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ひと筆めぐり 【新発見・再発見・摩訶不思議・唯一無二】への楽しみ…

地域に息づく歴史のひと幕にふれ、…遥かなる往時に思いを馳せる

龍穏寺の五輪塔

2021-09-06 | 石仏
龍穏寺の五輪塔
(南丹市園部町仁江)


まもなく紅葉の一代絵巻が堪能できる有名な寺院である。『玉寶山龍穏寺』は曹洞宗の名刹で、現在も末寺31カ寺を持つ。
寺の創建は永正6年(1509)、月山禅宋和尚の開基。園部藩主家老であった太田氏の菩提寺でもある。本堂裏山に太田家歴代の墓地がある。当時は七堂伽藍を備え、中世期頃、地方の豪族足利氏(藤原氏)が支えてきたと、寺の案内板に書かれている。参詣階段中程に園部町最大級!の五輪塔が堂々たる風格で凛と立つ。誰の供養塔なのかいつ頃造られたのか…興味津々。此れだけの大きな塔は身分の高い人、経済力のある者でなければ造れるものではありません。一般庶民も作れますが一石五輪塔レベルでしょう! この塔に関するお話・資料等を知りたくてお寺様・行政に尋ねるが無いとの事。牽強付会に注意し推察域の範囲での荒い悉皆調査を楽しんだ。①末寺廃寺(半田安谷の神護寺)の五輪塔の移設説。②足利氏の供養塔の説。③禅宗ゆかりの有力者説等々…。今回は南丹市園部町仁江(にえ)に立つ石造文化財『園部町最大級・屈指の五輪塔』に光を当ててみた。


塔形は基礎石二段の上に、下から「基礎・塔身・屋蓋・請花・宝珠」の五部から構成。各部は下から方形(四角形)・円形・三角形・半円形・団形となる。全高1.6m。
禅宗(臨済宗・曹洞宗)…地・水・火・風・空
日蓮宗…妙法蓮華経
天台宗(密教)…南無阿弥陀仏
浄土宗…南無阿弥陀仏
浄土真宗では五輪塔は造らない!


地輪:高さ38cm、幅42cm
正面に「地」を刻む。その下に「〇〇三十二人」、右側に「文久〇〇〇〇〇」の文字が風化して解読不可。何とか文久と三十二人のみ解読可(!)。1861年
基礎石に反花式の単弁の蓮華を刻出するが、苔が繁茂している為…

水輪:高さ45㎝、幅42cm 
水輪は扁平な形態をとり「水」の文字が読めます。

火輪:高さ29cm、幅42㎝
火輪は緩やかな弧状を描き、「三角の形状」とする。屋根面と軒に反(そ)り、そして厚い軒口を持つ。「火」の文字が読めます。


風・空輪:高さ38cm
風空輪は一材で造る。「風」「空」の文字が読めます。





興禅寺の碑(いしぶみ)

2021-09-03 | 神社仏閣
興禅寺の碑(いしぶみ)
(南丹市園部町船坂上ノ段)



園部町の寺院をめぐって…三年余り。町域に44カ寺程!ありますが、只今その7割程訪ねることができた。その殆んど禅宗、特に曹洞宗が圧倒的に多いのには驚いている。なぜ!どうして!だろうか…疑問符が付くところ。その時代の藩主(領主)の影響が…強く働いたと推察するが!?…。蛇足ですが能勢地方(大阪府能勢町)では、領主能勢頼次により領内の寺は全て日蓮宗に改修させられた地域もある。
境内に後世に伝える碑が建っています。碑文には『隋処作主』と刻まれています。人の道の奥深い含蓄(がんちく)な言葉ですね。ご住職に碑の意味を聞くと、臨済宗開祖の臨済義玄禅師の言葉で「随処作主」(ずいしょさしゅ)。「どこへ行っても、主になって行動すべし」という意味だそうです。自分が選んだ道や、与えられた道に従い精一杯生きるという意味らしい。



<「久我竜胆紋」が大屋根の右側に大本山永平寺の寺紋>


<「五七の桐紋」が大屋根の左側に大本山総持寺の寺紋>

善願寺・釈王寺の今昔ばなし

2021-09-02 | 伝承
善願寺今は釈王寺の今昔ばなし
(園部町小山谷ノ下)

