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往事追憶

あるイスラエル詩人が言う~
贈人玫瑰 手有余香~人にばらを贈った後、手に余香が残る。

『往事』  第三章   (3)

2010-11-01 20:10:52 | 小説
 考えて見れば、一つ気がついたのはここ数年間劉雲と会うたびに、彼女の口から
ご主人のことが殆ど無かった。いつも娘の事ばかり心配していた。
「娘はもうそろそろ簡単な手紙ぐらい書けるかなあ」、「よく娘の夢を見る」、「娘に会い
たい」と、娘からの手紙と写真を毎日のように期待している様子はとても印象的だった。
「詩音さん、これを見てご覧、あなた宛の手紙らしい」
中津はA4 サイズの茶色の封筒を私の目の前に持ってきた。
封筒に「詩音様親展」と書いてあった。
私は心臓がドキドキしながら、早速封筒を開けた。
封筒には小さな航空便の封筒と三つの録音テープが入っていた。
航空便の封筒は中国からの手紙らしい。封筒の右の上の方にある丸い郵便スタン
プの日付けは「一九八八年十二月二〇日」とはっきり見える。
三つの録音テープの横に全部「詩音様へ」と細いボールペンで書いてあった。
「一体何があったのだろうか?何の録音テープだろうか?」
中津は録音テープが気にかかった。
「すみません、私は先に帰ります。録音テープの中身を聞いたら、劉雲の家族の事が
分るかも知れない。そして彼女の自殺の原因もわかるかも・・・」
 村田、中津の返事を待ちきれずに、私は録音テープと航空便の手紙を再び茶色の
封筒に入れて、それを持って劉雲の部屋を飛び出した。
 私は一刻も速く録音テープを聞きたい。
 一刻も速く劉雲を家族のところに帰したい。
 一刻も彼女の自殺の謎を知りたい。

 私は阪急線庄内駅の近くでタクシーに乗って、急いで自宅のマンションに帰ってき
た。
 部屋に入ると本棚の上のダンボールから何年か前に買った小さな録音機を取り出
し、早速劉雲の録音テープを聞こうとしたその時、三つの録音テープと航空便の封筒
は、A4サイズの茶色の封筒から畳に落ちた。何故か知らないけど私は右手を伸ばし
て先に航空便の封筒を拾った。封筒の郵便スタンプの日付は間違いなく十二月二〇
日でちょうどクリスマスの四日前だった。ということは、劉雲が村田に電話したのもこの
手紙を劉雲に届けた頃だった。もしかしたら劉雲はこの手紙を読んだ直後に、村田に
電話を掛けたかも知れない。
 私は迷わず航空便の封筒から手紙を取り出した。
 手紙は二通だった。
 一通は「瑜川」という名前の人から劉雲宛の手紙だった。
 一通は劉雲が私に書いた手紙だった。






                       続く



『往事』  第三章  (2)

2010-10-20 22:02:59 | 小説
 アパートは戦後建てられた相当な年数を経った古い木造の建物だった。
 近くの線路を列車が通るたびに強く揺れを感じた。
 アパートの管理人の小島さんの話では、このアパートに殆ど台湾、韓国、
ベトナム、中国などアジアの国々から、自費で留学に来た若者たちが住ん
でいる。毎月の家賃は二万円前後で、すぐ近くに安くで有名な庄内商店街
もあるので、とても人気のアパートだったらしい。
 「テレビを見てほんまにびっくりした。あんなに真面目でしかもペッぴ
んさんで、なんで自殺したのだろう。いまだに信じられへんわ」
 小島は言いながら、24号室のドアを開けてくれた。
 六畳しかないとても狭い部屋だった。
 湿気が多くてひんやりと寒く感じた。
 あまりにも綺麗に整理整頓している部屋に入った瞬間、妙に「ここには
もう戻ることがない」というメセージを強く伝わてきた。
 部屋の右側の壁に非常に色鮮やかな赤い中国切り絵のカレンダーを飾って
いた。左側の壁には一枚の六切りの写真を画鋲で止めていた。
「村田理事長、この写真を見てください」
 私は指し指で写真を指さしながら言った。
 劉雲のパスポートに挟んだ写真と全く同じものだった。但し、この写真
は劉雲の娘のほかに劉雲のご主人らしい男性も一緒だった。劉雲のパスポー
トのなかが半分切れたのは、ちょうどこの男性を写した部分だった。
 警察官の中津はゆっくりと壁に飾った写真を外して詳しく見ていた。
 写真を汚さないようにラップで丁寧に綺麗な形に包んでいた。写真の中の
劉雲は幸せそうに微笑んでいる。小春日のように。真ん中の二、三歳の女の
子はとても可愛らしい聡明な顔だった。左の男性はハンサムで優しそうに見
えるがどこか神経質で冷たく感じた。
 何故この男性が写した部分が切れたか?
 誰が切れた?
 劉雲の一家には何にが起こったのだろうか?
 私は彼女の家族写真から目を離すことが出来なかった。









