創造雑感

創造雑感ノート

「小林秀雄の「モーツァルト」より

2022-06-15 15:49:05 | 雑感 人生 世界観 芸術表現

 

 

「小林秀雄の「モーツァルト」より

下記の文章は小林秀雄の「モーツァルト」に関する内容をシュタイナーの「自由の哲学」的観点から考察したものです。

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私が小林秀雄の「モーツァルト」を読んでいてどうも引っ掛かる内容があると書きましたが、それはモーツァルトが如何にも溢れるように易々と音楽作曲を行っていたかのように考察されている事です。
モーツァルトの手紙が3章の最初に引用されています。
「――構想は宛も奔流の様に、実に鮮やかに心のなかに姿を現します。 後略」

この手紙だけを読むと確かに小林秀雄が「言わば精神生理学的奇跡」と驚嘆するのも不思議ではありません。
しかし、下記にあるモーツァルトの手紙を読むと作曲が易々と出来たものではないという事が分かります。
小林秀雄がこの手紙を読んでいなかったのか、或いは、知っていて敢えて無視したのか、という事です。
モーツァルトがどれ程神童であったとしても、「作曲に関しては音楽家で自分以上に考えたものはいない」と断言しているという事は、モーツァルトに尋常ではない天性の素質と集中力があったにせよ作曲創作に関しては相当の苦労があったという事になります。

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「モーツァルト ウィキペディアより」

死去する3年前の手紙[11]に自分自身のことを語っている。
「ヨーロッパ中の宮廷を周遊していた小さな男の子だったころから、特別な才能の持ち主だと、同じことを言われ続けています。目隠しをされて演奏させられたこともありますし、ありとあらゆる試験をやらされました。こうしたことは、長い時間かけて練習すれば、簡単にできるようになります。僕が幸運に恵まれていることは認めますが、作曲はまるっきり別の問題です。長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人はほかには一人もいません。有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究しました。作曲家であるということは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味するのです」
出典
[11]:ドノバン・ヴィクスレー『素顔のモーツァルト』清水玲奈訳、グラフィック社、2005年 
     

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何故、小林秀雄はこの様な「モーツァルト論」を書いたのか?という事になります。
小林秀雄が自ら言ったように此処に読み手が口づてに直に読み解き、噛み砕かねばならない「糸口・論点」があります。
小林秀雄に限りませんが、批評の物差し、根幹は自分自身の経験、体験に裏打ち、血肉化された個人の人生に対する見方、立ち位置です。その徹底度に応じて他者の意識状態等が考察されます。

郡司勝義氏は小林秀雄の身近な編集者で、小林秀雄の事を書いた著作「小林秀雄の思い出」があります。
その著作の中で小林秀雄が志賀直哉を評した短い一文があり、「志賀氏の眼は、小説家の眼というより寧ろ画家の眼だと思います、言葉にわづらはされてゐない点では、画家の眼は、小説家の眼より、ずっと冷酷なのです。」と。
この「冷酷な眼」というものはレオナルド・ダ・ヴィンチが自分の弟子が「物を盗む時の身体の様子、心理と肉体の動き等」を冷徹な科学者の眼差しで観察した如きものです。

私自身の事で恐縮ですが、私自身が幼少期から人間存在に対して抱いていた観察眼と同じものです。自然界の摂理に従わずに好き勝手に生きている人間共は何と不純極まりない生き物か、と。
私は皆様にも過去に何度も自分自身の幼少時の時の意識状態を語っていたと思います。
私は既に「相対的意識」が感覚的レベルで天性のものとして具わっていました。
この相対的意識状態はあらゆる「物事」を公正に観る、いわば獣のような眼差しです。無私、無常観とも言えます。この意識状態を保持しつつ、自分が自由に人間社会で生きる事が可能な画家という職業を選びました。

