岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

白馬村山麓の秋

白馬村山麓の秋

2011年10月9日、昼過ぎ、旅は、戸外で白馬三山を見ながら新蕎麦を食べるという贅沢で始まった。新蕎麦は特にうまいとは思わなかった。蕎麦の傍に付いていた皿に盛られたこんにゃく芋も素朴ではあったが、その味に舌鼓を打つことはなかった。畑の中に一時的に設えられた簡易食卓の周りでは、赤とんぼが草花の上を飛んだり、中空で停止したりしていた。後立山連峰(北アルプスのうち黒部川の東側に連なる山群)がくっきりと見える。正面の空の右から、白馬岳(標高2,932m)、杓子岳、鑓ヶ岳。指を指して誰かに教えたくなるような、秋空に並び立つきらびやかな屏風。暖かく優しい光の充満。私の心はゆっくりと開いていった。

ホテル「五龍館」の売り物の一つは井戸水だった。300年前の水という。浴場への行き帰りに必ず数杯飲んだ。多治見を8時頃出発し、ホテルには昼頃到着した。MTBを借り、小日向(おびなた)の湯まで坂道を上り、帰りは松川周辺、そして木流川散策路を走った。松川、それは私が今まで見た川の中で最も美しい川の一つだ。「日本の美しい山河」と私は心の中で自分に言った。水辺に立って見る、その清冽な澄んだ水と白い泡を。ふと、柿本人麻呂の歌「もののふの 八十宇治川の網代木に いさよふ波の ゆくへ知らずも」を思い起こす。この松川に釣り糸を垂れて、もし魚が掛かれば、私の憂愁は消え果てるだろうか。遠くの土手では一人の青年が沖縄の三線のような弦楽器を胸に抱えて弾いていた。近くの川原では一組のカップルが白い石の上で重なるように寝そべっていた。幾度も白馬三山を仰ぎ見つつ、私は松川のせせらぎに対して飽くことなく耳を傾けた。こういう自然美を守るためなら人は命を賭けるだろう。翻って、自分は何に命を賭けてきたのだろう。木流川散策路は私に懐かしい景色と匂いとをもたらしてくれた。私たちは田んぼを見ながら小さな川沿いの土の道を自転車で駆け抜けた。畦道は寂しい旅人を包み込むように優しい弧を描きつつ里に続いている。誰もいない雑木林の中の木漏れ日、立ち止まって夕暮れまで道草を食っていたいような小さな木の橋。何もないけど何かがあるような印象を受けながら、私は幸福を吸ったり吐いたりしていた。自転車って、こういう道を走れば楽しいんだ。ここと同じような風景があった50年前の伊吹山麓を歩く自分に私は出会っていた。あの時も、幸福だったんだろう。つくづくと思う、幸福は過ぎてから味わうものだ。

MTBで坂道を2キロほど上って行くと、道端に「白馬八方尾根温泉」の看板が出てきた。400円払って露天風呂に入ると、5,6人客がいた。空から降り注ぐ秋の光は、透明な湯にも白い岩石にも跳ね返って乱反射していた。ある青年は湯に浸かりながら、タオルで自分の口の中を何度も拭うようにしていた。不潔なことをする男だ。そのタオルを湯の中に入れたら、私は出るつもりだったが、男は湯の中には入れなかった。鏡の前で剃刀で髭を剃っていた青年が湯の中に入ってきた。左顎の下に切り傷を作って赤い血を流していた。あの血が湯の中に入ったら、私は出ようと思った。世の中には、色々な人がいる。私は男の血が湯の中に溶け込む前に逃避した。

10月10日、ホテル「五龍館」を出た後、私たちは八方尾根に登った。八方池まで行くと、風が強くなった。空腹ではなかったが、何もせずに引き返す気にはなれず、背を丸めるようにして大きなお握りを食べた。天気は申し分なかった。白馬三山も間近に眺めることができた。ただ風が強くて、吹き飛ばされる危険を感じた。山では臆病が許される。八方池から唐松岳までは近くて遠かった。(遠い道。思えば、人は誰も遠い道を「ゆくへ」も知らず歩いているのではないか)