                          続く

『往事』  第三章

2010-10-19 21:10:54 | 小説
 一九八九年一月二日
 
 「劉雲の身元保証人の村田静雄はビニール袋を開けて中身を見た。
 血に染まった中国のパスポート、手帳、三万円の現金と半分切れた
写真が挟まれていた。劉雲ととても可愛らしい女の子の写真だった。
・・・。
 「あんなに苦労してやっと日本に来られたのに、もったいない、もっ
たいない」
 村田の目を潤ませていた。
 それを見て、私はとても切なく思って、涙がとめどなく流れてきた
・・・」 











 
              第三章  (1)




 朝八時半頃、私は国際教育センターに着くと、早速中国国際電話局の
交換手と話してみたが、中国側も積極的にいろいろな方法を使って、劉
雲の家族と関係者を探しているそうだ。
 九時過ぎ、村田と私は淀川警察署へ向かった。
 村田の車では、二人とも終始無言のままだった。
 警察署に到着すると、中津はすぐ私たちを霊安室に案内してくれた。
 霊安室に入って、村田は沈痛な表情で劉雲の遺体の前で両手を合わせ
た。
 しばらくして村田は劉雲の青白い顔を見て、「なんでこんなことをしたの?
あんなに苦労してやっと日本に来られたのに、もったいない、もったいない」
と目を潤ませた。
 その後、中津の案内で霊安室を少し離れた一室に入った。
 村田と私は窓側の机の前に座ると、中津が一つの小さなビニール袋
を持って入ってきた。
「劉雲の遺品です。現場で見つかったんだ」と言いながら、村田に渡した。
 村田はビニール袋を開けて中身を見た。
 血に染まった中国のパスポート、手帳、三万円の現金と半分切れた
写真が挟まれていた。
 その写真は劉雲ととっても可愛らしい女の子の写真だった。
 それを見て、胸を刺されたように私は再び涙が流れてきた。
「あの時、彼女の話を聞いてあげたらよかったのに・・・」
 村田は独り言のように言った。
「どういう事ですか?」
 私は村田に聞いてみた。
「実はね、それは去年クリスマスの前の事だった。久しぶり劉雲から電話が
あって、家のこと、学校のこと、いろいろとかなり悩んでいたらしい。出来たら
一度会ってゆっくり話したいと彼女は言ったが、私は年末の挨拶まわりと他の
仕事に追われていたので、時間がどうしても取れなかった。年が明けてから会
おうと彼女に言った。しかし、まさかここまで悩んで苦しんだとは思わなかった。
あの時会って話を聞いてあげたら、彼女は・・・」
 村田の悔しそうな気持ちは隠されなかった。
 三人は警察署で話をしたあと、警察署の車で阪急線庄内駅の裏にある劉雲
の住んでいるアパートに向かった。





                 続く
 



                     

   

『往事』第二章 (6)

2010-09-27 20:16:13 | 小説
 私はNTTから中国への電話のかけ方を村田に話した後、しばらく理事長室
でNTT国際電話の窓口の女性交換手に事情を説明した。彼女のおかげで、私
は直接中国の国際電話局の交換手との話もできた。一刻も早く劉雲の中国にい
る家族、或いは勤務先と連絡してほしいとお願いしたが、残念ながら彼女の勤
務先は元旦のため、誰も電話に出なかった。
 村田、中津と私、三人でいろいろと相談した結果、中国国内にいる劉雲の家
族などとの連絡を取りながら、劉雲の遺体はしばらく淀川警察暑に保管しても
らうようにした。年が明けてから連絡取り次第、最終の対応策を決めることにし
た。
 当時、それしか方法はなかった。
 その後、中津は署にほかの用事があると言って、先に国際教育センターを出
た。
「詩音さん、お腹は減っただろう。もうすぐ昼だし、近くのうどん屋に行こうか」
 村田は言いながら、行きつけのうどん屋に電話を入れた。
 二人はうどん屋で簡単な食事を済ませた後、村田は急に「劉雲との対面は明
日にしよう。詩音さんも今日一日ゆっくり休んだほがいい。こんな大事なとき、あ
なたが倒れたら困る。中津に電話を入れてくる」と言い出して、うどん屋を出た。
 しばらくして席に戻ってきた村田は「警察官も大変だ。せっかくのお正月だった
のに、彼にも家に帰ってもらい、少しでも休んでほしかった」と私に言った。
 うどん屋を出て、村田は国際教育センターに戻った。
 その後、私は阪急百貨店の地下食料品売り場で、パンと牛乳を買って地下鉄の
御堂筋線で自宅へ帰った。

