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おひとり様てるこの日記

てることいいます。50歳過ぎましたが気ままに生きてます。人生の危機感ゼロ。

癒されたなあ

2020-02-15 18:56:00 | 日記
ぬいぐるみを趣味で作ってる友人の個展に行ってきた。

場所は原宿の小さなギャラリーがアパートみたいにたくさん入ってるところ。

何年ぶりかの原宿で、道に迷う私たち。

グーグルマップを見ながらなんとか進む。

あ!あった!

可愛い友人が可愛いものたちに囲まれてニコニコしていた。











なんて可愛いの!!

一緒に行った友人とほんわかしながらぬいぐるみを眺める。

実はかなりのぬいぐるみ好きの私は、どの子をお迎えしようか慎重に選ぶ。

んー!全部欲しい!!

泣く泣く一個に絞った。




足を食べられて3本足になったかわいそうで可愛いタコちゃん。名前はタコ兄ぃと名付けた。

そして、もう一つは4月にお迎えすることにしたタマシイちゃん。

4枚目の写真のもふもふちゃんはなんとぬいぐるみのタマシイらしい(笑)友人らしい発想。

で、センターにいる茶色のもふもふちゃんに「長老」という名前を付けて、お取り置きしてもらうことに。4月のデザフェスでお迎えする。

デザフェスに行ったら、また新しい子もお迎えしたくなっちゃうだろうな。

この友人はアクセサリーも作っていて、うっかりと撮影し忘れたが、ピアスやイヤリング、ブローチなども販売しているのだ。なんて器用なんだろ!

不器用のカタマリの私には羨まし過ぎる。

本人も可愛い。こういう可愛いものが作れる人は心が綺麗なんだろうなあ。

そして一番私が気に入ったのはこの子。




この子は家族であちこち移動しながら暮らしているんだそうだ。

そしてある場所でこの可愛い小さな子に出会い、抱っこ!っていうみたいに両手を広げていたから、DACCOっていう名前を小さな子につけたんだって。

なんて可愛いんだろう、とほのぼのとしてしまった。

あー癒された!

たくさんたくさん暖かいものに包まれた一日だった。





父がインフルになった

2020-01-24 22:47:00 | 日記
何か悪い予感がして、前の日に簡単に着られる服を用意しといてよかった。

前日からコンコンと咳をしていた父。熱があるというので測ってみたら38度以上。これは12月にやはり熱が上がって動けなくなった時と同じ。その時も救急車を呼んで前に入院した病院に連れて行ってもらった。

夜中に布団の上にペタリと両足を投げ出して座っている父。トイレに行こうとして起きたものの、腰が抜けた感じで立てないらしい。試しに体を支える杖代わりに椅子に捕まらせようとしたが、体に力が入らないようだった。

オムツを履いているので、そのまましちゃいなよと言ったのだが、やりにくいようだ。仕方なく救急車を呼んだ。

救急車が来るまでに、前日に用意しておいた服に着替え、健康保険証などが入っている小さなファイルとお薬手帳と今飲んでいる薬、スマホ、財布、オムツ、靴下、靴をトートバッグに放り込んだ。父の上着を小脇に抱えて、ついでにもう届いていた朝刊をバッグの隙間に突っ込んだ。
 
父が担架で運ばれて行くのを見送り、素早くドアの鍵を閉めて、救急車に乗り込んでシートベルトを早々と閉める。

健康保険証の入っているファイルを手にして、救急隊の人の要求に応えられるように構える。なんか慣れてしまったな…。

やはりまた以前に入院していた病院に。到着してから救急車を降りると、知ってる道を走って救急の待合室に駆け込んで受付を済ませると、椅子に座り込んだ。スッピンの自分の顔がスマホに映ったので、眉毛をちゃんと描いてきたか確かめた。

大したことはないとは思うが、熱が39度近くあったから、肺炎でこのまま入院してくださいと言われたらどうしよう?と思った。そしたらまた気楽な一人暮らしが始まるのか、いや肺炎は命に関わることがあるからなあとか考えていたら、診察室から若い20代くらいの男子が出てきた。片手に包帯を巻いている。

