルタル海峡を渡った部族民集団は、北ドイツやハンガリー地方からの長い移動の途次逐次合流した多様な部族民から構成され、軍事指導者としてガイセリック個人への帰服者の集団へと変質していた。支配者国家の形成は、この集団がカルタゴ近辺のプロコンスル州に最終的に征服者として定着した後に起こった旧部族民有力者たちの抵抗を、ガイセリックが鎮圧し、王位の継承権を自身の一族のために独占した442年にいたって完了した。<ローマの穀倉>といわれたこの地域の広大な皇帝領やローマ人貴族の大所領を基盤としながら、比較的少数のこの部族は、機動力を駆使して広大な領域の軍事的支配を維持したばかりでなく、海上へも進出して西地中海一帯の制海権を行使し、しばしば海上交通をも遮断した。455年には都市ローマに攻め入って略奪を行い、また468年にはビザンティン皇帝からバンダル征討のため派遣された大艦隊を壊滅させた。しかしこうしたバンダルの支配体制は王の個人的力量に依存するところが大きく、ガイセリックの死後、フネリック王はローマ人勢力を抑えようとして過酷なカトリック迫害を重ねる結果となり、さらにトラサムント王は辺境諸地方の土着のムーア人(ベルベル)の対策に追われ、ついに533年には王位継承問題を機にビザンティン帝国の介入を招くことになり、ビザンティン軍による約1年の掃討戦の後、バンダル王国は滅亡する。ビザンティンの戦記記者プロコピオスによれば、そのあとにこの地を訪れたのは死の平和であったという。