Idolatry: 感覚的対象を崇拝すること。偶像には元来神像、仏像を含むが、偶像には軽蔑の意があるととられやすいために、この語をさけて、<神像崇拝>というべきだとする学者もある。文化のきわめて未発達な狩猟採集経済の段階では感覚的事物を宗教対象とすることは少なく、文化がやや発達したところに呪物 amulet (護符)や霊物 fetish の崇拝が盛んになる。呪物とはその物自体に非人格的な超自然力(マナ)が宿ると考えられる物体をいい、霊物とは人格的な精霊が宿ると考えれれる持運びのできる物体をいう。このような物体の崇拝は多くの地方に見られるが、ことに西アフリカは霊物崇拝(フェティシズム)の郷土として著名である。とくに聖石、聖樹の崇拝も広く見られるが、それが非人格的な力の存在のために崇拝されるのか、人格的な精霊の存在のために崇拝されるのかが呪物崇拝と霊物崇拝との区別になっている(ただし、一般にはこの両者を含めて呪物崇拝―フェティシズムとよんでいる)。
高等宗教で盛んな神像の崇拝は、人格的な神霊の宿るものとの思考の系列から発展するもので、技術が進むと感覚的事物自体にも人格的表現を与えるようになる。この意味で人間形態の神像の発達経路をよく示すものは祖先像であろう。死せる血族と生存者の連帯感も狩猟採集民族ではきわめてうすく、祖先崇拝は発達しないが、定住農耕民では盛んとなる。この場合はじめは死者の頭蓋を洗骨してこれを祖先としたが、やや発達すると目に真珠をつけたり、鼻を木でおぎなったりして、さらに胴体をつけるに至る。このような形態はメラネシアなどに見られるが、インドネシアなどではもはや死者の頭蓋はとらず、木彫りの、いわゆるアニト anito 像を作るようになっている。しかし神は必ずしも祖先とは限らないから、技術が発達すれば直接に超越的な神を表現するようになる。この場合にも神像は人間形態をとるとは限らない。動物形態をとることもあれば、半人半獣の形像に刻まれたり、描かれたりすることもある。ことにエジプトなどの古代高級文化にはこの種の神像が多く、鳥頭人身や人面獣身のスフィンクスのような形態でも登場する。もちろん鳥獣に超自然的な力があると認められるためであるが、鳥獣であっても一種の人間的心意を有するものと考えられているので、一種の人格的思考に立脚しているものである。しかし仏教、キリスト教のような高等宗教では動物形態観は衰えて、人間形態的神像が中心をなしている。
神的超感覚的なるものと、われわれの感覚しうる宗教的対象との間には区別のあることは、アニミズムの思考が発達すれば多少とも意識されるが、文化民族では象徴としての神像の意義が意識され、それにもかかわらず宗教意識は神像がたんなる象徴であることには満足せず、神像は神そのものであることを要求する。そのために神像の作製は専門の技術を持つものが行っても、これに<性を入れる>という聖化の手段が講じ、聖化の儀礼がすめば神像は神聖な宗教的対象とされるが、このような一種の二元観は当然表現の適切さについての議論をおこす。超越的な表現しうるものではないとするのが、その最も徹底したもので、事実この立場を主義とする宗教もある。イスラム教はこれに属し、神アッラーは人格的なものとして把握されているが、いっさいの人間的表現をこばむから神像の存在を許さず、イスラム教の寺院(モスク)にはメッカの方向にあたる部分に壁龕があるのみで神像は見れれない。イスラム教の影響を受けたインドのシク教でも神像をもたない。キリスト教の母体となったユダヤ教でも偶像の崇拝は盛んでなく、比較的早い時代に金銀の神像の製作を禁じた。バビロン捕囚時代に異教の偶像崇拝に接した彼らはますます偶像崇拝に対する否定的立場を自覚した。キリスト教でも初期には神像の崇拝の可否についての議論がたたかわされ、8世紀から9世紀にかけてビザンティン帝国において大きな闘争がまきおこり、また宗教改革時代にもこの論議がおこったが、神像の意義を正しく評価することによってこれを認めるのがカトリック教会の立場となっている。
