心に響く聖書の言葉

聖書のみことばの学びを日々つづっています。

自分の心を守れ(箴言 4:23‭-‬27)

2020-09-08 11:55:00 | 日記
🌷何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。🌷
箴言 4:23‭

ソロモン王の言葉です。
「心」について語っています。

心を守ることはいのちに繋がっていきます。
自分の心を清らかに保っていかなければなりません。
なぜなら、心には霊の王座があって、肉体の神殿の至聖所であるからです。
そしてその至聖所には、貯水地があり、いのちの泉が湧くのです。

私達は悪いことをする時、心から出てきます。

イエスはこう言われました。

人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。マルコ7:20-23

私達の内側からは、良いものよりも悪いものが出て来てしまうのです。

この心の汚れ。
どうすればいいでしょう…
どうすればいのちの泉が湧き出すでしょう。

1. 主イエス・キリストの御名を信じます。

しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです1コリント6:11

主イエス・キリストの御名を呼び求めた時、御霊によって私たちは洗われました。

また、こうあります。

御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。1ヨハネ1章7節

キリストの御名、そしてキリストの血が、心を御霊によってきれいにします。

2. 御言葉を聞き、それを心に蓄えることです。

あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。ヨハネ15:3

あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。詩篇119:11

3. 御霊に導かれることです。

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。ガラテヤ5:16

御霊に導かれることによって、私たちの内から出る悪い思いに打ち勝つことができます。

4. 主の再臨を待ち望みます。

しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならその時、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。1ヨハネ3:2-3

御霊に満たされることによって、心に何か良くないものが入りそうになると、気づくようになります。

御霊に満たされ、心をしっかり見張っておけば、後は主が潤いのある、命ある生活を約束してくださっています。

丈夫な人ではなく病人(マタイによる福音書 9:12‭-‬13)

2020-09-07 11:00:00 | 日記
🌷医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。🌷
マタイによる福音書 9:12‭-‬13

イエスは、ご自分を医者にたとえて、罪人達を病人にたとえています。
もし医者が病人と一緒になる事がなければ、診察と治療をする事はできません。

取税人だったマタイは、イエスの弟子になりました。
そしてマタイの家でイエスとともに食事をしていました。

食事の席には他にも罪人がたくさんやってきて一緒にいました。

イエスのことをあまり良く思わないパリサイ人と呼ばれる人たちが、これを見て非難をします。

当時、罪人や異邦人と食事をすることは、スキャンダルになるようなことでした。絶対にしてはいけないという伝統があったからです。

なぜかというと、当時の食事は、一つのパンを裂いて、一つのスープにそれを浸して食べます。同じパンと同じスープがそれぞれのお腹に入るので、互いにつながっている事を象徴します。

つまり罪人と一緒に食事をすることは、罪人と一つになることという意味がありました。

彼らにとっては、許される行為ではなかったのです。

イエスの対応は、

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です」

です。

イエスは実に、正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来られました。

言い替えますと、人々を悔い改めに招くために来られました。

自分では気がつきませんが、私達は往々にしていつも正しいことをしていると思い込んでいて、そうでない人と、自分を比較し、おごり高ぶるパリサイ人のようになる時もあります。

むしろ、正しいことをしていないであろう人々のことを憐れむ清い心を持つことはとても大切なことなのです。

イエスさまがいつも憐れんでくださるように、私達もそれにならうことは大切なことなのです。

疲れた者は私のもとに来なさい【マタイによる福音書 11:28‭】

2020-09-06 13:00:00 | 日記
🌷疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。🌷
マタイによる福音書 11:28‭-‬30 新共同訳

当時のイスラエルでは、民はみな疲弊していました。
ローマの属州であったイスラエルでは、人々は圧制により苦しい生活を強いられていました。

それだけではありません。

遥か昔に定められた民のための神の戒めは、口伝律法と呼ばれる、人間の手によって変わっていってしまった厳しい規則で、人々はきゅうきゅうとしていました。

イエスは、神の真理からかけ離れてしまったその律法によって、苦しんでいる人達を「私のくびきは負いやすく、荷物は軽い」と言いました。

キリストの新しい戒めは学びやすく、そして束縛から自由にさせ、重い荷物を下ろすことのできるものでした。

私たちはみな、毎日の生活で疲れています。
重荷からも逃れる事はできません。それが生活であり「一日の労苦」と言われています。

また「重荷」には、自分を喜ばせようとするものでもあります。

しかし、色々と工夫して自分を喜ばせようとしても、満たされることがなく、不安はついてまわることもあります。

同時に、現代人は心の豊かさをも求めます。

それは逆に言うと、心が満たされておらず、どこか虚しさを感じてしまうからなのです。

この矛盾を抱えている理由は、自分を喜ばそうとしているところに起因しています。

自分を喜ばす生活から、イエスのところに来て学び、神を喜ばす生活に入りなさい、と招いています。

それらにともなう約束は「安らぎ」です。
このことによって、初めて重荷を下ろす事ができて、平安な生活を送ることができるのです。

「くびき」とは、牛舎で牛が車を引く部分です。そのくびきの形によって、牛が車を楽にひくことができるかが決まります。

イエスがこしらえたくびきは、イエスが私たちのために立てられた計画のことを指しています。

イエスがこしらえたくびきとは何でしょう。
難しい律法ではありません。
私たちを造られた神を愛しなさい。そして、神が愛している人間を同じように愛しなさいということです。

イエスに従うこと、自分を奉げることは、実はとても楽なことなのです。

使徒ヨハネも「神を愛する事は、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」(1ヨハネ5:3)と言いました。

イエス・キリストは今もなお悩み苦しむ人達を招き続けておられます。

空の鳥、野のゆり。心配をするな【マタイによる福音書 6:26】

2020-09-05 13:00:00 | 日記
🌷空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。🌷
マタイによる福音書 6:26 新改訳

🌷野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。
今日あっても、明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。🌷

これは、働かないで、貯金もしなくてもいいのですよと言っている訳ではありません。
類似でなく対象なのです。

働きもしない野の花がここまで着飾っているのだから、働いているあなたがたには、なおさら着る物が与えられるでしょう、と言われています。

同じ章で、このように言っています。

🌷そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。🌷

イエスは、とりあえず心配をしてはいけないよ、と言われます。

今、社会全体が食べる物、着る物、住む所を心配するような構造になっています。
日本人のほとんどは、物が無くなるという不安の病に苛まれています。

その解決は「天の父が養って下さる」という真理です。
私たち、神の子どもは、物質の必要に関して神にゆだねる特権があり、義務があります。

🌷あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。🌷

🌷だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。🌷
マタイによる福音書 6:27, 34 新共同訳

昔々、心配と不安に苛まれていた頃、聖書を手にする機会があった。

どこをどう読めばいいのか分からず、パラパラとめくっていた時、最初に目についたのが、今日のこの箇所だった。

読みながら、涙が止まらなくなり、妙な安心感を得られた記憶がある。

それから聖書を学ぼうと思い始め、教会に足を運ぶようになった。


思いわずらうな 【マタイによる福音書 6:25】

2020-09-04 13:00:00 | 日記
🌷自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。
命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。🌷
マタイによる福音書 6:25 新共同訳

イエスは、心配の問題について語ります。

私達は富に仕えず、神に仕える決断をする時、富が自分から離れていき、貧乏になるのではないかという不安が生じます。そこでイエスは心配しないように語られました。

イエスは、心の中を食べ物や着る物で一杯にしてはいけません、と言われています。

それはなぜか。

いのちや、身体の方が大切なのに、食べ物や着る物に思いを注ぐ事は、バランスの欠けた生活であると言います。