Living as A blue straggler

人生だいたいウロウロキョトキョトと寄り道する日々

天和駅?

2015-11-18 | 日記
 前回のエントリの舞台となった備前福河と寒河は赤穂線の駅だった。赤穂線で、備前福河の一つ東にある駅は天和駅という。てんほーと読みたくなるが、普通に?「てんわ」でよろしい。ちなみにこのさらに一つ東にある駅が赤穂市中心駅の播州赤穂駅である。この赤穂線、兵庫から岡山に入るあたりではおおざっぱにいえば国道250号線に沿って走っているといっていいのだが、この国道250号線で天和駅のあたりを走っていたときに気づいたことがある。
 この通りすがりに見えた駅の名前と、交差点の標識に書いてある駅名が違うということだ。

 天和駅はこんな感じで国道250号から見える。播州赤穂から一つ西に行っただけの駅とはいえ、無人駅である。
 一方、この駅のすぐ前の信号の上に場所を表す標識はこれである。

 ……この字は何だ。
 マピオンや国土地理院の地図を見ると、確かにこのあたりの地名は「天和」ではなく「鷆和」となっている。鷆和が正式名称で、普段は略式の表示を使っているというのならわかるのだけど、しかし駅にはってある看板や駅名標も「天和」だからどうもおかしい。


 道路標識の下の現在位置を示すプレートも「鷆和」になっている。
 でもまわりを見回すと、それ以外に地名として使われている文字にはどちらかというと「天和」の表記が目立つ。

駅の前にあった野菜かなにかの販売所。

バス停も「天和」停留所である。

消火用のホースやポンプなどの名前も「天和」になっている。

 一方、駅から少し東へ行ったところに郵便局がある。簡易郵便局ということで、普通の家をちょっと改造したようなこぢんまりとした作り。ここは「鷆和」郵便局だ。




 いったいどうことなんだろうか。地名事典などで調べて見たところ、どうもこういうことのようである。
 現在は赤穂市の一部になっているこのあたりだが、編入される前は塩屋村といった。他の郊外の村と同時に、昭和12年に当時の赤穂町に編入されたのである。じゃあこの塩屋村はというと、これは明治22年にいまのような町村制がしかれたときに近辺6村が合併して誕生した村であった。そのなかに鷆和村が含まれている。この明治22年の町村制というのは近代国家としての日本の地方自治の原点となっているもので、市町村の変遷などを論ずるときには大抵この年になんかの編成が行われていることが多い年だ。西暦だ1889年にあたる。江戸時代の村というのは自然村、つまり集落を称するものだったし町も今でいう町とは意味合いがちがっていたので、それを地方自治体としての村や町へと生まれ変わらせたそのひとまずの区切りになるのがこの法律であった。
 そんなことはどうでもいいのだが、では、そのときに合併でなくなったということはこの鷆和村はその前の近代以前から存続してきた自然村なのか。
 そういうわけでもない。明治維新から町村制がしかれるまでは20年以上あるし、その間には廃藩置県をはじめとして江戸時代の行政区分を廃止して近代的なものにするための改正は段階的に行われている。この鷆和村は、明治9年の8月に誕生したものだ。
 世に合成地名というのがある。合併する時にかどが立たないように、もとの名前から一文字ずつ取って村や町の名前にするというものだ。あるいは、同じくかどがたたないことを目指して、元の名前とまったく関係ないあたりさわりのない名前で共に発展することを意図した名前をつける、ということもある。
 こういう地名のつけかたの是非は平成の大合併でずいぶんと問題になったことがあるのでそのあたりについてはとりあえず措くとして、しかし別に平成にはじまった習慣というわけでもない。昭和の大合併で誕生した自治体にもそういう命名をしているところが散見されるし、明治期に作られた市町村でさえそういうのはけっこうある。
 で、この鷆和村だが、基本的にはこの合成地名の一種である。もともとは真木村と鳥撫村という村だった。
 この二つの村が明治9年の8月に合併して新しい村となったのだが、このときに元の村の名前から「真」と「鳥」を取って新しい村の名前に使うことにしたらしい。で、ここで「真鳥村」のような名前にしなかったあたりがちょっと変わっていて、この真と鳥をくっつけて一文字の漢字、「鷆」にしてしまったのだ。二つの村が仲良くやっていけるようにということで、鷆和村となったのである。この村じたいは明治22年までの13年ほどしか存続しなかったのだが、このときの村域が今でも地名として残っていて、地図などでは「鷆和」という大字として現存しているというわけだ。
 一方、駅がこの地におかれたのは赤穂線が開通したときなので1963年のことであるから、この村の名前が誕生してから100年近くたってからのことになる。この地の名前を駅名に採用することになったのはいいのだが、なんせ難しい漢字である。そのため、「天和」と簡単な表記が採用されることになった、というわけだ。どうも地元でも元の字は難しいので天和という字を使っていることが多かったみたいである。そういえば、駅の前の郵便ポストに書いてある住所も。

