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こちら東経135度 AKASHIを歩く

東経135度。兵庫県明石市は日本標準時子午線上にある。東へ西へ。この町でいろんな人、話題と出会う。

官公需減り、頼みは民間活力

2006-05-18 16:46:48 | Weblog
 景気は回復基調にあるという。トヨタ自動車が発表した2006年3月期連結決算の売上高は、日本の製造業として初めて20兆円を超えた。このところ景気のいい話が新聞紙上などで踊るが、果たしてそうなのか。
 実感がわかないまま、江井ヶ島にある土木・建設会社の日置産業を訪ねた。
「確かに、業績がええ会社はあるね」。社長の日置大之さん(54)が柔和な表情で応対してくれた。
 例えば、鉄骨や銅板を特殊加工している会社、という。取引先の電機・コンピューター業界が好調なのが主な理由だが、「これからは高度な特殊技術とノウハウがなければ、厳しい競争に生き残れない。中小・零細企業はなおさらだ」と話す。
 こうした業績が好調な会社は、おう盛な注文をこなすために設備投資に積極的。その恩恵を受け、同社は工場の改修工事の仕事が増えている。
 日置社長は「それだけじゃない」とした上で、こう付け加えた。「会社が伸びるためには優れた人材がいる。そこで、この際、食堂や女性の更衣室、シャワー室などを併せて新設する会社が少なくない」という。
 父は同じ場所で牧場を営んでいた。ところが、近郊に住宅が増えてきたのに伴い、牛のふん尿がくさいと苦情が相次ぎ、建材の販売会社に業種転換。日置社長が26歳のときだった。その後、自ら一級土木施工管理者の免許をとり、先頭にたって土木・建設事業に打ち込んできた。
 5年前までは売上高の8割を公共工事が占めていたが、市や県は財政難を背景に予算を大幅カット。仕事は激減し、同業者の中には倒産する会社が続出した。危機感を深めた同社は官公需の依存体質をあらため、民間の仕事に思い切ってシフト。今では比率は逆転し、8割が民間という。
 「下水工事でいえば、明石市内は普及率が9割に達し、これからはやり変え工事ぐらいしかない。当社もそれをにらんで新しい工法を市に提案すべく準備しているが、やはり民間の活力が本格的に持ち直してほしい。そうなれば、店を改修しようかな、という動きが広がり、引いては業界も元気になる」
 期待を込めた日置社長の大きな声が、事務所に力強く響きわたった。


Yes,We can!

2006-04-25 15:39:07 | Weblog
 江井ヶ島に本社・工場を構える神戸電機産業。社長の勝山秀明さん(44)は毎月、中国・青島(チンタオ)へ出張する。2004年12月から操業を開始した現地の合弁工場を訪問するためだ。
 合弁工場では車載用の変圧器などを生産する。08年の北京五輪を控えて地下鉄の整備が急ピッチで進んでおり、工場はフル稼働。しかも「中国は毎日のように電鉄工事の入札案件があり、まさに高度成長期にある」と話す。
 中国への工場進出の検討を始めたのは02年。上海や大連も候補地にあがったが、青島に絞り込んだ。合併のパートナーが電力系の変圧器の生産で中国3番目の有力企業だったのが大きな要因だったという。
 追い風に乗って好調な中国の合弁工場だが、これも勝山社長の「先見性と決断力」に負うところが大きい。背景には、彼の人となりがある。
 兵庫工業高校から名古屋の名城大学商学部へ進学した。「父から技術屋になれ、と言われて工業高校に進んだ。大学では商売の勉強をしようと思ったけど、本当は中学校の歴史の先生になりたかった」。しかし、大学2年の春、技術部長を務めていた叔父が亡くなったため大学を中退し、急きょ入社する。
 配属されたのは設計部門。深夜まで残業することはざらで、「図面をみればコストがみえるまでになった」。10年後、亡くなった父の後を継ぎ、30歳で社長に就任した。
「引くときは引く、攻めるときは思い切って攻める」。若くしてトップに就き、数々のハードルを乗り越えてきた経験が、中国進出を決断させた。
 一方、国内の本社工場や魚住、神戸・垂水の分工場では複雑な仕様の変圧器、注文のロットが少ない製品、万一のときの補助電源になるUPS(無停電電源装置)などを生産する。
 会社のスローガンは「Yes,We can!」。決して「No」とは言わない。他社がネを上げてしまうような難しい仕事を積極的に引き受ける。「でないと、中小企業は生き残れない」。技術魂が光る。

