不祥事は連鎖する、
というよりは連続して表出するものなのでしょうか。
中学の時、部活動で剣道をやっていました。
殴る蹴る、という激しいものではありませんでしたが、
顧問の教師から「体罰」を受けたことはあります。
といっても、トラウマになるようなものではなく、
こっちにしてみれば「怒られたな」という感覚です。
後遺症が残るような体罰は問題外だと思いますし、
理不尽な体罰も勘弁してくれよと思います。
ただ、あらゆる意味での体罰はすべて悪である、
とは限りません。
体の痛みと共に罪悪感を覚えさせる、
というやりかたにも一理あると思うからです。
体罰とは、それを行使する側と行使される側がいるわけで、
結局のところその両者の関係性において、
それが「悪」となるか「善」となるかが
決まるのではないでしょうか。
とはいえ、このご時世において、
教師の体罰はすべからく「悪」と見なされるでしょう。
父母からの抗議だけならまだしも、
裁判沙汰になるケースも多々あるかと思います。
かつては闇に閉ざされていた体罰が表出し、問題視される。
そのことで救われた人もたくさんいることでしょう。
それは素晴らしいことです。
しかし、教育という範疇から体罰を綺麗に腑分けすることは、
はたして可能なのでしょうか?
叱る側が、頬を叩いた手の痛みを忘れない限り、
叱られた側が、体と心の痛みとで涙を流す限り、
体罰の是非を、僕たちが真剣に考えていく限り、
簡単に解決してはいけない問題だと僕は思います。
<補足>
以上の内容をもって、
リンク先にある一件を肯定するつもりはありません。
体罰が取り上げられた最近の事例として取り上げただけです。
ちなみに以前の投稿では、
同様のケースを別の観点から取り上げています。
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