 まあ確かに「鷆」といわれてもよく分からないのは確か。とりあえず駅名の読み方からしても「テン」と読むのだろうということは分かる。鳥が字の中に含まれているから鳥の名前なのだろうか、というのもなんとなく想像がつく。そのあとが分からない。
 漢和辞典などを引いてみると、この「鷆」は訓読みではかすいと読むらしい。訓読みにされたところでやっぱりよく分からないあたりはマイナーな漢字というべきか私の知識に難があるというべきか。批判を受けやすい合成地名だけれど、この名前に関しては知識人が智恵を絞った形跡が見えるしいいんじゃないかと思うんだけどどうだろう。私が判定することじゃあないが。
 いくつかハンディサイズの国語辞典を引いてみても埒が明かないし、漢字の字形からしてかなり分かりにくいことを考えて「大漢和辞典」で字形を引いてみると、果たして項目が見つかった。「黄白の雑文があって、聲は鴿に似た鳥。蚊母。吐蚊鳥。……」
 ということで余計分からない上にIMEパッドでがんばらないと入力に苦労するばかりである。鴿は「いえばと」のことだそうなので、ハトににていて黄白の模様があると、そういう鳥のことのようである。さらに「日本国語大辞典」で引いてみると、かすいは蚊吸とも書いて、ヨタカの別名だそうで、最初から大きい国語辞典を引けばよかったようだ。写真などで見てみると、確かに黄色っぽいというよりは褐色といったほうが近いような気もするが、確かにそういう模様を持った鳥であることがなんとなくわかる。

 ちなみに、岡山の焼き鳥屋の名前でも「」という店があるようだ。

兵庫にある「備前福河」駅

2015-11-15 | 日記
 兵庫の西の端に、備前福河という駅がある。山陽線ではなく、相生から南に分岐している赤穂線の駅の一つである。赤穂市の西部に位置していて、ひとつ山を越えれば岡山県だ。
 ところで、備前というのは岡山県の南東部をあらわす旧国名である。なぜ兵庫にありながら備前福河という駅名なのかといえば、その立地からある程度想像ができるようにかつてはここが岡山県に含まれていたからである。この駅がある赤穂線が開通したのは1955年3月1日のことなのだが、その当時はまだ岡山県だった。この近辺が兵庫県に編入されたのは1963年のことである。

 もっとも、駅名になっているくらいなのだからこの駅の近くにある集落が福河という名前なのかというと、そういうわけではない。駅の北側にある山のふもとには、確かにたくさん家のたちならんだ集落がある。でも、ここは福浦という名前だ。



 東にある山側から集落を見下ろすとこんな感じの集落である。

 備前福河駅は集落から少し離れたところにある駅なので、周りにはあまり建物はない。郵便局やJAなどがあるくらいで、あとは田んぼに囲まれている。福浦の集落の南部を通る国道250号線がすぐ北にあり、その国道をへだてて向こう側には駐在所が立っている。


 この交番の名前も、やはり「福浦駐在所」だ。
 交差点のすぐ西で国道が川を横切っており、橋がかかっている。「福浦橋」という名前でまたも福浦である。国道から数m南には昔ながらの道標も据え付けられている。この道を線路の手前まで南下して、そこからまた東に伸びる道を数十m進むと駅に到着する。

 かつては今のホームに加えてもう一つ対向ホームがあったのだそうだが、今は一つだけとなっている。線路の南側に行き止まりになっている道路があるのもその名残りなんだろうか。



 駅に向かう道の、さらに進んだところは少し広い広場のようになっていて、その先の行き止まりには建物を取り壊した後とおぼしき門だけがとりのこされている。昔は工場か事業所があったのだろうと思われる。
 訪れたときがちょうど平日の午後だったので、電車から小学生がぞろぞろと降りてくるのに遭遇した。そういえばこの福浦には小学校がない。となりの天和駅のそばにある赤穂西小学校の校区となっており、かつ間を隔てている山がそこそこ険しいことを考えれば電車通学というのはまあ妥当なのだろう。

