(東洋医学的)介護覚え書〜私的介護の記録〜

老いて衰えていってやがては死んでいく、という誰もが避けられない問題に対しての東洋医学的?試(私)論

認知症への別れ道〜認知症の二重性あるいは陰陽〜

2019-02-15 08:48:00 | 覚え書

認知症ににも陰陽がある、ということを日々もどかしい思いで痛感させられている。

昨日、介護計画の見直しのミーティングがあった。ちょうど一年くらい前にも同様の集まりがあり、その当時の父の状態を思い返せば、ずいぶんと認知症が進んだなあと改めて思わされる。

認知症への道を次第次第に進んでいっている父に日々接していて思うことは、本人の思いとは別に、自ら進んでの、なのだなあということである。

詳細は改めて書きたいが、認知症にも衰えていってのものと自ら進んでなっていくものとの陰陽(二重性)があるのだ!と実感させられている。

そして、自ら進んでなっていく認知症こそが大問題である、なんとか止めることが出来るかもしれないものである、と思える。

それは、一面で、喘息の過程的構造と同じ論理を持つのでは、と思える。


弟の帰省と父の変化〜人間にとっての良好な社会関係との相互浸透の大事性〜

2019-02-10 22:53:18 | 覚え書
 弟が帰省した。人間とっての良好な人間関係の大事性痛感された。 

 一昨年の夏以来、久しぶりに弟が帰省した。自身としては次第次第に衰えていって要介護3と認定されるまでになってしまっている父が未だ正常性を少しでも保つうちに弟に会わせておきたい(これは父と弟の双方に対してである)との思いからの、自身の仕事に追われて多忙の弟に半ば無理矢理に頼み込んで実現させた弟の帰省であった。

 しかしながら自身の思いとは違って、驚いたことに弟が帰省して以来、父の状態が見る見る良くなっていき、弟の帰省当初は、何をいっているのかわからず会話の成立しなかった父が、これまでの不機嫌だったり無表情だったりすることの多い状態から、にこやかに積極的に話しかけてきて、例えば、弟と全豪オープンの録画を観ていると、「ウインブルドンが・・・・・・。」とか「ナダルは・・・・・・。」とか話しかけてきて、弟と私の言うことが聴き取れないと、「タガログ語はわからん!」と笑いながら、と言う状態へとなっていった。

 これは、父が幼少時より可愛がっていた弟の帰省という社会関係の変化、また弟が帰省することによって私自身にも心の余裕が生まれての変化による社会関係の変化、それらによって変化していく父を見ての私と弟の変化という社会関係の変化、それらの何重にもの社会関係の変化という重層的な相互浸透が、父の認識を少しづつ、やがて大きく揺さぶっていっての、父の劇的な変化があったのだと思える。

 別言すれば、良好な社会関係に置かれてこそ人間は回復していける、あるいは正常を保てるのだと、人間にとっての良好な社会関係との相互浸透の大事性を、人間が社会的存在というのはこういうことなのだなあ、と実感された。