高度な技能、ベテランから後進へ

2006-04-10 20:13:25 | Weblog
 明石市の西部、二見町南二見にある人工島。東向鉄工は二見臨海工業団地の一角に本社・工場を構える。
 工場内は数値制御(NC)付きの工作機械が所狭しと並び、ミクロン(1000分の1㍉)単位で高精度に加工する。生産ラインはコンピューターで統合的に管理され、どの工程も徹底した品質管理の網がかかる。
 主な生産品目は建設機械部品。クレーンやパワーショベル向けを例にとえると、モノを巻き上げるウインチ、旋回するための減速機、ギアなどの基幹部品をつくる。ほかには、ろ過器や洗浄機など下水処理関連設備も手掛ける。
 創業は1929年。神戸市長田区で、造船メーカーの下請けとして船舶用部品の生産を始めた。ところが、45年の戦災で社屋が焼失。その後も紆余曲折を重ね、難局を乗り切ってきた。20年前、現在の二見に拠点を集約した。
 モノづくり大国ニッポン。世界に冠たる地位を占めるが、人件費が安い中国や東南アジアの国々の追い上げは激しい。いかに対抗し、生き残るか。そのカギを握るのは高度な技能、経験、ノウハウだ。
 会社を率いるのは若干31歳の東向一彦社長。2年前に外資系のコンサルティング会社を辞め、実父で会長の健一氏から経営のバトンを受け継いだ。コンサル時代、様々な製造現場をみた経験も踏まえ、厳しい表情でこう話す。
 「私たちのような小さな所帯で競争を勝ち抜くには、当社しかできない高度な技術力と開発力がモノをいう。そのためにも、ベテランから若い後進たちへの技術の伝承に力を入れている」
 一方で、工場の技術革新にも余念がない。設備投資を惜しまず、6月からは「自動車の生産現場に限りなく近い、徹底して効率化を追求した新しい発想の生産システムを築く」という。
 課題は「下請け体質からの脱却」。現在は売り上げの8割を客先が設計図を描いた注文品が占めるが、「当社ならではの独自開発したオリジナル製品を増やし、近い将来、その比率を半々にもっていきたい」と意欲満々だ。
 中小・零細企業の最先端工場というと、東京・大田区、関西ならば東大阪が有名だが、どっこい、明石も負けていない。



地酒ファン獲得にあの手この手

2006-04-10 11:47:13 | Weblog
 明石市の江井ヶ島から魚住にかけた界隈は「西の灘」といわれた。かつての活気こそなくなったが、蔵元の酒づくりに寄せる思いは今もたくましく脈打つ。
 山電魚住駅から海側へ。茨木酒造は潮風がただようのどかな場所にある。酒の銘柄は「来楽」。昔ながらの木造の建物が郷愁をさそう。
 創業は嘉永元年というから約170年前にさかのぼる。当主は代々、清兵衛と名乗る。現在の当主(58)は先代が亡くなった11年前、9代目を引き継いだ。
 先代から「酒づくりは杜氏に任せ、お前は販売・経営の勉強をしろ」と言われ、愛知学院大学の経済学部に進んだ。しかしその後、日本酒離れが進み、業界を取り巻く状況は悪化。どこも杜氏の数を減らし、コストダウンに迫られた。
 さらに追い討ちをかけたのが11年前の阪神・淡路大震災。「灘五郷」は大打撃を受け、廃業する蔵元が相次いだ。地方の小さな蔵元も例外ではなかった。
 そんなある日、清兵衛社長は妻と息抜きに三宮へ出かけ、落語の寄席をのぞいた。和気あいあいとした家族的な雰囲気。「うちの酒蔵でもやってもらえないでしょうか」。終演後、出演者の桂三枝一門の桂三若さんに頼み、地元で春と秋の年2回、落語会をする運びになった。以来8年、酒蔵での落語会は17回を数える。
 一方、10年前からは「元旦仕込みの会」というグループを発足し、一般の人たちに酒づくりに参加してもらう取り組みも続ける。酒米の田植え、草取り、稲刈り、元旦に仕込んで絞る。そして出来上がった新酒。白い陶器のビンには、参加者の名前がそれぞれ自筆で入る。
 清兵衛社長は言う。「あそこの蔵に行けば、何か楽しいことをやっていると、目を向けてもらうのが大切。落語会も仕込みの会も、狙いはズバリそこにある」。ファンは神戸、大阪、姫路など多方面から駆けつける。
 かといって、満足しているわけではない。ここ数年、焼酎ブームが到来。しかも価格が安い紙パックが増え、同社のようなビン詰めの地酒に逆風が吹く。
 巻き返し策として「花酵母」を使った独自の酒をつくったり、甘酒を扱うなどして知恵を絞るが、清兵衛社長の悩みは尽きない。
 「何よりも、地元の居酒屋に明石の地酒を置く店が少ないことが残念でならない」。その上で、こう続けた。「明石の地酒のよさをアピールするため、これからは小売店を巻き込んだイベントをやっていきたい」
 