偶像崇拝とか、偶像破壊(イコノクラスム)という神像に対する蔑視的用語は、宗教的対象は何によって最もよく表現されるかという宗教思想を背景に持っている。キリスト教会も他宗教制圧に偶像破壊をうたい、偶像崇拝は異教・邪教の同義語とされ、仏教などをも偶像崇拝と断定している。仏教では仏像がおびただしく存在し、仏像、仏画は文化財として芸術的に高く評価されているが、仏を表現する方法について、木像よりは絵像、絵像よりは名号という蓮如の有名な言葉がある。光明無量、寿命無量の阿弥陀仏を最もよく表現しうるものは彫刻や絵画よりも文字であるとする。
高等宗教で盛んな神像の崇拝は、人格的な神霊の宿るものとの思考の系列から発展するもので、技術が進むと感覚的事物自体にも人格的表現を与えるようになる。この意味で人間形態の神像の発達経路をよく示すものは祖先像であろう。死せる血族と生存者の連帯感も狩猟採集民族ではきわめてうすく、祖先崇拝は発達しないが、定住農耕民では盛んとなる。この場合はじめは死者の頭蓋を洗骨してこれを祖先としたが、やや発達すると目に真珠をつけたり、鼻を木でおぎなったりして、さらに胴体をつけるに至る。このような形態はメラネシアなどに見られるが、インドネシアなどではもはや死者の頭蓋はとらず、木彫りの、いわゆるアニト anito 像を作るようになっている。しかし神は必ずしも祖先とは限らないから、技術が発達すれば直接に超越的な神を表現するようになる。この場合にも神像は人間形態をとるとは限らない。動物形態をとることもあれば、半人半獣の形像に刻まれたり、描かれたりすることもある。ことにエジプトなどの古代高級文化にはこの種の神像が多く、鳥頭人身や人面獣身のスフィンクスのような形態でも登場する。もちろん鳥獣に超自然的な力があると認められるためであるが、鳥獣であっても一種の人間的心意を有するものと考えられているので、一種の人格的思考に立脚しているものである。しかし仏教、キリスト教のような高等宗教では動物形態観は衰えて、人間形態的神像が中心をなしている。
神的超感覚的なるものと、われわれの感覚しうる宗教的対象との間には区別のあることは、アニミズムの思考が発達すれば多少とも意識されるが、文化民族では象徴としての神像の意義が意識され、それにもかかわらず宗教意識は神像がたんなる象徴であることには満足せず、神像は神そのものであることを要求する。そのために神像の作製は専門の技術を持つものが行っても、これに<性を入れる>という聖化の手段が講じ、聖化の儀礼がすめば神像は神聖な宗教的対象とされるが、このような一種の二元観は当然表現の適切さについての議論をおこす。超越的な表現しうるものではないとするのが、その最も徹底したもので、事実この立場を主義とする宗教もある。イスラム教はこれに属し、神アッラーは人格的なものとして把握されているが、いっさいの人間的表現をこばむから神像の存在を許さず、イスラム教の寺院(モスク)にはメッカの方向にあたる部分に壁龕があるのみで神像は見れれない。イスラム教の影響を受けたインドのシク教でも神像をもたない。キリスト教の母体となったユダヤ教でも偶像の崇拝は盛んでなく、比較的早い時代に金銀の神像の製作を禁じた。バビロン捕囚時代に異教の偶像崇拝に接した彼らはますます偶像崇拝に対する否定的立場を自覚した。キリスト教でも初期には神像の崇拝の可否についての議論がたたかわされ、8世紀から9世紀にかけてビザンティン帝国において大きな闘争がまきおこり、また宗教改革時代にもこの論議がおこったが、神像の意義を正しく評価することによってこれを認めるのがカトリック教会の立場となっている。
偶像崇拝とか、偶像破壊(イコノクラスム)という神像に対する蔑視的用語は、宗教的対象は何によって最もよく表現されるかという宗教思想を背景に持っている。キリスト教会も他宗教制圧に偶像破壊をうたい、偶像崇拝は異教・邪教の同義語とされ、仏教などをも偶像崇拝と断定している。仏教では仏像がおびただしく存在し、仏像、仏画は文化財として芸術的に高く評価されているが、仏を表現する方法について、木像よりは絵像、絵像よりは名号という蓮如の有名な言葉がある。光明無量、寿命無量の阿弥陀仏を最もよく表現しうるものは彫刻や絵画よりも文字であるとする。