八方尾根から正面の東方の地を見下ろすと、南北に横切るJR大糸線や姫川の向こう側に小さな集落が私に手招きをしていた。見つめていると、悲しくなるほど行きたくなる山腹の集落だった。「ああいう所に行ってみないな」私は古女房に言った。その時は、まさかそこに行けるとは思っていなかった。白馬三山に別れを言った後、ゴンドラで下り、ホテルの駐車場に戻った。何かを探して白馬村の地図を眺めていた。「昔ながらの原風景が残る棚田百選 青鬼」と書いてあるのを発見した。位置関係から推し量ると、私が八方尾根から見下ろしていた小さな集落に違いなかった。後先も考えずに私は青鬼集落を目指した。

「青鬼」と書いて、「あおに」と呼ぶ。山林に取り囲まれた棚田があるだけだ。50代の住民は二人だけであとは高齢者ばかりだ。年々空き家が増える。85歳の住民から聞いた話に少し驚いたことがある。30年前、白馬岳の頂上宿舎建築の際の現場監督だったと言う。夏の3カ月しか工事できないので、竣工まで3年かかった。松川の河原からヘリコプターで現場まで通った。所要時間15分。1回で3トンの資材を運んだ。帰りは資材がないので、5分で戻れた。標高3千メートルから一挙に5分で降りるので、気圧変化のために耳が痛くなった。私たちは元現場監督から買い求めた「雪解けサイダー」を飲みながら話を聞いた。
「ここには何人くらい住んでみえるんですか?」
「20人。あそこも空き家だ。あの君は東電のどこかの所長をやってるよ。来年は定年で戻ってくる。別荘として使うために今修理しているんだ。その隣も現在空き家だ。明大の教授をやってるよ。二人は同級生だ。こっちの君も来年戻ってくる」
「ここの米の値段はいくらですか?」
「ここはみんな自家用米だ。若い者は天日干しにしないが、年寄りは稲架掛けする。天日干しにすると、稲の栄養分が全部米に入るからうまくなるよ」
この何もない標高760mの山間の地。東の峰の向こうは鬼無里村。私たちが立ち話をしている細い道を峠の方へ進んで行けば、小谷村に通じている。この空き家が毎年増えていく、何もない年寄りばかりの山間の地に、私は私の心を残した。棚田を形成している石垣の上に江戸時代の小さな石仏が立っていた。寂しくない寂しい風景だった。こういう風景が私の求めているものだった。この青鬼地区で灰になるであろう元現場監督が私は羨ましかった。青鬼の同じ道に二人は立っていたけれど、私から元現場監督までの道は近くて遠かった。
「俺の子供の頃は、小学校まで片道4.5キロの道を毎日歩いて通った。だから、ここで育った者は、マラソン大会では毎年優勝したよ」
何もないことはなかった。人の足腰を鍛える遠い道があった。西の空を見上げれば、人の心を慰め育てる白馬三山があった。春になれば、菜の花に囲まれた田の面にも映る白馬三山があった。

10月11日朝、私たちは白馬五竜スキー場のアルプス平駅から標高2007mの小遠見山を目指した。見えるものは白い霧ばかりだった。私は途中で引き返す積りだった。視界は5m。前日までは快晴だったのに。心も足取りも自然と重くなっていった。霧は、しかし、流れていた。濃くなったり、薄くなったりしていた。前方の峰のほんの一部が見え出した時は、嬉しかった。唐松岳や五竜岳が姿を現した時は、心が躍った。私たちはもう引き返すことは考えなかった。見えたり隠れたりでいい。いや、雲間から見る山岳風景には絵画的な美が漂う。それはそれで味わいがある。私は何度も写真を撮った。ナナカマドの赤い実の輝きに目を奪われた。広葉樹の葉っぱの紅色と黄色との美しい対比は心の奥にまで染みとおるようだった。小遠見山の頂には10名程の登山者がいた。360度の展望が楽しめる場所だ。私たちは姿を現すたびに目の前の五竜岳や唐松岳を眺めた。霧も晴れると心も晴れる。山は天気がすべてだ。運の良い日もあれば、悪い日もある。それだけだ。

大町温泉郷の中の湯に入ってから帰途に就いた。私たちの旅は終わったが、私の旅は終わらない。来年の夏は縦走してみるか。野望がなくなったら、人は死んだも同然だ。私は「日々、自分の外へ出る」という決意をする。内に閉じこまらずに、世界の中の自分と自分以外の存在を見るために。

旅から戻った後の週休日、10月16日、私は意を決して御嵩町へ自転車を買いに行った。走らねばならない。あそこへ行くためにも、そこへ行くためにも。そして、いずれは、どこかへ行くために。

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