かつては瓦の名産地だった

2006-03-20 10:37:40 | Weblog
 播磨灘に面した明石市大久保町の八木海岸へ。海辺を散策すると、小石に混じって瓦のかけらが目につく。
 近くにある明石瓦事業協同組合の事務所を訪ねた。理事長の苧野(おの)良三さん(76)が資料棚から大きなパネル写真を取り出し、説明してくれた。1955(昭和30)年ごろの八木界隈がうつっている=写真。
 木造平屋の工場群。「^源」など屋号を記した煙突がいくつも建ち並び、大空に向かって黒い煙をもくもくと吐く。
 「この辺りは瓦の名産地だった。海辺にある瓦のかけらはその面影を今に伝える」。苧野さんが懐かしそうに話す。
 明石と瓦の関わりは古い。市北部で見つかった「高丘古窯跡群」は古墳時代から奈良時代のものとされる。江戸時代、城主の勧業政策の一つとして瓦生産が掲げられ、盛んになった。協同組合が発足した昭和20年代には八木界隈を中心に製造業者が75社あった。
 ところが昭和40年ごろ、全国的な公害問題の高まりで状況が一変する。主力製品の「塩焼き瓦」は粘土に岩塩を入れて焼成し、独特の赤色瓦にするが、その過程で出るばい煙(塩素ガス)に対し、農家ら地元住民から苦情が出た。
 塩素ガスを取り除く設備はかなりの費用がかかるため、わずか5年で製造業者は半減。一方で他産地との価格競争も年々激しさを増し、85(昭和60)年には8社になった。苧野さんの工場もそのころ製造をやめ、かつての同業仲間がそうだったように、屋根工事を請け負ったり、仕入れた瓦を販売する仕事に転業した。
 その後も歯止めがかからず、ついに91(平成3)年には明石市内でつくっているのは「明石窯業」だけになった。組合数は最盛期の6分の1以下の12軒に減っている。
 事務所を離れ、苧野さんにかつての瓦工場を案内してもらった。異業種に賃貸しする同業者を尻目に、瓦づくりをやめてから21年たった今も工場は、ほぼ昔のままだった。「若いころからのいろんな思い出が詰まってるから」という。
 「瓦でなくてもええから、いつか誰か、生活に使う陶器を作ってくれたらなあ」。帰り際、苧野さんがつぶやいた。