私の後ろの椅子に座っていたやはり20代くらいの男子が声をかけた。どうやら仕事中に怪我をしたようで、8針縫ったとか、麻酔が効きにくいとか、労災の話をしていた。待っていた方が先輩の様で、缶コーヒーを奢ってあげていた。

二人で薬剤師が来るのを待っている間、仕事の話をしていた。ケガをした方の後輩が浦安出身だと思われていたが、実は姉崎だったみたいな話をしていた。浦安にはお姉さんが住んでいて、そこに世話になっていたらしい。

という二人の話を半分眠くなってきた頭で聞いていたら、やがて薬剤師さんがやってきて、二人は帰って行った。二人は夜中に仕事をする人たちらしい。大変だなあと思った。

結局、父はインフルエンザA型だった。予防接種をしていたおかげで軽くて済んだらしい。入院は免れたのでホッとして、同僚に仕事を休むことをLINEした。もちろん後で直接電話をした。

点滴をして新しいオムツをしている父。どうやらお粗相をしてしまったらしい。濡れてしまったパジャマのズボンをビニル袋に入れてくれていた。まさかの下は持って来ていない。どうしようかと思っていたら、紙製のパンツを履かせてくれた。上はもふもふの上着に、紙製の半パンツ。服装だけ急にチャラ男みたいになった父だった。

父が動けるようになったので、マスクをさせられた二人はタクシーに乗った。タクシーの中では運転手さんに悪いので、インフルエンザのイも言わないように気をつけていた。運転手さんごめんなさい。

その後、父は数日寝込んだ。トイレに入ろうとしてしばらくドアに立ったまま挟まっていたり、口に粉薬をどうしても入れられなくて私が手伝ったりした。熱が出るとボーっとしてしまうのは前から知ってたんだけど、今回は熱が高いせいか、ドアに挟まり度が凄かった。トイレに近い居間に寝かせてたら、居間からトイレに行く時にまず居間のドアに挟まってて、やっとトイレまでたどり着いたら、トイレのドアに挟まっていた。

トイレに入っても命中できなくて、あちこちに溢すので、トイレクイックルをたくさん買い込んだ。ペットシートを買おうか本気で悩んだ。結局買わなかったけども。私も自分の部屋に寝ないで、居間に続くキッチンに寝ることにした。テーブルと流し台の間に布団を敷いた。そうすれば、私の足の先のドアに父が挟まっているのがすぐわかるので。

インフルエンザが治った後も、そうすることにした。もうドアに挟まることはないが、何かあればすぐにわかるからだ。というわけで、今はとても狭い場所で寝ている。ちょうど布団の幅しかないところなのだが、包まれている感じがなかなか快適で、寝やすい。

難点なのは起きたらすぐに布団を畳まないとキッチンで仕事ができないこと。それと、布団の中で何かしようとしても、手が届くところに何もないこと。というわけでテーブルの下に本が何冊も重ねてあるのだった。




ちょっと介護6 退院後

2019-12-10 21:36:00 | 日記
父はどうにか退院した。無事にまた歩けるようになった。杖ついてヨタヨタしてるけど、入院前と同じくらいまでには回復した。退院したその日は帰ってすぐに敷いてあった布団に潜り込んですぐに寝てしまったけれど、次の日朝早く起きて風呂に入り、床屋に行ってしまった。要介護4のはずなのになあ。

私は看護休暇を取っていたので、退院の前日から4日間父にいろいろ付き添うつもりでいたのだが、結局私は疲れが出て、家事をやる以外はほとんど寝ていたのであった。

退院の次の日、ケアマネさんが家にきた。事前に頼んでおいたのだ。50過ぎ?くらいの男性で、ずっとニコニコしながら私たちの話を聞いていた。私が通所でリハビリができるところがないかと聞くと、ケアマネさんは思い当たるところがあるから、聞いておくと言った。デイサービスは、男性はそのほとんどが半日希望らしい。女性は一日中過ごすのを希望する人が多いそうだ。

