宇田川榕菴と珈琲

宇田川榕菴は江戸時代後期の津山藩医で日本の蘭学者です。日本における近代科学の確立に多大な貢献を果たしました。

本当のゆかりの地とは/榕菴の自筆資料を重文指定

2015-05-16 11:32:26 | 宇田川榕菴について

宇田川榕菴の自筆資料を市重文に指定
 /津山洋学資料館が所蔵


 津山市教委は、津山洋学資料館が所蔵する幕末の津山藩医で洋学者・宇田川榕菴(1798-1846年)の自筆資料を市重要文化財に指定した。
 語学や西洋音楽にも精通し「江戸のマルチ学者」とも称される榕菴の自筆資料は18点。日本初の植物学書「植学啓原」の出版前に赤字で直しを入れた試し刷り、「医聖ヒポクラテス」肖像画の下書きなどを貼り込んだ「宇田川榕菴蔵貼込帳」、トランプを模写した「和蘭(オランダ)カルタ」などで、榕菴の先駆的研究や旺盛な好奇心を伝える。
 市指定文化財はこれで156件となった。

 ↑毎日新聞(2015-05-14.23)

 その他の報道
 津山市重文に榕菴の自筆資料指定(山陽新聞)


 岡山県津山市には、こうした宇田川榕菴が遺した貴重な資料のほか、幕末に宇田川家の人たちが暮らした宇田川家旧宅跡、江戸時代に蘭学の名門として名を馳せた宇田川家代々が眠る泰安寺などの宇田川家ゆかりの史跡を巡ることが出来ます。
 宇田川榕菴の偉業にご興味のある方は、ぜひ津山市へ。

江戸で生まれ津山で妻とともに眠る

2012-09-23 13:56:12 | 宇田川榕菴について
宇田川榕菴(うだがわ ようあん)幼名:重次郎

寛政10(1798)年3月9日に江戸日本橋の呉服町で生まれる。

文化8(1811)年7月27日に実父の師であり蘭学者で津山藩医の宇田川玄真の養子となる。

弘化3(1836)年6月22日に津山藩鍛冶橋邸で没する。墓所は津山藩主松平氏の菩提寺である津山市の泰安寺。



写真は榕菴(右)と妻の墓。妻は薩摩藩医で日本最初の西洋産科医足立長雋の娘世。泰安寺(津山市)でともに眠る。

榕菴が文政10(1827)年に書いた「親類書」には、

松平越後守家来
 高50石 生国武蔵 宇田川榕菴

となっている。
松平越後守は津山藩主。当時日本橋を中心とした地域は、武蔵国豊嶋郡に相当する。

榕菴の実父、中島道義は越後国蒲原郡見付(新潟県阿賀野市・旧安田町)の漢方医中島理斎の息子で江沢養樹(初代、上総国(千葉県)出身)の養子となる。

江戸で生まれ育ち実父は越後の人であった榕菴は宇田川家の養子となった後は、津山で多くを過ごし、津山という故郷を持ったことを大変喜んでいたと伝わる。

その故郷・津山には榕菴の孫も同じく泰安寺に眠っている。