タコにこだわるせんべい屋

2006-03-16 15:28:22 | Weblog
 こんな物語がある。
 その昔、明石の海で暴れていた大ダコを退治した武士がいた。大ダコは海に返してもらった礼に、自分の足から杖(つえ)をつくり、武士にささげたとか。武士はおかげで寿命が延び、いまも明石のどこかで暮らしているらしい。
 仙人の姿をした武士の名は「タコセンニン」。西明石駅南の商店街にあるせんべい屋「永楽堂」の社長、永井達也さん(48)が考えた愛きょうたっぷりのキャラクターだ。
 「おもろいでっしゃろ、タコセンニンの話。明石といえばタコ。それにこれでもかというぐらいとことんこだわった商売をやっていく」。永井さんは店の一角にあるテーブル席にすわり、少し間を置いて「そや、ちょっと、これ食べてみてや」と、手打ちそば(十割そば)を振舞ってくれた。
 用意された膳には、せんべいが添えてある。タコを生地に練りこんで焼き、甘辛く味付けした店の名物「たこせん」。それを温かいつゆ、温泉タマゴと一緒にそばに入れて食べる。「これも、こだわりメニューの一つ」と目を輝かす。
 創業は1897(明治30)年。代々、細々とせんべいを焼いていた家業を永井さんが引き継ぎ、今では本店を含めて計8店舗をもつまでに大きく育てた。本店の一階には工場があり、次々とアイデアたっぷりの商品を作り出す。
 永井さんの発想は膨らむばかりだ。まだ構想段階としながらも、大蔵海岸沿いに一風変わった店舗兼工場「タコの館」(仮称)をつくりたいという。
 「目の前に広がる明石海峡を生簀(いけす)に見立てて、そこで捕れた活きのいいタコを使ったせんべいをつくる。お客さんにその様子を見てもらう。店内にはタコにまつわるアイデアグッズも並べたい。すし屋、鍋物屋、そば屋、それからショットバーがあってもおもろいな」
 かつて、同じ大蔵海岸の1万平方メートルの空き地に複合施設構想を描き、仲間たちと市に提案したことがある永井さん。「よっしゃ明石」と銘打ったその施設には、温泉あり食べ物屋あり、という具合に明石の新しい目玉にしたかった。結果的に構想は採用されず、空き地は住宅展示場になったが、永井さんは言う。
 「よっしゃ明石はあきらめたわけやない。いつか実現したい。大切なのはウチの店はもちろんやけど、みんなが元気になる商売をやたい。今度のタコの館もそうや」
 そういえば、タコセンニンは今も明石のどこかで暮らしているという。もしかしたら永井さん本人が、地元を活気づけるため天から遣わされたタコセンニンではないだろうか。

 

七転び八起き、おしぼり人生

2006-03-15 16:56:59 | Weblog
 神様の仕業か。何かのめぐり合わせか。この人の人生は「ついてない」の繰り返しだった。が、それを乗り越え、今がある。
 第二神明道路の玉津インターにほど近い神戸・西区玉津町。おしぼり会社「ハリマカネヨシ」を経営する佐々木志朗さん(59)を訪ねた。同じビルには事務所と工場が同居する。
 長崎・佐世保で生まれ育った佐々木さん。2浪して福岡県内の大学に入り、2年留年。卒業後、ウニやクラゲなど珍味をつくる食品メーカーに勤め、主に阪神間の中央卸売市場で商品を売った。しかし翌年、会社が大手商社に買収され、神戸の食品仲介業者へ転職。ロシア産の乾燥クジラを扱う仕事ができると胸を弾ませたが、入社するとその部署は身売りされていた。すぐに辞めるわけにもいかず、塩ジャケやいりこなど「塩乾モノ」と呼ばれる商品を売る仕事をしたが、気乗りしなかった。
 そんな張り合いのない日々を送っていた1年後の春、知人に薦められるまま、神戸・東灘に本社を置くおしぼり会社「カネヨシ」に転職した。おしぼり人生の始まりである。
 会社はその頃、全国展開を目指して勢いづいていたが、放漫経営があだとなり、入社して1年足らずで破たん。再建策の一環として、佐々木さんは明石営業所長を任されたが、半年後にカネヨシは倒産する。新婚ほやほやの中、独立する道を選び、29歳の若さで現在の会社をつくった。
 ところが、またもやどん底が待ち受ける。売り上げが伸びず、「友人に頭を下げ、カネを工面する生活が5年続いた」。転機が訪れたのは37歳。親睦団体の明石青年会議所に入り、メンバーと交流するうちに商売のやり方を根本から見直した。
 当時、売り上げの2割をピンクサロンが占めた。ファミリーレストランに次ぐ得意先だったが、「本番行為があるようなピンサロ向けと、食べ物屋で使うおしぼりが同じとは」と、衛生管理に対する姿勢を厳しく指摘された。悩んだ末、ピンサロ向けは紙製に切り替えたものの、減った売り上げを穴埋めするためさらなる顧客開拓を余儀なくされた。
 しかし、試練はそれで終わらない。その2年後、事業拡大を図ろうと神戸・西区内で土地を購入して再スタートを切った矢先、隣接地に廃材処理会社が進出してきた。飛散する粉塵に悩まされる毎日。弁護士をたてた粘り強い交渉の末、何とか和解がまとまり、土地を交換する形で現在の場所に移った。
 それから11年。おしぼりに加え玄関マット、トイレ関連用品など取り扱い商品を広げ、年商2億円を超える企業へと成長した。数々の試練を経験したが、兵庫県おしぼり協同組合の理事長も務める佐々木さんは言う。
 「先が見えると、おもろうない。いつ何が起こるか分からんから、そこに商売の醍醐味がある」