 そのごろ、京都の洛北大学から毎月十二万円の奨学金を出してくれたが、その
半分を中国国内の勤務先に交付しなければいけない。残った奨学金と国際教育セ
ンターのわずかしかないアルバイト料で留学生活を送っていた。
 電気代を節約するために、部屋に冷暖房の設備がほとんどなかった。学校と仕
事が終わって家に帰ると、服を脱ぐではなく、逆にもっとたくさん着ていた。
 唯一の暖を取る道具は、大学の先輩からもらった古い小さなコタツだった。
 食事の時、論文を書く時、文献資料の翻訳の時、よくこの小さなコタツを使っ
ていた。
 コタツは私の留学生時代のなくてはならない大事な存在で、私の留学生活の証
だった。
 今になって街の粗大ごみ捨て場に捨てられた昔のコタツを見るたびにとても懐
かしく思った。

 一九八八年の冬は、今まで経験したことがない、心臓まで凍ってしまいそうな
とても寒い冬だった。部屋の中は特にひんやりと外より寒さを強く感じた。
 年が明けて学校の勉強、アルバイト、劉雲の事件の処理等、一つ一つどれでも
相当な体力と精神力を必要とする仕事だった。
 私は買ってきたパンと牛乳を少し食べた後、安定剤と睡眠剤を半錠ずつ飲んで、
服を着たまま電気を消してコタツの下に潜った。




                   続く

『往事』第二章   (5)

2010-09-21 20:33:59 | 小説
 しかし、劉雲のような才色兼備かつ自分の信念をしっかり持って、
一生懸命に生きている人間は、何故こんな形で、こんなに早々と自
分の人生の幕を降ろしたのだろう?
 記憶の中の彼女は絶対にそう簡単に命を粗末にしたり、命を捨て
たりするような浅はかな人間ではない。
 劉雲の謎のような死には、どうしても理解できなかった。
「詩音さん、中国の元旦は休みが長いですか」
 村田理事長の突然の苛立っている声は私をいろいろな推測から
現実に呼び戻した。
「普通は元日から三日までですが、場合によって五日まで休みの時
もあります。」
「なんとか早く劉雲の家族に連絡したい。いい方法がないかしら」
「NTT国際電話局を通じて調べることが出来るかも知れません」と
私は言った。
 
 30年前の中国では電話の普及率がそれほどではなかった。国
の高級幹部の自宅しか配置することが出来なかった。会社員、教
員、医者などは殆ど、それぞれの勤務先の電話を利用していた。
 当時の私の勤務先の場合、各学部の事務室に電話機(黒電話)
一台ずつを、大学の門番のところに一台を配置していた。そのほ
かは、街の百貨店の中とか、売店の店頭とかにもあった。いわゆ
る「公衆電話」みたいのもので、大体一回は5円から10円までぐら
いの信じられないほどの安い料金だった。
 国際電話の場合はそう簡単に出来ないにもかかわらず、料金も
想像出来ないほど高かった。
 外国に電話を掛ける時、先ず地元の大きい郵便局に行って、国
際電話の窓口に申し込みをする。早い時は2、3時間掛かる。場合
によって一日待ってもなかなか繋がらない時もあった。
 今の世の中どんどん進化している。何もかも便利になった。ポケッ
トに入れるくらい小さな携帯電話一つで全世界が繋がるほど便利に
なった。どこに行ってもこんなに簡単に国際電話を掛けることが出来
るとは夢にも思わなかった。
 今まで仕事の関係でよく国際電話を利用してきた私は30年前の国
際電話を掛ける時の不便さと苦労を思い出すたびに胸がいっぱいに
なる。




                     続く