父も半日がいいらしい。そういえば、父の姉、つまり伯母はデイサービスで一日を過ごし、すごく楽しいんだと言っていたっけ。ここが男性と女性の差なのかなあ。

でも、結局はデイサービスには行かないことになってしまった。ちょうどいい時間が選べなかったのだ。父は午前中を希望したんだけど、午後しか空いてなくて、喜んで断っていた。なんかわかってたんだけどね。本当は行きたくないんだな、このじじーは。

集団行動大嫌い。命令されるの大嫌い。同年代の年寄りは友達以外は大嫌い。面倒臭いじじーなんですよ。だから、リハビリに行くって言った時に行く気になったんだわーと喜んでいたんだけどね。

そして、私は初めて老人用オムツを近所のスーパーで買った。前のブログにも書いたけども、素晴らしい品揃えなので、老人用の何かが急に必要になっても困ることはないだろうな。その何かがよくわからないけど。

老人用オムツと尿取りパッドを抱えての帰り道、ふとまだ父が入院する前のことを思い出した。

この売り場で老人用オムツを買っている人を見る度に、介護してるのかな、大変だなあと思っていたのだ。それがまさか自分がこうやってオムツを抱えているなんて。他人から、介護してるのかな、大変だなあと思われているかもしれないんだ。でも、恥ずかしさはない。当たり前。パンツを買うようにオムツを買うだけだ。あの時私が大変だなあと思った人たちも、たぶん皆そうだろう。

さて、父が退院してホッとした。周りの皆様にも退院してよかったねーと言われた。しかしその中で一番ジンと胸にきた言葉は伯母からの「大変だったね、ご苦労様」だった。唯一、私一人に向けてくれた言葉だった。






ちょっと介護5 いよいよ退院

2019-11-18 12:06:00 | 日記
団地の情報網すげーなーと思ったのは、会う人ごとに「お父さん入院したんだって?」と言われること。元々、自治会の仕事をしてたり、今でも老人会の仕事をしているから顔がちょっと広いのだけれど、まさかこんなに言われるとは思ってなかった。同じ階段の人はまあわかる。なんせ、2日間で3回救急車を呼んだからねー。しかも朝方。

しかし、こちらが覚えてないだけなんだけど、顔見ても知らないおばさま方からゴミ捨てや買い物中や、電車の中でまで声をかけられると、元々すごい人見知りなので面倒で面倒で、平日の昼間におばさま方の集団を見ると遠回りしたりして逃げていた。根掘り葉掘り聞く人もいて、それも嫌だったから。

あと、父がよく行くスーパーのパートのおばさまにも「最近お父さん見ないわねえ」とか言われたりして、どんだけ外っツラええやつやねん!と思うと同時に、ありがたいような感じにもなった。赤の他人が父の心配をしてくれているのだから。確かに父とスーパーに行くと、レジのおばさまと立ち話や挨拶をしたり、そのお店で買わないのに専門店の人と挨拶をしたり。この人がこんなだから、私はかえって人見知りになったのではないだろうか?

さて、そんなふうに世間に揉まれた日々も終わりに近づいてきた。父は病院でリハビリに精を出していた。最初は疲れるのか面倒なのか、リハビリを勝手に終わらせようとして、リハビリの先生に叱られたりしていたのだが、「階段を登れるようにならないと家に帰れないよ。車椅子のままだったらエレベーター付きのマンションに引っ越すよ。お金かかるよ」「布団から起き上がれなかったらベッドを借りるよ。お金かかるよ」「私が仕事に行ってる間に一人で何かできるようにならないと、デイサービスに行かせるよ。お金かかるよ」と脅したら、黙ってリハビリをやるようになった。