試練乗り越え、中国・大連で成功

2006-03-14 13:28:34 | Weblog
 15年前、中国・大連へ。味噌の工場をつくろうと、意気揚々と明石から単身で渡った。28歳だった。
 松井味噌の3代目社長、松井健一さん(42)。今では味噌業界で確固たる地位へと育てたが、そこにいたるまでの道のりは試練の連続だったという。どんな人物なんだろうか。
 メールでアポイントを申し入れたところ、その日のうちに返事が届いた。数カ月ぶりに明石へ帰るのにあわせ、藤江の公設卸売市場の近くにある松井味噌本社で会ってくれることになった。
 父ががんで倒れ、中学3年生から味噌づくりを手伝った松井さん。その後、明石高校、神戸大学経営学部へと進んでも、学問より家業優先の毎日だった。大学卒業後、後を継いだが、「昔ながらの商売を続けていても未来がない。何か、打開策はないものか」。入社から5年後の1991年のある日、知人から大連への視察を誘われた。
 彼の目に大連は輝いて映った。味噌の原料は大豆、コメ、塩だが、「大豆は大生産地の中国東北地方から大連にすべて集まってくる。コメも良質で格安だし、天然塩が簡単に入手できる」。翌年、新会社「大連松井食品有限公司」=写真=を設立し、現地で味噌づくりをスタートした。
 しかし、すぐにどん底に直面する。持参した元手の2000万円はあっという間に消えた。その後、日本から3回に分けて計2500万円を送金してもらい、運転資金につぎ込んだ。松井さんは当時を振り返る。
 「例えば工場の資材一つとっても、結果的に高い値段のモノを買わされた。一事が万事そう。要するに、知らない自分が甘かった」
 その上で、こう続けた。「オヤジは中国進出に猛反対だったけど、無言でカネを送ってくれた。思いに何としても報いないと」。それが、飛躍へのバネになった。
 西京漬け味噌に粕漬け、みりん漬けなどの調味料。さらには焼肉、焼き鳥のタレ、ドレッシング、ごま製品などなど。年を追って工場を拡大し、製品のほとんどを日本へ送る。
 得意先はレストランなどの外食産業やコンビニ、水産会社、食品問屋など多岐にわたる。単なる製品供給にとどまらず、メニューの開発段階から最適なアイデアを提案し、場合によっては客先にふさわしい肉や鳥などの原料工場も現地で手配する。
 大連への進出から15年。松井食品は急成長した。国内には同業が1200社あるが、マルコメ、ハナマルキに次いで3番目の利益率を誇るまでになった。
 「今では現地で一番有名な日本人」。5年前に現地の10歳下の女性と結婚し、3歳の娘がいる。8月には二人目の子が産まれる予定。「亡くなったら明石の人丸にある先祖の墓に入れてもらうが、それまでは中国とともに生きる」