 さて、駅まで向かうときに国道から交差点を南に曲がった道をさらに南へと下って駅も線路も過ぎていく。
 しばらく田んぼの道をしばらく進んでいくうち、コミュニティーセンターがあったりしてまた少し建物が見え始める。さらに進むと、南の海辺のほうには集落が 見えてくる。ここは福浦新田という名前で、そこから海辺の港へと続いている。



 福原新田の集落。



海沿いの堤防には、「福浦新田」と敷き詰めたブロックを一部赤にしてかかれている。ちなみにこの撮影ポイントからは死角になっていてよく分からないが、「福浦新田」の右には青で「龍神の郷」とある。



海辺そばにおかれている市営のバス停には入電という停留所名がつけられている。入電、という名前はずいぶんとモダンな感じがしてしまうけれど、ここでいう「電」というのは100ボルトでくるあれではなくて、古くから知られている電気現象であるカミナリの「稲妻」のほうだ。なのですさんのほう、とも言う。
 この集落のある入江あたりに雷雲がかかると、雷雨となるのでこのように名前がついたのだそうだ。


 海辺。

 というわけで付近一帯をみわたしてみたわけだが、いずれにしても「福河」という地名があるわけではない。

  昭和の大合併の前まで、このあたりは福河村という名前の村だった。大合併というと平成のものが記憶に新しいけれど、戦後すぐにも大合併の波があって昭和の大合併といわれる。だいたい1950年代ごろに行われたものだ。駅名はそれにちなんでつけられているわけだ。福浦とはよく似ているけれど、違う名前であ る。じゃあその福河という名前はどっからきたのか?というと、これは合成地名である。駅のある福浦と、西隣にある寒河という地名をくっつけて一文字づつ とって付けられたものだ。寒河は山を隔てて向こう側、要するに岡山県側のいちばん東端の地域になる。

 福浦から山を越えて頂上あたりにさしかかったところで、左手にパーキングエリアが見える手前に県境を示す看板が目に入る。そこから山道を下ると、寒河の集落の家々が見える。読み方がわかりにくいけれど、「そうご」である。そごうは十河。この寒河はカキを使ったお好み焼きが名物らしく、そこここに看板やのぼりが立っているのが見える。



  備前福河の駅が出来た当時は、備前福河が赤穂線の終点だったのだが、もともと岡山まで結ぶのが目的の駅なので、その後ほどなくこちら側にも駅が作られた。 国道沿いに家が立ち並んでいるあたりから、南の山側に少し外れたところに寒河の駅がある。備前福河よりは少し規模が大きな駅で、小さい駐車場があったり案 内板が建っていたりするが、こちらも無人駅である。

 福浦と寒河は戦前は福河村という一つの自治体を形成していた。もっともこの福河村 があった当時はまだ赤穂線はなく、赤穂線が引かれるより先にこの福河村という自治体そのものが合併で消滅することになる。これに伴って、当時は岡山県和気 郡に属していた福河村と日生町が合併し、新生日生町となった。1955年3月31日のことである。赤穂線が開通したのは同月1日なので滑り込みというかぎりぎりというか。もし合併が1ヶ月早かったら駅名はどうなっていたのだろうか。おそらく駅建設前には駅名は考えられていたはずなので、そのときに見込まれていたのは今と同じ「備前福河」であろう。そのまま「備前福河」だったか、あるいは合併して消えてしまっているのだから、ということで「福浦」になったのか。

 それはともかく、この福浦地区は当時は岡山県側に属していたとはいえ、もともと兵庫側と結びつきの強い地域だった。併合前の福浦地区の広告は赤穂市や姫路市の商店のも のばかりで岡山市のものはほとんどなかったそうだし、赤穂高校に越境入学する人も多く年によっては7~80人にのぼっていた。1960年の時点で福浦の人 口は1107だったのでちょっと割合的におかしいような気もするが、時期的にベビーブームで子供が多かったこともあるのだろう。それを考えに入れても、集 落のほとんどが赤穂に越境していたということになる。職場についても日生方面に職場があるものが130、赤穂方面に職場があるもの143と均衡していた、 とのことである(木谷正夫「いわゆる越境合併について」新地理,13,1,9(1965))。
 そういう事情もあってか、日生町に一旦は合併したものの分県運動が盛んになる。

  ところがこの手の越境合併というのはだいたいもっと上、具体的には県が難色を示すというのがお約束である。このケースでも、岡山県が難色を示すこととなっ た。これはまあそれなりに岡山県としての事情もあったようで、福浦もそうだが、だいたいこの日生あたりの集落は漁業との結びつきが強い村が多い。カキのお好み焼きが名物になっていることあたりからもそれは伺える。