私が先に「表現について」で引用した小林秀雄の「生活するだけでは足りぬと信ずるところに表現が現れる。表現とは認識であり自覚なのである。いかに生きているかを自覚しようとする意志的な意識的な作業なのであり、引いてはいかに生くべきかの実験なのであります。こういうところで、生活と表現とは無関係ではないが、一応の断絶がある。悲しい生活の明瞭な自覚はもう悲しいものとは言えますまい。」
この引用文の「悲しい生活の明瞭な自覚はもう悲しいものとは言えますまい。」という意識状態はそのままモーツァルトにも当てはまります。
モーツァルトは一般的な、個人的な意味での悲しみとか孤独のような感情は皆無であった、と。これは私自身がそうであったように、です。
モーツァルトの感情は無機質で意識空間は乾いている。あえて言えば、俵屋宗達と尾形光琳に例えれば尾形光琳の方です。
私はモーツァルトの音楽を聞いても透明感は感じても感動は全くしません。
彼の音楽には乾いた相対的意識、虚無感があるからだと感じます。
それは雪舟の相対的世界観の表現に類似したものです。
それとロダンが作成したモーツァルトの肖像を「前略 ロダンの考えによれば、モーツァルトの精髄は、表現しようとする意志そのもの、苦痛そのものとでも呼ぶより仕方のない様な、一つの純粋な観念に行きついている様に思われる。」と、書かれていますが、これは小林秀雄自身の肖像でもある。表現されたものは自分自身を写し出す鏡でもあるからです。
ロダンのモーツァルト像にはあらゆる人間心理、感情が彫刻の内部に充満している。しかし、感情の根源的意志の実体は顕れてはいない。このロダンの表現に顕れてはいない根源的意志を如何に顕そうとしたのかがブールデルであった。ロダンの彫刻表現は人間の感情表現に於いてのみ巧みであったからである。
さらには、モーツァルトは純粋音が絶えず、魂・精神の裡に鳴り響いていて音以外に自分を的確に顕す以外の方法は無い、言語化は困難であった、と言っている様に日常生活の人間関係では頗る浅薄、いい加減な対応しか出来なかった。

これは彼がまだ「倫理的個体主義」に至っていないからです。

「モーツァルト」に小林秀雄が詩人ステファン・マラルメの言葉を引用した「すべての書は読まれたり、肉は悲し」とは「自由の哲学」第五章に考察されている、
「前略 人間は限界づけられた存在である。第一に人間は他の諸存在の中の一存在である。人間の生活は空間と時間に従っている。それ故、常に全宇宙の特定部分だけが彼に与えられている。―中略― この自己知覚は、思考による自己規定と区別されなければならない。思考を通して外界の個別的な知覚内容が世界全体に関連づけられるように、私は思考を通して自分自身の知覚内容を宇宙のいとなみの中に組み入れる。自己知覚は私を特定の限界内に閉じ込める。思考はこのような限界にとらわれることがない。この意味で私は二重存在であると言える。 後略」
マラルメの「肉は悲し」とは上記の「自由の哲学」(シュタイナー著・高橋巌訳)に考察されている自己知覚にすぎません。 

ただ、小林秀雄には前にも書いたように「情」を完全に払拭する事が出来なかった。これが小林秀雄の長所でもあり弱点でもあります。
無論、良し悪しの問題では決してありません。
小林秀雄の基調低音「いかにかすべきわがこころ」は人間存在に対する「深い真面目な愛」ともいうべきものです。
しかし、この小林秀雄の意識状態に留まる事は出来ません。さらに深く自己認識をすることが人間には求められているからです。
シュタイナーの世界観、倫理的個体主義の意識状態に至るまで我々人間は進化しなければ本来の人間とは言えないからです。

シュタイナーを学んでいる限り、小林秀雄が「モーツァルト」の中でゲエテのファウスト考察で用いた「八重の封印」を胸中深く蔵しつつ現実生活を歩まねばならない、という事です。

今日の世界の現状を観ると、本当に眼がくらむ程遠い道程です。
例え、遅々とした足取りでも自覚した者は確実に歩むしかありません。



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