ビル清掃から保育所の運営まで

2006-03-10 11:01:00 | Weblog
 創業は江戸後期の文化年間(1800年代初頭)。神戸で日本酒を詰める樽をつくっていた。明治の半ば、「西の灘」と呼ばれる酒どころ・江井ヶ島へ移り、以来、明石に根づいたという。
 現在は西明石駅に近い松の内に本社を構えるピアサービス。社長の岸本吉充さん(57)は「私の3代前のころ、日本酒が瓶入りになったため樽づくりをやめ、酒瓶を詰める木箱づくりを始めた」という。終戦間もない半世紀前のことだ。
 が、1971年のオイルショックでまたも業種転換を余儀なくされる。材料の木材が高騰し、代わってプラスチック製の箱が登場。そのあおりで木箱の需要が急激に減り、会社はジリ貧になった。
 そこで思いついたのがビルの清掃業だった。岸本さんは当時専務。あのころを振り返り、「私と弟、社員の計3人で東京へ勉強に行き、見よう見まねでスタートした。明石市内の銀行や信金を訪ね、掃除の仕事をくださいと、注文を取り歩いた。とにかく、がむしゃらだった」。
 その後、ビルそのもののメンテナンス(保守・点検)へと事業を広げ、害虫駆除や人材派遣、セキュリティー(警備・保安)なども手掛ける。しかし、岸本さんは危機感を忘れない。
 「私たちの仕事のお客さんは、会社の総務関係がメーン。彼らはバブル景気が弾けて以降、経費をとことん切り詰めている。この傾向は変わらず、新規事業を育てないと会社は成長しない」
 狙うターゲットは福祉分野。昨年から介護ビジネスを始め、年末には神戸に介護付き老人ホームも開設した。さらに仕事をもつ女性が増えたことから、今後は企業内保育所の運営も計画しているという。
 社業に打ち込む岸本さんだが、ボランティアにも熱心だ。英国で生まれ、世界的に活動する子どもたちのための国際援助団体(NGO)「セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン」の近畿地区の事務局長を務める。
 英国セーブ・ザ・チルドレンの総裁でもあるアン王女が93年に親善のため来日された際、歓迎の催しに参加した=写真右から2人目が岸本さん。本人は「大した活動はしていない」と謙遜するが、事務局長歴はかれこれ13年になる。

中央競馬支える馬主のリーダー

2006-03-07 13:25:24 | Weblog
 「一国の宰相になるより、ダービー馬のオーナーになる方が難しい」。競馬の本場、英国でこう言われるほど、競走馬を所有する社会的地位は高い。
 松本好雄さん(68)。昨年4月から日本馬主協会連合会の会長という要職にある。国内の中央競馬を支える馬主のリーダー的存在だ。
 中央競馬で馬主の資格をとるには、資産1億4000万円以上、年2000万円以上の所得―という金銭的な条件をクリアしなければならない。そのトップに立つ松本さんはいったい、どんな人だろうか。
 明石駅を東に行った天文町2丁目。国道2号沿いにある会社「きしろ」に、社長を務める松本さんを訪ねた。髪はロマンスグレー、黒ずくめの上下。見るからにおしゃれな雰囲気が漂う。
 馬主歴33年。きっかけは千葉工大の学生だったころという。
 「競馬が大好きで、あの当時は中山(競馬場)でよく馬券を買った。けど、背が低いから、あまりよく見えない。ところが高いところから見ている人がいて、あれが馬主さんかと思い、いつか必ずあの席で見てやろうと考えていた」
 その願いを持ち続け、社長になって間がない35歳のとき初めて1頭買い、馬主に。翌年、知人の薦めでさらに8頭まとめえて買い、このときから馬の冠名に「メイショウ」をつけた。今では臨戦態勢の競走馬が100頭、牧場で待機する予備軍を合せると計200頭を保有する。
 メイショウは明石の「明」と松本の「松」、それに「名将」の意味もあるという。馬のコンディション、天候、場の状態。自分の力だけではどうにもならないのが競馬。「だからこそ、勝ったときの感動、刺激がなんともたまらない」。
 さらにこうも言う。「そこに至るまでに牧場での数々のドラマ、世話をする調教師、きゅう舎の方々の愛情と熱意がある。人がいて馬がいて、そしてまた人がいる。そうした競馬のロマンはほかでは味わえない」
 きしろは大型船舶エンジンの中枢部にあたるクランクシャフト、プロペラを回すスクリューシャフトなど、大型鋳鍛品の切削加工を得意とする会社。主力の播磨工場(加古郡播磨町)では今も、世界最大の戦艦「大和」を造ったドイツ生まれの旋盤が現役で動く。
 本業と競馬のバランスを尋ねると、「7―3で本業。会長になってからは連合会の仕事が増えたが、本業は本業。競馬はあくまでプライベート」。