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往事追憶

あるイスラエル詩人が言う~
贈人玫瑰 手有余香~人にばらを贈った後、手に余香が残る。

『往事』第二章 (4)

2010-09-13 19:54:27 | 小説
 八時三十分頃、私は国際教育センターの理事長室に入った。
 村田理事長、中津二人ともとても疲れた様子でソファに座っていた。
 理事長の机にある灰皿に、タバコの灰がらは一杯溜まっていた。部
屋の中も煙草の匂いが充満していた。
 私は急いで窓を開け、灰がらをゴミ箱に捨てた。その後、二人にコ―
ヒを入れた。
「詩音さん、昨夜いろいろと大変だったらしい。ご苦労さん。よくしてくれ
た。ありがとう」と村田はコ―ヒをひと口飲んで言った。
「詩音さんのお陰で、大変助かった。本当にありがとう」と中津もお礼を
言ってくれた。
「いいえ、こちらこそ。新年を迎える時にこんな大きい迷惑を掛けてしま
って、本当に申し訳ございません」
 私は思わず涙を流しながら、劉雲の身元保証人と警察官にお詫びし
た。
「劉雲、劉雲、どうしてこんな時、こんなバカなことを・・・」
 私は心の中で劉雲に腹が立った。

 考えてみれば、亡くなった人は実に楽で幸せな者だ。生前のすべて
の愛しさ、憎しみ、悲しみ、苦しみ、悩み等は、自殺という行為によっ
て、生命の消失とともに消えてしまった。しかし、亡くなった者によって
生まれた新しい悲しみ、苦しみ、悩み、悔しさなどは、亡くなった者の
肉親、友人等の生きている人たちに残し転嫁した。不本意ながら、これ
らの生きている人たちは、死ぬまでずっと世間の冷たい視線を耐えなが
ら、生きて行かなければならない。
 自分の手で二度とない尊い命、ただ一回限りの貴重な人生を絶つこと
はあまりにも身勝手な行為で、家庭にも、社会にも自分自身にも無責任
な行為だと思わざるを得ないだろうか。
 
 私が幼い頃、長い間ずっと貧困、病気と闘いながらわたしたち兄弟を
育てきた母はいつもこう教えてくれた。
「世の中命より大事なものがない。親は言葉で表現できないいろいろな
苦労を耐えて、あなたたちを生み育てきた。命を粗末したり、命を勝手に
捨てたりするようなことは、一番の親不孝で、みっともない行為だ。いくら
何があっても、絶対に命を捨ててはいけない。命さえあれば、希望がある。
希望さえあれば、生きていけるんだ。自分の手で二度とない命を絶つこと
が出来るなら、世の中で乗り越えない困難はない・・・」
 村田理事長と中津の前で、私は再び母の生前の教えを思い出した。



                  


                      続く






『往事』 第二章    (3)

2010-09-09 20:08:38 | 小説
 今回の大晦日で起こった事件は、劉雲の身元保証人の村田静雄だけではなく、
村田家、洛北大学にも莫大の「迷惑」になったことは間違いない。
 中国人としての私の自尊心かも知れない。せめてお正月の間、この凶報を村
田家に持ち込まないでほしいと心の中で切々に願った。
 お正月早々、こんな凶報は村田家にどれほどのショックを与えるかを考えるだ
けでとても心配で不安だった。
 大晦日の夜、警察署の霊安室を出た時、私は自分の気持ちを素直に中津に
言った。
「詩音さんの気持ちはよく分かる。しかし、重大事件だから一刻も早く家族、或
いは関係者に連絡しないと、大変面倒なことが起こる」と中津が言った。
 その時、彼は「実はさきほど署の方から村田静雄理事長に連絡取れた。明日
の朝九時に劉雲の遺体と対面することになった。詩音さんも大変だけど、ぜひ一
緒に来てほしい。劉雲の遺品の整理と確認など・・・」と言った。
「はい、分かりました。明日何時ここに来たらいいですか」
「八時に署の車で迎えに行きます。今日帰ったらゆっくり休んでください」
 警察官の中津の優しいひとごとはその時の私にとても有り難かった。

