トキワ荘通り

豊島区椎名町(現:南長崎)には、日本のマンガ文化を育てた梁山泊「トキワ荘」がありました。

「トキワ荘通り」通信・トークイベント編

2011-05-15 | 平成23年2周年記念
「トキワ荘通り」通信・トークイベント編
4月29日に行った記念碑「トキワ荘のヒーローたち」2周年イベントのメインはなんといってもトキワ荘ゆかりの地・目白映画跡で行ったトークショーです。
大震災で被災された石巻「石ノ森萬画館」の近況報告を石森プロ(瀧川副社長)にご説明いただき、そのあと石森先生とゲストの先生方の関わりを主題にフリートークをしていただきました。
永田竹丸先生、よこたとくお先生、水野英子先生、丸山昭先生、石森プロ社長の小野寺章様、そして6月にトキワ荘の本を出される山内ジョージ先生にご出演いただきました。そしてトーク終了後には売上げの一部を「石ノ森萬画館」に寄付させていただく「トキワ荘パワー!」(祥伝社)のサイン販売会も行いました。
イベント会場の旧・目白映画とは、昭和20年代から45年まで営業していたトキワ荘から徒歩5分くらいの映画館で、トキワ荘の先生方が回数を競いあうように通われた場所です。東宝、松竹系で時には洋画の上映もありました。石森先生は、黒沢映画の大ファンで、封切り日に編集者の目を逃れて観に行ったという話も出ました。


この日の観客数は約100人、その中には地元・椎名町ご出身のマンガ家・樋口先生もおみえで、皆さんの前で樋口先生のお父様が目白映画の映写技師であったことを披露させていただき、コメントもいただきました。
まずは、永田先生からお借りした「新漫画党」結成1周年の記念写真や昭和29年夏に新宿御苑で撮影したという新人マンガ家の集合写真(のちのトキワ荘関係のマンガ家が大勢写っています)をスクリーンでお見せしながらトークをスタートし、この時まだ高校生だった石森先生を写真の中からさがしてみるなど、なんとも微笑ましい雰囲気で始めることができました。
高校時代の夏休みに度々上京していた石森先生は、白いシャツに学生ズボン、腰にはいつも手ぬぐい(タオル?)をぶら下げていたとか…、丸山先生によると初めから大家の風格があったらしいですが、やはり田舎出の恥ずかしがり屋であったのも事実、最初の下宿の西落合では外出するのも気が引けて空腹でダウンしてしまったのは有名な話です。
新宿御苑の写真の時(29年)、すでにトキワ荘から並木ハウスに移っていた手塚先生を訪ねた石森、赤塚、長谷各先生の様子を、そこで「リボンの騎士」の原稿待ちをしていた丸山先生にお聞きしたり、石森先生が西落合に下宿する前に、西荒川で共同生活をしていたよこた、赤塚両先生といっしょに寝泊まりしたというようなこのトークショウで初めて知らされる事実も次々に飛び出して、集まったトキワ荘ファンにはまちがいなく満足いただけたはずです。
30年暮れ、よこた、赤塚先生がマンガ家を本格的にめざして同居を始めた都電「西荒川駅」のすぐ隣にあった家の絵をなんとイベント当日によこた先生は描き下ろしてお持ちいただいたのです。この家は食堂を改造した5畳半の間取りでよこた先生19歳の時だったそうです。


 丸山先生の企画で水野、石森、赤塚先生3人の合作品のために水野先生がトキワ荘に入居したのは33年3月、そしてトキワ荘で石森先生の面倒をみていた実姉が、喘息の発作で入院中に症状が急変して亡くなられた時に、水野、石森、赤塚先生がいっしょに目白映画で観ていたのは「マダムと泥棒」でした(ご命日はトキワ荘記念碑の除幕式と同じ4月4日)。この映画は、英・イーリングスタジオのコメディ代表作として評価されていますが、3人の先生方は病院でお姉さまが小康状態になったのを見届けて、安心して映画を観に行ったそうです。石森先生が後悔し、自分を責めていた様子は水野先生の「トキワ荘日記」にも描かれています。
 この日のトークに特別出演していただいた山内ジョージ先生は石森先生のアシスタントとしてトキワ荘に最後まで住んだマンガ家です。「トキワ荘後」の石森先生について会場でも語っていただきましたが、山内先生の著書「トキワ荘最後の住人の記録」は6月17日に東京書籍から発売予定です。同日の紫雲荘レポなどは書ききれませんでしたが、今回も新しいファンとの出会いで、また活動の広がりを予感させてくれる大切な一日となりました。(K)
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