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ひと筆めぐり 【新発見・再発見・摩訶不思議・唯一無二】への楽しみ…

地域に息づく歴史のひと幕にふれ、…遥かなる往時に思いを馳せる

八木城主内藤備前守の『一石五輪塔』の証

2021-02-01 | 石仏
八木城主『一石五輪塔』の供養塔  =徳雲寺境内墓地=

園部町には中世・近世をはじめ多様な石造物(石仏・五輪塔・宝篋印塔・石灯籠・手水鉢・多宝塔)等が現存する。そのほとんどは仏教関てのものが多いようです。
今回、徳雲寺の境内墓地内に、八木城主内藤備前守(内藤氏)の『一石五輪塔』が現存する事を『園部101年記念誌「翼」』より知り…訪ねたが、大きい墓地なので見つけるのに…労多く難儀した。この寺は園部藩主小出吉親の菩提寺である。
寺入口に不許葷酒入山門(くんしゅにゅうざんもんにはいるをゆるさず)の標石(葷酒塔)が建つ。此れよりニラ・ニンニク・ネギ・酒等を持ち込んだり、食してはいけない域なのです。
この葷酒塔の左道際に古い墓地(某氏一族とおぼしき墓)がある。この中に郷土歴史の落穂が、八木城主の歴史が眠る。風雨にさらされ苔むしる基壇石に、戦国武将内藤氏の証の銘文が刻まれ正しく読み取れる。歴史の片隅に置き去りにされ忘れ去られている?…感がする。園部町の石造文化財指定級の秀逸との出会いにワクワクする。…歴史の光がまだ当たっていないようですね? 『一石五輪塔(供養塔)』が語ろうとする声に耳を傾けると、中央歴史へと直結する塔である。 今回は一石五輪塔にスポットを当て、石造物の概略程度の説明を付けます。

一材角柱を削り地・水・火・風・空に成形しています(一石五輪塔)。石材は地元産の花崗岩を使っているようです。基壇を持つ。これは塔婆の一種で比較的安価な為、広く武士・庶民層に供養塔として普及、これにより極楽浄土信仰が爆発的に広がっていったようです。平安中期頃~室町後期時代にかけ盛んに造られてます。歴史文化の香り高い園部の山裾や寺墓地の寄せ墓に眠っていることが多い。
この塔の基壇部に年号は記されていないが、正面に『八木村』『右城主』『内藤氏之塔』が読み取れますが風化が激しい。全長約60㎝(二尺塔)で基壇22㎝×18㎝×18㎝、水部は11㎝、火部は10㎝、風と空部は17㎝の大きさ。
塔の上部(風・空)が自然の倒壊と思われる? 割れているが、上部は元の位置に置かれている。某一族子孫が大切に管理供養されているようです。
(個人名の墓地内なので、名前は伏せ某氏とする。)

『不許葷酒入山門』(葷酒山門に入るを許さず)と彫られた標石。この左奥に古い墓地あり。ここに『一石五輪塔』が眠っている。*注葷酒塔は曹洞宗の寺ではよく見かけますね。

不許葷酒入山門の標石前より、徳雲寺の山門・本堂・梵鐘・庫裏などが見渡せる。




大杉稲荷神社の手水石の¨えくぼ ¨

2020-10-21 | 石仏
大杉稲荷神社 手水石に『えくぼ」が付く…
園部町船岡、諏訪の森に大杉稲荷神社「正一位稲荷大杉大明神・諏訪神社・千葉大明神」の御三神柱が鎮座する。社の左手前に手水石(ちょうずいし)が置かれている。よく見ると盃状穴の凹があり目が留まる。園部町のひと筆めぐりでは初めての出会い。興味津々の逸品です。石灯籠の基壇や石風呂の縁、中でも手水石に多いように思います。…その窪みの石は´えくぼ石´と勝手に呼び、悉皆調査を楽しんでいる。
さて、この『盃状穴・窪み(えくぼ)』は…なぜ!どうして!出来たのだろうか?…疑問だらけ!?
❶子どもが野の草花を手水石の縁に置き、道端の石でコツコツ叩きながら…ままごと遊びをした名残跡との説
❷河床や海岸で岩盤の窪みに入った礫(小石等)が渦流によって回転し、少しずつ岩(石)を削り円形の穴ができる甌穴(おうけつ)とも云われる説
❸薬草を盃状穴に入れ、薬草を作った…遊びではなく深い民間信仰説等あり
その真相は…謎だらけ!?

手水石の荒い悉皆調査
縦…45cm 横…60cm 高さ…33cm 深さ…15cm 縁…10cm
盃状穴(凹)…18ケ
石材…花崗岩製
手水石に刻む銘を解読すると、南側…「河内村」 東側…「御神前」 西側は解読不可?


