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ひと筆めぐり 【新発見・再発見・摩訶不思議・唯一無二】への楽しみ…

地域に息づく歴史のひと幕にふれ、…遥かなる往時に思いを馳せる

宝篋印塔 園部町船坂

2020-03-20 | 石仏
九品寺の宝篋印塔 園部町船坂
船井郡の西国三十三カ所観音巡礼の一番寺が『九品寺(くぼんじ)』です。
『補陀落も九品の寺もとふからぬ こころの花のうてなしぞしる』ご詠歌
江戸時代巡礼盛んなる頃が偲ばれる。この寺を訪れるたび栄枯盛衰を見てしまう。(注)補陀落(ふだらく)とは観音菩薩が降臨する霊場のこと
九品寺の境内地に立派な宝篋印塔(二基)が玉垣の中に建っている。正面には宮内庁の掲示板が設置、ここには九品寺再興の『白河天皇皇子覚行親王墓(第二門跡覚行親王)』の御廟所(墓)と書かれている。宮内庁管理の墓地であり、ここだけは別世界感。
正面向かって左の塔の高さ1.4㍍、右の塔は高さ1.3㍍程である。無断立ち入り禁止の為、近づけない。製作年代は不明であるが、園部町内に現存する宝筐印塔を見て…基礎・塔身・笠・相輪等の時代特徴から南北朝初期と推察する。
二基をよく見ると塔の製作者(石工)は別々のように思う。右の方が均整がとれている。左の塔の相輪上部の造りが何か弱いように感じます。などなど総合的に判断すると石工は同人でないようですね!



埴生城主屋敷跡に江戸初期の銘が…

2020-03-07 | 石仏
江戸初期の元和(げんな)二年の銘に…足がとまる。
埴生(はぶ)地区の檀那寺である最福寺(曹洞宗)。寺墓地沿いに蛇ケ谷川が流れ、鋼鉄橋を渡り右山裾沿いへ進むと埴生城主・野々口屋敷跡へ…。その昔の道は四尺道(約1.2m)、この道こそ中世の埴生城集落の中心道、要の道であった言われている。
今回は橋より左へ…少し下る。すると石造物が散乱(転がっている)しているのが目に入る。一石五輪塔や墓碑、五輪塔の笠等。往古、お墓だったと思われます。
その一基の基礎部に「造立年、戒名、月日」が刻まれている。石英閃緑岩(花崗岩)の硬い石を使っているが、風雪にさらされ風化が激しく…解読は超難解である。各部の文字が浮かび上がり…何とか解読可。江戸初期(1616)!に造られたことが分かる。五輪塔の基礎石上面の少しむくりを付けた複弁返花が印象的、木漏れ日を受け浮き上がる。丹波の山裾を歩いていると…400年前の歴史の幻想に立っことがしばしば…。
元和二年 明徳真珠大姉 九月六日
むくり付き複弁返花

この「明徳真珠大姉」は野々口西蔵坊にゆかりのある、大姉(人物)的な存在であったかは…定かでない。今後の調査課題とする。墓碑の規模からして、地域的支配権(影響力)を持った女子であったとみてよいのでは…

一石五輪塔 徳生寺(曹洞宗)

2020-03-05 | 石仏
徳生寺の一石五輪塔

徳生寺の境内の植え込みの中に、五輪塔、三界萬霊碑等がある。そのところに『一石五輪塔』が四基程見ることができる。
見る限り年月を経てきたことがわかる。古いものだと…、『室町中期頃~』のものと推察されます(牽強付会にならないように、以下塔の背景を…)。

五輪塔は平安中期頃から、地域的支配権を持つ者の供養塔・墓石として造られたのが始まりで、財力のない庶民は造れませんでした。時代は室町中期に入り、一石(角柱)を削りだし簡略化され比較的安価な一石五輪塔が造られるようになる。これにより庶民層にも極楽浄土信仰が爆発的に広まっていきます。近畿(五畿内)に存在する一石五輪塔は数多ある、1尺5寸(約45センチ)、2尺(約60センチ)、2尺5寸(約75センチ)の三種類がほとんどです。この一石五輪塔の地上部を実測すると55cmでした。一部、土の中に入っています。二尺塔(60㎝)の一石五輪塔でしょう。和泉砂岩製の石を使い産石地で整形されたものとおもわれます。石の町、旧東能勢村(現大阪府豊能郡豊能町)の一石五輪塔は、ほとんど和泉砂岩製のものを使っています。数年前、一年かけ悉皆調査をした。

宝篋印塔 園部町若森

2020-03-01 | 石仏

宝篋印塔 (園部町若森「 普済寺 」)
度々の癒しの寺、普済寺。今回は石造物の探訪である。あまり有名な石造物には関心度はない!、道端の石仏、逆修仏や石灯籠、石鳥居等に目が向く。今回は例外の一つ。
普済寺の前身は、この若森一帯に天台宗で太平山佳松院があったと伝えられています。平安時代の初め、光孝天皇の第七王子定省(さだみ)親王と妹の王女二人がこの地に落ち、佳松院を創建したと伝えられている。
普済寺境内には、立派な威風堂々たる『宝篋印塔』が、天満宮の横に立っている。
この塔は佳松院に関わる証は記されていない。つい佳松院の供養塔五輪塔かと…牽強付会になってしまう。それほどの宝篋印塔である。



以下、宝篋印塔の雑学程度です。
宝篋印塔は石積の上に建つ。基礎部は少しむくりを付けた複弁反花、各側面に輪郭を巻き内に格狭間(こうざま)を入れる。塔身は月輪(がちりん)をもうけ金剛界四仏の梵字(ぼんじ)で入れている。笠部は上六段下二段、二弧の輪郭を持つ。相輪部は、上請花は単弁、下請花は複弁。各部の欠損なく一級品の石造物である。14世紀中葉から後半頃の造立と思われる(川勝博士『京都の石造美術』によれば塔高188cm、南北朝初期と推定)(花園大学教授/吉田 清の故郷探訪には鎌倉時代)と紹介されている。尚、吉田先生のふるさと探訪を参考にさせていただきました。

巡礼碑 園部町殿谷

2020-02-29 | 石仏
西国三十三所巡礼碑 園部町殿谷
前回紹介した『西国三十三所巡礼碑』に、一部、解読不可の箇所が数か所あり再度チャレンジする。
国道477、右に村墓地が見えその袖あたりに大きなアラカシ(どんぐりの木)の木が見える、その下に『西国三十三所巡礼碑』二基建つ。
一基(左)は延宝九年(1681)八月十八日に建立、十八日は観音菩薩の縁日にあたる。大谷村の巡礼満願した人たち14名が建てたことが分かる。この碑から察すれば殿谷村は、江戸初期時代は大谷村の中に入っていたと思われますね。
ニ基目(右)は、元禄四年(1691)八月十八日の銘、観音菩薩の縁日に共に巡礼した9名が建立者である。

右は『元禄四年八月十八日』『奉供養西国三十三所観音菩薩』『同行九人』。左は『延宝九年八月十八日』『奉供養西国三十三所観音菩薩』『大谷村同行拾四人』の銘文が刻まれている。二基とも巡礼記念碑とみて間違いない。西国三十三ケ所の巡礼を終えた同行者が供養碑として建立している。