昨日のブラントンの写真もそうですが今日もセピアカラー。デジカメで撮った写真、ずっとPCにとりこんでサイズ変更とかトリミングしてたのですがこのところMacbookが簡単なのでほとんどマックに入れて日記に使ってます。色調整とかいろんな項目があるのですがそれはいじらずにエフェクトというところをクリックしたらセピアカラーがあった。元の写真の雰囲気にもよりますがこの写真なんかもなかなか素敵な感じになりました。
セピア色って歌の歌詞にもよく使われましたがノスタルジックな感じがする。自分のアルバムを見ても小学校あたりからはカラー写真ですがその前は白黒かセピアカラー、自分が生まれる前の家族の写真はほとんどがそうです。そういう記憶と、そういう写真を見た記憶でセピアカラーは郷愁を誘うのでしょうね。あと金縛りにあったときの目の前の映像とか特別な夢の映像もセピア色、これについては大林宣彦監督の初期の映画を観たときに映画の中の不可思議なことが起こるシーンやフラッシュバックする映像などがその僕の金縛り体験の時の映像と音におんなじでびっくりした事があります。監督もそういう体験をしたのじゃないか?と思ったものです。
こちらは暗かったのでもともとセピアに近い写真だったのを白黒加工。
2週間前にR奈と散歩したときにも前を通ったのに気づかなかった中庭。古めかしい中庭にモダンなガラス張りのカフェがあり奥はMuseum。一番上の写真の近所です。中庭がいろんな方向からライトアップされていて左に撮ってる僕も写ってます。
僕の世代でセピアカラーは幼稚園まで。今の子供達にとっては写真はカラーでデジタルが当たり前。白黒とかこういうソフトでセピア、アンティーク加工があるのは知ってるけれどノスタルジックには感じないんだろうなー?写真でも映画でももちろんテレビも僕らが実際に生で観ているのに一番近いのはカラーな訳で表面的にはカラーテレビがカラー写真が一番ありのままを見せている。写真も映像も技術がなかっただけで逆にいえば技術者の方々はよりLIVEに近づけようと技術革新にたずさわってこられた。カメラしかりモニターしかり。
普段テレビを楽しむにはもちろんその技術のおかげで素晴らしい映像を見る事が出来る。
では白黒やセピアの画像を味があるとか良い!と思うのはなぜなんだろう?
デジタル全盛の時代ではあるけれど銀塩写真がなくならないのも、
70年代80年代に世界一といわれた日本のカメラメーカーのレンズが世界のシェアをほぼ独占して歴史ある多くのドイツ企業が消滅したのに『空気が(雰囲気という意味ですね)写る』といわれたライカはなぜ残ったのか?便利で圧倒的なシェアを占めてるCDだけれどLPはなくなるどころか見直されているしアナログのよさを主張する人が多いのは、セピアや白黒の写真同様、懐古趣味からだけ来るのではあるまい。
銀塩はもちろんデジタルでも感性のある人、極めている写真家とそうでない人の差は出る。
ハードが便利になると操作が簡単になり素人の大失敗がないせいでその差はちじまったかもしれないが確実に腕の差は存在する。
しかしそういう評価も、違いがわかるかわからないかも、わからない派が大多数を占めるようになっては話題にも上らないか単なる趣味として片付けられてしまう。
音楽の世界ではそういう現象をすでに体験しています。
もちろん好みとか趣味!で解決してもよいのですが、自分で選択するために自分で好みを選択できるために知識欲を旺盛にいろんな(良い)ものを観たり聴いたり自分も含めてできるだけ多くの人にしてほしいですねー。
知識をひけらかして何かを対象に論争する必要は全くないけれど、
感性を磨いて理解力を磨いてよい作品、パフォーマンスを出来るだけ体験したいものです。
なんかセピアカラーの写真の話題からまたまた発展?してしまいました。この写真は昨秋、お城でのコンサートのときにSONYに勤めてる友人がαレンズで撮ってくれました。今となっては一番長い付き合いになった5弦が良い感じで写ってます、その友人の奥方のビオラも。
今日は銀行に用事があったので一人で湖をまわり骨董街を通って1時間弱の散歩をしました。早足で歩けば暖まりましたが久しぶりに冬の空気でした。
ルフトハンザのマイルが十分に貯まったので帰国のフライトを少し前からネットで見ているのですが結構混んでいる。まだ時間があるので空きが出るとの事ですが一応現時点でフィックスしたのはなんと行きがファーストで帰りがエコノミー。どうせなら往復ビジネス希望なのですが行きはファーストしか今のところ出てなくて帰りはエコノミーしかない。いくら何でもファーストまでは希望してないんですが、、、。もしもこのまま変更できなかったら、笑えます。