そしてこの頃、ソーシャルワーカーのもう中学生(似)が退院後に老健に行かなくてもいいのでは?と言い出した。私はその施設がオムツを取れるようにしてくれて、歩けるように鍛えてくれると聞いていたので、入所させる気満々だった。しかし、リハビリの先生にも「老健に入るのもいいが、これ以上リハビリさせても、これ以上は良くならない。通所のリハビリでもいいのでは?お金もそんなかからないで済むし」と言われ、それならばそうしようかなと、老健を申し込みかけていたのを、キャンセルした。

正直に言う。父は3割負担だ。収入は多くない。今回のことで父の年金額を初めて知り、びっくりしたくらいに少ないのに、3割負担。なぜかというと、私が一緒に住んでいて、私の収入も計算に入れられているかららしい。たかがパートのスズメの涙ほどの収入なのに。それを嘆いていたところだったので、その話はありがたかった。世帯分離という方法もあるらしいが、それはまた後で考えることにした。

父の退院が間近になり、新しい布団を買ったり、履きやすい靴を買ったりしたのだが、そんな買い物をしていて気がついた。うちの近所のスーパーの介護用品の充実度が凄いことに。いや、今の時代どこもそうなのかもしれないけれど、今まで関係ないと思ってあまり気にしていなかった。

オムツなんかは今や当たり前だ。着やすい下着やパジャマ、履きやすい靴、杖、お風呂の椅子、強力な消臭剤、洗剤、ビニル製の手袋、簡易トイレ、その他たくさん。介護する人にも介護される人にも便利な時代になったと思う。私も安心して年を取れるなあと思った。

そして父はなんとか胃潰瘍が治り、無事退院することになった。私のたった2か月の一人暮らしも終わることになった。前に書いたとおり、父の財布無しではできない情けない一人暮らしではあったが、なかなかいい経験になった。未だに父に話してない楽しかったことも沢山ある(笑)

父が退院する前に、看護師さんが夜中のトイレを心配してくれた。というのも前に書いたが、父は普通よりも尿の量が多く、オムツから漏れてしまうことが度々あった。それで、普通とちょっと違うオムツの使い方をして、それをなんとか防いでいたらしい。つまりは、オムツで大事なとこをグルグル巻きにするということなんだけど、若くて可愛い看護師さんは少し恥ずかしくなりながらも、私にそのオムツの巻き方を教えてくれた。

しかし、正直、私がそんなことをやるのはちょっと勘弁であった。父に聞いたら、夜中に起き上がってトイレに行こうと思えばできたのだけど、トイレから一番遠いベッドだったので、面倒でオムツにしていたそうだ。なんつーオヤジ…。というわけで、家ではトイレに一番近い部屋に寝てもらっている。今のところ、失敗はたまにあるが、床をびしょびしょにしたとか寝小便したとかはない。たまにパンツにも挑戦しているらしい。

今回の父の2か月間の入院は、いろいろと学んだことが多かった。ひとときの出会いとはいえ、たくさんの人に父共々お世話になった。初めて経験することも多かったし、なんて私は甘ったれなんだろうと、自分を顧みる機会もあった。自分に自信を持った出来事もたくさんあった。それから、いろいろな人が他人ながら父のことを心配してくれて、非常にありがたかった。

もう二度と入院されるのはごめんだけど、近い未来、そんなわけにもいかなくなるだろう。本格的に介護をする日が来るかもしれない。その時は落ち着いて老人ホームを探すしかないのかもしれないな。







ちょっと介護4 初めての一人暮らし

2019-11-10 13:41:00 | 日記
さて、私はアラフィフだが、今まで一度も一人暮らしをしたことがない。本当は20代の頃に一人暮らしをしたかったんだが、その当時元気だった大正生まれ祖母に、女の一人暮らしは男を連れ込んでると思われる、と言われて反対された。今考えれば、同僚で一人暮らしをしている人が何人もいたし、反対されても一人暮らしをすればよかったなあ。でも、祖母に逆らうと後が大変だったので…。

