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日々の雑感をお話しする(時々動画)ブログです。

仕事漬けの毎日なので、仕事の話は多いですが、色々話します。

徹夜作業

2023-09-25 20:03:53 | 日記
今夜はこれから徹夜作業なんだよ。
徹夜は大丈夫なんだけれど、翌日ダメージが出るんだよ。
まあ、若いころ会社員の頃も徹夜なんて普通にある会社だったんで、慣れて
いたんだけれど、さすがに55歳ころからダメージが大きくなってきた。
でも、電気屋の宿命なんだよ。電気を止めるには、その事業所の稼働が終わった
後、お店なら営業が終わった後になる。
今日は昼間、砕石工場を点検に回って来たんで結構身体がばててるな。さっき30分くらい寝たんだけど、まあ、大丈夫だろう。
屋根の上に太陽光パネルを敷いて、発電した電気を自分で使う「自家消費型」
の発電所だ。既設の変電所につなぎ込みを行うので停電が必要という訳だ。
さあ、がんばろう!


病気との闘いは一人でする

2023-09-16 17:43:41 | 日記
続いていた不調はだいぶ良くなったのだけれど、クスリの量を自分で加減して
しまったのでそれで大丈夫なのか聞きに病院へ電話をして、予約日ではないの
だけれど行ってきた。
病院へ行く前の晩、女房にここ最近の不調の話をした。
「もう、私は話を聞いてもどうしたら良いかわからない。何も言えない!」
そう言われた。
それは予想していたこと。

翌日病院に行き主治医に「希〇念慮」に襲われて大変だったが、ひょっとすると
1種類のクスリのせいではないかと疑い、それを飲むのを半分にしたら収まった
ことを話した。
果たしてそれは正解だったようだ。飲む量は半分とし、飲む時間も変えることになった。今日はもう何ともない。

女房とのやり取りの話をした。
「奥さんとは距離を取って、同居人として法的に配偶者だから生活の面倒
をみるだけと割り切って暮らした方がいいんじゃないですか。こんなこと言っちゃ失礼ですが、あの奥さんには病人の面倒は見れない。辛い気持ちを話しても、それに対して真摯な対応は出来ない人のようなので。」
自分でそれはわかっていたのだけれど、とても辛い時には優しい言葉の一つもかけてくれるんじゃないかとの、儚い期待をしてきたけれど、先生の厳しい言葉を聞いて自分ではオブラートに包んでいた部分をはっきり言われたので、決心がついた。事実上もう長年そうなっていたのだけれど、「食わせなくてはならない同居人」として接していくことにした。特に今更離婚する必要もないだろう。家庭内離婚だったから。ただ、攻撃してくるんでそれはされないようにしておく必要がある。だから、そう家庭内で宣言するつもりだ。

これで、本当の意味で病気と闘うのは一人きりになった。でも、先生がいる。
先生もそう言った。
もう、自分の好きなことをやって生きていこうと改めて思った。


置き去り

2023-08-29 18:46:32 | 日記


今日も暑い。

崩した体調は良くならない。
でも、仕事は消化しなくてはならない。
理由なんか関係ない。要は、契約を遂行するかしないかの問題だけだ。
100%終わすか終わせないかだけだ。

背筋が凍る様な想いよりは良いかもしれない。
3歳か4歳の時、着飾ったお袋が本屋に連れて行ってくれた。
本屋は子供の時から好きだった。
そして、絵本を一冊買ってもらった。
そんなことは滅多にないことなんで、喜んだ喜んだ。

そしてお袋の実家へ行った。
いつもなら嫁に行ってない叔母がミシンで裁縫の内職をしていた。
だが、その日に限っていなかった。
こたつの上に絵本を置き、俺の後ろに座り読んでくれた。
5〜6ページ読んだところで、「ちょっと声を出して自分で読んでごらん。」
そう言われて俺は夢中で読んだ。
そういう出来事自体が珍しかったから。普段かまってくれなかった。

夢中で読んでいて、はっ と後ろを見たらお袋は居なかった。
トイレにも台所にも居ない。
裸足で外を追ったが居なかった。

そして泣き叫んだ。
いくら泣き叫んでも誰も来ない。
叔母が帰って来たのは夕方だった。
「○○ちゃん、どうしたの?お母さんは?」
俺は首を横に振った。
全てを理解した叔母に慰められ、そのうちその下の叔母が帰って来た。
「あれ、どうしたん?」
上の叔母が訳を話すと、「置き去りにして行くなんて何てこと」
と怒っていた。

お袋の実家に預けられるのは日常茶飯事だったが、置き去りは初めてだった。

体調を崩すとこんな事ばかり思い出して辛い。
しかし、誰にも話せない。話す人が居ない。
言われても困るだろうし。

ちょっと今回の体調不良は長いぞ。暑さにやられて身体もダメージを受けているから
だろうか。

退屈な話をごめんなさい。

認知症の叔母を看取る

2023-08-27 20:27:17 | 日記
看取ったのは2011年だった。
やっと思いだした。

叔母の配偶者である義理の叔父が自死し、一週間後に近所の人に発見され警察沙汰になり、親父の本家の叔母から俺の母親に、行ってきて欲しい との話があった。行ってみたら叔母は認知症がひどく叔父のこともわからない状況だった。
取り敢えず叔母は1週間の約束で区役所が話をつけた施設に預けるから、1週間以内に迎えに来いと母親に押し付けて、そんな状態で帰ってきた。
母親は困り俺に連絡してきた。兄貴はそういうことには絶対に協力しない。
叔父が孤独死して警察沙汰となり、大変なことになったときも俺が親父と東京に部屋の片づけやらなんやらやりにいった。
親父が死んでいるから、母親には叔母の扶助義務はないのに、区役所は家族だから、と押し付けた。
翌日俺は仕事を休み区役所にいった。ああ、場所は東京だ。区役所はあんたは甥っ子ならば家族なんだから、とっとと栃木へ連れてって面倒みてくれ、の一手張り。俺は強く反発し、時間が短すぎて栃木での受け入れ先が見つからない。あんたらそれくらいわかるだろう!言い返した。
すったもんだした挙句、栃木での受け入れ先が見つかるまで預かってくれる有料老人ホームを紹介された。移動は当然俺がやった。そして、お袋と2人で町中の施設を頼んでまわった。十数件行ってやっと見つかった。
そして、俺がクルマで栃木へ連れて来た。
叔母は年金に加入していなかったので、叔母の家にあった現金だけがたよりだった。洗濯料金などをいれると月10万円になる。そして、特養は申し込んだが5年まちだとか言われた。短期入所の老健は半年しか居られない。しかし、ケアマネージャーさんがいい人だったので、半年すると知り合いの短期入所の施設に移し、また半年すると戻ってくるといったことをやってくれた。
結局4年後に看取ったのだが、地獄だった。
なんか、地獄だったという話が多いな。

だめだ、ここまで書いたら調子が悪くてダメだ。
そんなこともあったなあ、という話。