 そして、もちろん漁業にもナワバリというと言葉があれだが操業範囲というものがある。乱獲したら仕事に差し支える、という判断をすれば当然であるが。そういうことを考慮しないとウナギみたいなことになってしまうわけだし。ただ、問題として海上というのは陸上に比べても境界線というのが引きにくい。瀬戸内海の県の間では海の上の県境というものを結構こまめに確認しあうことで、 これをめぐってトラブルが発生するのを防いでいた。
 ここでややこしいのが、くだんの福浦地区から赤穂市に少し寄ったあたりに取揚島という小さい 島があって、もともとここが岡山県側と兵庫県側の県境になっていたということである。そしてこのあたりはハマチやアナゴなどの良い漁場となっていたからややこしい。境界線をめぐる諍いというのはだいたい住んでいる人々の文化的な違いと資源問題が原因と相場は決まっている。岡山側としては、ここが兵庫側に 行ってしまうと水揚げ量的に痛いわけである。またそれとは別に、兵庫は近畿で岡山は中国ということで、管轄する上級官庁が異なってくるという問題もある。

 そんなわけで諍いになったものの、いかんせん地元住民の意向が分割編入を望んでいるということもあってか、結局海側の県境は取揚島に従来どおり引 いておくという形で福浦地区は一部を除いて兵庫県に編入されることになった。これが1963年のことである。今でも、マピオンなどでこのあたりの県境を見ると、確かに赤穂の沖にある小さな島に県境の線が引いてあるのが分かる。最初はもう少し岡山側に有利な条件が国から提案されたのだが、拒否したためにしば らくの間膠着してしまい、じゃあもうこれでという感じで最後通牒のように突きつけられたのがこの現状維持の県境だったようだ。これでダメなら住民投票、ということだったのだが、住民投票となれば村全体の人間関係が引き裂かれかねないという点が危惧されたみたいである。もっともこのあたりは「赤穂市誌」を参 考文献にしているので、日生町側にはまた別の主張があるのかもしれないが。



 実は備前福河の駅の構内に、事情を解説したパネルが貼ってあったりする。無人駅で、ホームまでは切符など買わなくても入ることができるのである。これは寒河駅も同じことであるが、寒河駅には切符売場がホームにあった。
 ところでこの備前福河の駅の話は、かつて神戸新聞の終端駅をたずねる企画でも登場していたのだが、このなかで地元の声として福河という名前、今では駅名くらいにしかその名前がとどめられていない、という声が紹介されていた。しかし、見て回っていると実はほかにも多少その名残りをとどめているものがあることに気づいた。

 電柱、というのはとりあえず今の電気で成立している社会ではだいたいどこにでもあるものだが、電柱をよく見るとなんか小さいプレートが貼られていることに気づく。電柱番号というのだそうで、多分電力会社の中の人にしか分からない番号などはともかく、地域の名前やそれの省略みたいな文字も併記されている。地域によると思うので、されてないところもあるとは思うけれど。
 で、福浦地区、正確には入電のあたりで見かけた電柱である。


 2枚のプレートが縦に貼られているのだが、よく見ると、どちらにも地域を表すとおぼしき「フクカワ」という文字がある。こんなところに古い名前が残っている。まあ、住んでいる人だっていちいち気にしないというのはそりゃそうだけれども。

 もう一つ。こちらは福浦ではなく寒河のほうで見つけたネタだ。寒河の集落は県境の丘を越えてすぐだが、寒河という地名自体はもう少し西まで広がっており、隣の日生駅のあたりまで伸びている。日生駅は旧日生町の中心部で、目の前に小豆島行きのフェリーが行き来して観光ホテルや民宿もちらほらと見える。このあたりまでもともとの寒河村だったようだ。駅からさらに西に行くと、個人商店が立ち並んだ小さいながらも街が続いている。
 で、この日生駅から東にほどないところに、変電所がある。山沿いに建っているその建物の前には、福河変電所、の名前が。



 かなり寒河の集落から離れているので最初見つけたときは関係ないんじゃないか>と思ったが、後から地図で調べてみたら前述したようにこのあたりも寒河の一部であることが判明したので、多分昔の村の名前にちなんでいるのだろう。もっとも、その目の前には「ここは梅塚」と書いてある。小字なんだろう。

 それにしても、ちょっと気になるのはなぜ「備前福河」であって「福河」駅でなかったのかということであ る。駅名に旧国名がつくのは大抵、同名の駅が存在する場合、と相場は決まっているが、どうもここに関しては名前のかぶる駅というのが見当たらない。山口に 「福川」という駅があるけれど、川の字が違うし読み方も「ふくがわ」であるのだが