そんなわけで、父の入院で私は初めての一人暮らしをすることになった。といっても、父のお財布がないと生活できない情けない一人暮らしではあるが。最初は寂しくて仕方がなかった。帰ってきてもお帰りを言ってくれる人もいないし、仕事の愚痴を聞いてくれる人もいないし。

ご両親が老人ホームに入っている友人(ご両親とも重い病気で家では介護できないため)に父が入院したことと、寂しいことをLINEしたら、そのうち慣れるわよという返事が来た。親御さんがお盆に帰って来た時に、鬱陶しくて仕方なかったらしい。そんなもんかなあと思っていた。

確かに、父がいないと「なんだ、このつまらん番組は」と言われないから、ドラマやバラエティをダラダラと見ることができる。朝からワイドショーを見られる。父が嫌いなアボカドをたくさん食べられる。夜遊びができる(あまりしなかったけど)。スーパーに行って買い物をするのがすごく楽しくなった。私が食べたい物だけを買えばいい。栄養が偏らないようには考えたけれど。

友達にたくさん玉ねぎをもらった時は、同僚に簡単なピクルスの作り方を教えてもらったり、スープを作ってみたり、牛肉の切り落としと一緒に煮込んで牛丼を作ったり、料理のレパートリーがほんの少しだけ増えた。

一人暮らしが段々と楽しくなってきた。だからこそ、父の病院に行くのもつらくなかったんだろうなと思う。そう、病院の周りにも楽しみがあった。病院の小さな売店は昼過ぎになると商品がほとんど売り切れてしまうため、父のための水や麦茶はまだなんとか買えるのだが、中途半端な時間に行く私の食べる物が無かった。が、ある日病院に行くバスに乗っていて一つ手前の停留所で降りれば、コンビニに行けることに気付き、コンビニ大好きな私は、そこでおにぎりだけでなく、お菓子やパンを買い込んだ。

そのコンビニを出て病院まで行く道に、マンションや新しい住宅に囲まれた、正直お世辞にもきれいとは言えない数軒の古い一軒家が建っていた。あの大きな台風の時には崩壊してしまったのではないかと、本気で心配したくらい古い家だ。その中の一番道路側に建っている二階建ての家は、いつも道路に面した二階の部屋の窓が全開していた。道路を挟んだ反対側の歩道から、私はいつも歩きながらその家をこっそりと観察した。

二階のベランダは恐らく元からあった木製の手摺りが壊れたのか、よく庭や空き地の周りに設置されているような金属の柵が手摺り代わりにつけられていた。その奥の部屋は懐かしい四角い傘が付いた電灯がぶら下がり、天井からは布製のモビールのような物が下がっていた。壁には古びた振り子時計がかけてある。どうやら二階の部屋は一つしかないようだ。部屋の奥に階段があるらしい廊下にも窓があり、向こう側の空が見えた。

その家には老夫婦が住んでいるらしい。時折り、ランニングシャツにステテコ姿のお爺さんが外に出てきたり、お婆さんが二階の部屋の掃除をしていた。そして、誰が乗るのかバックミラーが付いた自転車が停めてあった。なぜか、その家にすごく惹かれて、大変失礼ながら、その家を見るのが楽しみになってしまった。だから、父が退院した時に、あの家が見られなくなると思うと、ちょっぴり寂しかった。

父が入院したばかりの頃は、寂しくて怖いので、保安灯をつけっぱなしで寝たりしていたのだが、いつの間にか真っ暗で眠れるようになった。そして、台風15号の時は真夜中に風速50メートルという風が吹いたことも気付かず、爆睡していた。

こうしてアラフィフの私は漸く大人になったのだった。なんちって。

そして、父が帰ってきた。友人の言う通り、すごく鬱陶しい!嬉しいけど鬱陶しい!漸く一人暮らしに慣れてきたところだったのに。一人暮らしのために買ったインスタント焼きそばを父に食べられたし!
食べ物の恨みは恐ろしいのだ。

つづく