千駄木東林町会いまむかし

2006年03月13日 | 

 私共の住んでいる東林は、文京区でも東北のはずれで、都内でも数少ない環境のよい静かな住宅地である。

 この地は以前、千駄木林町、駒込林町といわれていただけに、昔の千駄木山の内、千駄木御林と称した土地で、上野寛永寺創設後この林地を同寺に属させ、御料林として徳川家廟用の薪林を採らせた。一日に千駄の薪を伐り出したという。千駄木の名もここからきているともいう。

 そして九代将軍家重の延亨3年之を拓いて田圃とし、後その中に宅地を作り、御林跡といったそうである。当時は、下駒込村に属し、明治2年駒込千駄木村と名づけ、24年下駒込村の内、団子坂上の笹原を併せて44年、駒込林町と改称、昭和40年、住居表示の変更に伴い千駄木3丁目5丁目と改称され現在に至っている。

 そして東林は大体高台にあるので、団子坂、大給坂、たぬき坂、むじな坂と坂が多い。

 大給坂を登り切った右側に、旧華族豊後府内藩主大給子爵の邸があった。けっぽう園といい後、坂の名も住んでいた人大給氏の名にちなんでつけられたのである。その坂を少々行った右側に武蔵7党の1人の末、久米家が現在も住み、茶室「半床庵」は都の重要文化財として有名である。

 近くには狸山公園があり、かつては狸のお囃子が谷向こうの日暮里まで聞こえたといわれている。

 もう一つ町の中央に今でも珍しい程樹木鬱蒼と、山あり池ありの須藤公園がある。旧幕時代松平備後、下総守等の下屋敷のあった所で明治年間品川弥次郎の屋敷となり後、実業家須藤吉ヱ門の住居となった。そして好意に依り都へ寄付され後、区へ移管された。

 現在でも多くの人々の憩いの場となっている。

 又一方保健所の通りから団子坂下にかけては江戸末期植木屋多く、特に明治初年から42年頃まで、入谷の朝顔と並んで秋の団子坂の菊人形は遠くからの見物人で賑わった。

 この地は又東大、芸大にも近いためか学者、芸術家も多く住み、芸術家では当町会の神輿を製作した高村光雲、高村光太郎、山崎朝雲、児玉希望、小説家では宮本百合子(旧姓中条ユリ)なども住まい、現在でも次の代の人が何人か住んでいる次第である。

 こうして振り返ってみると何年か前は高台の方は林続き、明治の33年頃までは現在の不忍通りの所も田圃続きであったのを思うと歴史の動きがつくづくと感じられる。

 最後に、私共もこうした由緒ある静かな我が町を皆してこれからも大切に守っていきたいと切に願っている次第である。

元副会長 浅井 美恵子


<平成15年7月に作成された「東林町会会員名簿」より引用>