<御神前>字は崩れていますが読めますね


<河内村>村は剥離し判読不可に近いが、「村』として読み下す



<「正一位稲荷大杉大明神・諏訪神社・千葉大明神」>



ふくろうの手水鉢

2020-07-24 | 石仏
徳雲寺の手水鉢
歴史の息吹を伝えている。見て歩いて郷土歴史の一端に触れる…至福のひとときである。
徳雲寺は徳川時代園部藩主小出伊勢守吉親(こいでいせのかみよしちか)の菩提寺である。当寺が吉親の菩提寺となった頃、園部藩主の御廟所にあった「手洗鉢」を、当寺に持ってきたと聞く…。手洗鉢の四隅にふくろうがつく珍しい什具逸品である。高さ65㎝・横幅150㎝・縦幅80㎝。花崗岩製の石で造られている。四隅のふくろうの大きさは、高さ50㎝・幅20㎝の大きさ、足の先まで丁寧に彫り込まれている。銘文はなく詳細は不明。ふくろうは護法鳥と呼ばれ、宗法を護鳥として珍重されている。漢字で書くと不苦労(くろうあらず)と読む。この手水鉢は、小出吉親が先祖の地、尾張国(愛知県)熱国でコレクションの一つとして手に入れたもの…。前任地の出石から園部へ移封(転封)した時も手放さず持ち来たものと言われている。

 
<高さ65㎝・横幅150㎝・縦幅80㎝、花崗岩製>

<ふくろうの大きさは、高さ50㎝・幅20㎝>


層塔(五重層塔)

2020-04-10 | 石仏
層塔(五重層塔) 盛光寺 園部町大河内
【逓減率は0.95】

盛光寺(せいこうじ)の本堂境内、薬医門左側に三界萬霊碑と並んで建っている。『層塔(五重層塔)』を紹介します。
塔身の各部には「如来仏」が彫られている。基礎部の格狭間には室町期(1336~1573)の蓮華が刻まれていところから、室町末期頃の作であろう。各部欠損は無く完璧な園部町の石の文化財の一つである。【 総高165㎝ 相輪高40㎝ 笠高75㎝ 塔身25㎝ 基礎台25㎝ 】
石材は地元の花崗岩を使い薬研彫りで、四面に仏を彫るが尊名までは…難しい、印相からして大日如来のみ判明するが、他は?…。
境内地に大日如来と銘が入った手水舎があり。又大日如来仏の石仏も安置され、地元の信仰心が篤く、この仏には¨よだれ掛け¨がいく重にもかかっている。
層塔は平面が方形(四角形)で、層数五層。この塔の逓減率は0.95のようです。逓減率(ていげんりつ)は層塔をつくる上で大切なもので、層の笠は上に行く程横幅が小さく造ることでバランスの取れた塔(黄金比)になるのです。初層の横幅は34cmですので、2層目は34×0.95=32.3となり順に上層に上がる。塔には必ず逓減の言葉が出てきます。(逓減とはだんだん減ると言う意味です)知ると、分かると面白い……。


<層塔には三・五・七・九・十三重層塔がありますが、すべて奇数の数でつくられる>
<よく見てください、印相に注意! 智拳印は金剛界の大日如来!>
<本堂の扁額には盛光禅寺、見事な書体>

三界萬霊等碑 

2020-04-09 | 石仏
三界萬霊等碑 盛光寺(園部町大河内)
南丹市園部町をひと筆で巡り…只今、園部町大河内に入っている…
集落の高台に盛光寺(せいこうじ)曹洞宗が建つ。境内には二本の松があり、寺のシンボルとなっている。樹齢数百根は経つ老松は、寺とともに栄枯盛衰をくぐり抜けてきたのであろう…。その根元に中世から近世前期に造られたと言われている『三界萬霊碑』『層塔』を建っている。
境内薬医門の左横に二基が並ぶ。三界萬霊碑は高さ87㎝、横33㎝、厚さ20㎝、花崗岩で造られている。正面に『三界萬霊等』と彫られ、上部に月輪、下部には蓮華が彫られており、造った時期銘はない。長年の風雪で判読が困難。
推察域であるが江戸初期の作とみて…大きな誤りはない。
一般的には三界とは、一切衆生の生死輪廻する世界で、欲界・色界・無色界を指すと言われている。萬霊とはありとあらゆる精霊を指すので、これを回向することで有縁無縁の供養となる。
天正三年(1575)明智光秀は丹波平定に入る。地元の土豪波多野秀治(八上城主)が激しく抵抗する。戦いは一進一退を繰り返す。その戦いは5年に及び大河内も古戦場となり巻き込まれ、神社仏閣は焼かれ壊され、両軍の多くの命は大河内で露となっている。歴史を直視し仏教の教えから察すると、萬霊の霊魂を鎮めるために碑を建てたのであろう。現在は無住寺であるが、京都市東別院から法事があれば来られていると聞く…地元古老に聞く。





※明日は三界萬霊碑の横の″層塔″を紹介予定!