園部町小山谷ノ下に善願寺がありました。典薬頭丹波頼廉の祈願所として建立したと云われている。天正4年(1576)、織田信長の命により明智光秀は丹波攻めに入り、八木城攻略・落城すると…次々と近辺の山城主たちは明智方に走っています。唯一明智光秀軍と徹底交戦を展開したのが善願寺山城であった。この山城の裾野に『善願寺(天台宗派寺院)』があります。その寺の僧兵と共に一進一退の戦いを展開、常に園部城主荒木長綱との密約に従って明智光秀軍を苦しめたが、ついに本堂・伽藍等を焼失する。焼け落ちた跡地大石の上に薬師如来の尊像を安置、風雨にさらされても慈悲悠久の姿に変わりはなかったと云いう。土地の人たちにより堂宇が建てられ、薬師如来をお堂の中へ移され安置され今に至るが…今は町内の某大学敷地内となり堂宇は…ないと聞く。
善願寺は当時、七堂伽藍を有する勢威隆々たる寺院で三軒屋の大蛇退治のお告げを出した…今昔の昔ばなしにも登場する寺であった。
(参考資料/園部の歴史を訪ねて⑨)
 
<お堂内に、善願寺(廃寺)・釈王寺の開基・開山者と思われる尊像が安置、あるいは天台宗派の高僧か、弘法太子(空海)かも…関係資料の持ち合わせてない為…今後の宿題としたい>

<善願寺(廃寺)・釈王寺となり今は町内大学用地跡となり。その姿は…今はない。その一角にお堂が建つ、善願寺・釈王寺の栄枯盛衰をしる貴重なお堂である>

<お堂の格子から覗き見ると…何とか「第二番〇〇山釈王寺」と読みとれるが、他の文字は…読めない>

<お堂の正面右上に、「子安地蔵尊」の歌が書かれているが文字は薄れかすれて解読不可に近い!>

三軒屋の大蛇退治(昔ばなし)園部町

2021-09-01 | 伝承
三軒屋の大蛇退治 (昔ばなし)

(園部町小山東)


園部川の激流が川岸に当たり岩は甌穴(おうけつ)になり、恐ろしい渦を巻く「オケ渕」があります。この渦の中に渕の中に、大蛇が棲んでいると云われている。園部川の川筋には、当時を偲ぶ昔ばなしが沢山残っています。その舞台に立ちたく度々訪ねているが、労多くして実りは少ない…、今回念願が叶い紹介できるに至る。
『大蛇の姿は三間余りの大きさ、誰も恐れてこのオケ渕には近寄らなかった。「オケ渕」の裏山に街道が通じているが難所の一つでした。この渕の主の大蛇は、冬の間は渕の底に眠っていて、春になると動き始めるのです。洪水を起こし、作物を荒らし村人や旅人を襲い飲み込んでしまうのです。村人たちは困り果てどうにかして大蛇を退治できないかと色々な策を立てるのですが…すべて失敗に終わりました。大蛇はますます横暴になるばかり、そこで村人たちは、集まって相談ました。神頼みしか道はないと春日明神のお告げもらうのです。…そのお告げによれば「小山村の豪族赤坂蔵人唯重」により大蛇を退治すべしとの事。蔵人唯重は遠矢の名手でありお告げに従い決死の覚悟で退治することになりました。
早朝、オケ渕から出てきたところ弓を引き遠矢を放つ…見事大蛇の左目を射ぬき、大蛇は猛然としてオケ渕の山上へとのたうちあがって行方をくらました…。
無事に大蛇が退治できた翌年、この地方に熱病が流行したのです。困った村人は善願寺(廃寺)の住職にお伺いを立てたところ、大蛇のタタリ(呪い)だと云うお告げがでました。早速、大蛇が逃げこんだ所に祠を立て、大蛇の霊をねんごろに祀り供養をしました。これが「大塚権現」です。戦後に大蛇が隠れたと云う巨岩の上に「大岩大神」の碑が建てられました。それ以後、小山東の田んぼは、秋になると稲穂が重く垂れ、黄金色に波打つ。街道は行き交う人で賑わい繁盛しました。』
(参考資料/シリーズそのべひすとりー、園部101年記念誌等)
 

おわり

<国道9号線園部ビューホテル横より、朱色の鳥居が目印で…。参詣道は荒れ朱色の鳥居は朽ち果て痛々しい。数分歩くと「大岩大神」「大塚権現の社」の全景が現れる>


<「大岩大神の碑」【タテ40㎝、ヨコ40㎝】の大きさ、力強い行書体で刻まれている>


<「大塚権現」「大岩大神」が鎮座する山は7000万年前の火山活動でできたもので、縞模様の凝灰岩がいたるところに露頭している。
(るり渓の地層と岩石より)>