世にふるもさらに宗祇のやどりかな 芭蕉
『虚栗』では「手づから雨のわび笠をはりて」と前書きがあり、天和元〜二年頃の作とされる。本歌取り的な重層性がある句でそれなりに興味が湧く。すなわち、まず芭蕉の句は宗祇の「世にふるも更に時雨のやどりかな」をもじっっており、更に宗祇の句は女房三十六歌仙の一人である二条院讃岐の「世にふるは苦しきものを槙の屋にやすくも過ぐる初時雨かな」を手本にしているからだ。
宗祇は芭蕉の敬愛する人物で室町後期の連歌師である。別号は自然斎、種玉庵。姓は飯尾というが確かではない。生国は紀伊とも近江ともいわれる。若年より京都相国寺に入り、三十歳のころより連歌に志したという。
さて宗祇の「時雨のやどりかな」は一般的に、「一夜の雨宿りをするのは侘しい限りであるが、更に言えばこの人生そのものが時雨の過ぎるのを待つ雨宿りのようではないか」であり、それは戦乱の世にあって、短い人生と雨宿りが共に「仮の世」に通じて、無常迅速を感じさせるのである、と解釈される。
一方芭蕉の「宗祇のやどり」の句は宗祇同様儚い人生と思いつつ時雨の宿りをしているという自嘲ぎみた句というより、むしろ超然としている。すなわち一生は短く儚いもの、だからこそ、自分は俳諧一筋に生きるのだ、という句意が裏にありそうだ。芭蕉の心機一転した、蕉風俳句へ通ずるものとみてよい。
芭蕉の祇への敬愛は、「西行の和歌における、宗祗の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり」(『笈の小文』)と述べられていることからも容易に想像できることである。
なお、『和漢文操』では〈世にふるも〉は〈世にふるは〉となっているが、これにたいし山本健吉は後者は宗祇の句から転換の姿勢をいっそうはっきりさせる、と述べている。
また蛇足になるが「世にふる」は、小野小町の「花の色は移りにけりないたづらに我が身よにふるながめせしまに」が元にあることは理解できる。一時の日本の文芸は本歌をいかにうまく採り入れるかにあったようだ。
俳誌『鷗座』2011年12月号より転載
高橋透水:『俳句のWA』所属・現代俳句協会会員
『虚栗』では「手づから雨のわび笠をはりて」と前書きがあり、天和元〜二年頃の作とされる。本歌取り的な重層性がある句でそれなりに興味が湧く。すなわち、まず芭蕉の句は宗祇の「世にふるも更に時雨のやどりかな」をもじっっており、更に宗祇の句は女房三十六歌仙の一人である二条院讃岐の「世にふるは苦しきものを槙の屋にやすくも過ぐる初時雨かな」を手本にしているからだ。
宗祇は芭蕉の敬愛する人物で室町後期の連歌師である。別号は自然斎、種玉庵。姓は飯尾というが確かではない。生国は紀伊とも近江ともいわれる。若年より京都相国寺に入り、三十歳のころより連歌に志したという。
さて宗祇の「時雨のやどりかな」は一般的に、「一夜の雨宿りをするのは侘しい限りであるが、更に言えばこの人生そのものが時雨の過ぎるのを待つ雨宿りのようではないか」であり、それは戦乱の世にあって、短い人生と雨宿りが共に「仮の世」に通じて、無常迅速を感じさせるのである、と解釈される。
一方芭蕉の「宗祇のやどり」の句は宗祇同様儚い人生と思いつつ時雨の宿りをしているという自嘲ぎみた句というより、むしろ超然としている。すなわち一生は短く儚いもの、だからこそ、自分は俳諧一筋に生きるのだ、という句意が裏にありそうだ。芭蕉の心機一転した、蕉風俳句へ通ずるものとみてよい。
芭蕉の祇への敬愛は、「西行の和歌における、宗祗の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり」(『笈の小文』)と述べられていることからも容易に想像できることである。
なお、『和漢文操』では〈世にふるも〉は〈世にふるは〉となっているが、これにたいし山本健吉は後者は宗祇の句から転換の姿勢をいっそうはっきりさせる、と述べている。
また蛇足になるが「世にふる」は、小野小町の「花の色は移りにけりないたづらに我が身よにふるながめせしまに」が元にあることは理解できる。一時の日本の文芸は本歌をいかにうまく採り入れるかにあったようだ。
俳誌『鷗座』2011年12月号より転載
高橋透水:『俳句のWA』所属・現代俳句協会会員