義朝の心に似たり秋の風 芭蕉
『野ざらし紀行』には、
やまとより山城を經て、近江路に入て美濃に至る。います・山中を過て、いにしへ常盤の塚有。伊勢の守武が云ける、よし朝殿に似たる秋風とは、いづれの所か似たりけん。我も又、
義朝の心に似たり秋の風
とある。これは『守武千句』によれば、「月見てや常盤の里へかへるらん」の前句に対して、守武が「義朝殿に似たる秋風」と付句したものという。芭蕉の句は守武の付句に「の心」と入れただけだが俳味のある一句になった。因みに荒木田守武は山﨑宗鑑から連歌を学んだ伊勢神宮祠官である。
「義朝の心に似たり秋の風」は芭蕉が美濃の国にある常盤御前の墓を訪れた折の句であるが、その句意は源義朝の愛妾常盤御前の塚に秋風が吹いているが、それは義朝のこころのような秋の風であることよ、ということになる。が、芭蕉にとって「義朝の心」とはいかなるものを述べようとしたのだろうか。
説によれば、(頼朝の命で追われた)牛若丸(義経)が鞍馬山を抜け出して東国へ走ったと聞いた常盤御前は乳母の千種を連れて、ここ関が原まできたが、恩賞目当ての付近の山賊に殺されてしまったという。これを哀れんだ土地の人々が亡骸を弔ったのがこの塚というのである。この伝説の真偽のほどはわからないが、常盤御前の悲運は源氏側に立った物語か平家側から見た物語かで異なるので、それぞれの伝説から憶測するしかないだろう。
さて句に詠われた「義朝の心」とはどのような心かということだが、若き義朝が常盤御前に足しげく通った頃の恋心のことだろう。
ところが義朝が亡くなったあとの話だが、常盤御前は母の命乞いをし、そのために清盛に身を任せたという。そんな常盤御前を知った義朝は怨み節の風をふかしたというのか。いやいや、やはり常盤御前の心変わりを恨むような風でなく、芭蕉は生前の義朝が常盤御前を愛おしく思う心の風とみたのだ。それは常盤御前の悲劇を思う芭蕉の心の風でもあった。
『野ざらし紀行』には、
やまとより山城を經て、近江路に入て美濃に至る。います・山中を過て、いにしへ常盤の塚有。伊勢の守武が云ける、よし朝殿に似たる秋風とは、いづれの所か似たりけん。我も又、
義朝の心に似たり秋の風
とある。これは『守武千句』によれば、「月見てや常盤の里へかへるらん」の前句に対して、守武が「義朝殿に似たる秋風」と付句したものという。芭蕉の句は守武の付句に「の心」と入れただけだが俳味のある一句になった。因みに荒木田守武は山﨑宗鑑から連歌を学んだ伊勢神宮祠官である。
「義朝の心に似たり秋の風」は芭蕉が美濃の国にある常盤御前の墓を訪れた折の句であるが、その句意は源義朝の愛妾常盤御前の塚に秋風が吹いているが、それは義朝のこころのような秋の風であることよ、ということになる。が、芭蕉にとって「義朝の心」とはいかなるものを述べようとしたのだろうか。
説によれば、(頼朝の命で追われた)牛若丸(義経)が鞍馬山を抜け出して東国へ走ったと聞いた常盤御前は乳母の千種を連れて、ここ関が原まできたが、恩賞目当ての付近の山賊に殺されてしまったという。これを哀れんだ土地の人々が亡骸を弔ったのがこの塚というのである。この伝説の真偽のほどはわからないが、常盤御前の悲運は源氏側に立った物語か平家側から見た物語かで異なるので、それぞれの伝説から憶測するしかないだろう。
さて句に詠われた「義朝の心」とはどのような心かということだが、若き義朝が常盤御前に足しげく通った頃の恋心のことだろう。
ところが義朝が亡くなったあとの話だが、常盤御前は母の命乞いをし、そのために清盛に身を任せたという。そんな常盤御前を知った義朝は怨み節の風をふかしたというのか。いやいや、やはり常盤御前の心変わりを恨むような風でなく、芭蕉は生前の義朝が常盤御前を愛おしく思う心の風とみたのだ。それは常盤御前の悲劇を思う芭蕉の心の風でもあった。