 一晩降りつ続いた雪が止んだが、空気はとても冷たかった。
 車は少し凍っている御堂筋を通って、ゆっくりと梅田方面へ走っていた。
 毎年と同じように、淀屋橋の近くに綺麗な着物を着て、京都、奈良方面へ
初詣に出かける人は大勢いた。
 日本語を習いはじめたごろ、他の中国人女性と同じように日本の着物が
大好きだった。
 初詣に出かける美しく上品な着物姿の女性たちを見て、ずっと恐怖、緊張、
不安だった私は、幾分癒されたような気がした。そして、心の中で暖かな生
きている喜びを秘かに感じた。




                     続く


『往事』第二章 (2)

2010-09-07 19:17:45 | 小説
 本来、劉雲の自殺したような重大事件は、まず家族、身元保証人などに
知らせなければ後はいろいろな厄介なことが起こる。しかし、劉雲の家族
と親類は日本には一人もいなかった。
 一九八〇年代の中国は、いまのようにお金さえあれば、どの国でも自由
に行けることではなく、特に、国費留学生の家族ずれの海外留学は雲を掴
むような夢だった。
 劉雲も例外なく、夫と娘の笑笑(しょうしょう)を中国国内に残して、一人で
日本へ留学してきた。
 警察側の話では、劉雲の手帳に私の名前、住所、電話番号をはっきり書
いてあったが、しかし、身元保証人の事を一切書いてなかった。それを聞い
た私は少し不思議に思った。
 日本のバブル経済の最盛期だった当時は、沢山の日本人は、少しでも各
国からやったきた留学生たちの力になってあげたい好意を持って、数多くの
留学生たちの身元保証人を引き受けた。だが、言葉の不便、文化の相違、
生活習慣と考え方のずれによって、身元保証人まで巻き込まれたトラブルと
事件が続出だった。こういうトラブルの解決と処理などは私が教育センター
での仕事の一部分でもあった。
 正直に言うと、この仕事はとても頭が痛くて命が縮まるほど大変だったが
やりがいがある仕事でもあった。


 

                  続く

『往事』第二章  (1)

2010-09-06 21:32:09 | 小説
 一九八九年一月一日
 朝八時半ごろ、淀川警察署の車は時間とおりに迎えに来てくれた。
 運転手の話では、中津はさきに国際教育センターへ村田静雄理事長
と話し合いながら、私を待っているようだ。
 当時、私は京都の洛北大学大学院で言語学を勉強しながら、非営利
機構国際教育センターの中国事業部でアルバイトをしていた。当センタ
ーの理事長の村田静雄は劉雲の来日際の身元保証人だった。たまたま
私と同じ中国出身の劉雲との出逢いも彼の紹介だった。
 その後、仕事の一部として、劉雲の大学入学の手続きとか、下宿探し
とか、アルバイト先との交渉などは全部私が担当していた。彼女の入学
の手続きをした時、初めて彼女も洛北大学の文学部日本文学研究科に
進学したことを知った。




                 続く

『往事』第二章

2010-09-06 20:57:35 | 小説
「八〇年代ごろ、外国に電話をかける時、先ず地元の大きな電話局に
行って、国際電話の窓口に申し込む。速い時でも二、三時間かかった。
場合によって一日待ってもなかなか繋がらない時もあった。
 今の世の中どんどん進化している。ポケットに入るくらい小さな携帯
電話一つで全世界が繋がるほど便利になっている。どこに行っても簡
単に国際電話をかけることが出来るとは夢にも思わなかった。
 それほど遠い昔じゃない三〇年前、中国で国際電話をかける時の不
便と苦労を思い出すたびに胸いっぱいになる。」