わたしが若い頃、とても感銘を受けた話がありました。
それは、
世間ではよくある、ありふれた事情でもあるのですが、
その事情にたいし、
なぜ、そんな悟りができるのか、不思議でなりません。
私の信仰をもとめる動機となりました。
ある家庭に、一人の問題ある子どもがいました。
子どもといっても、それなりに成人した子どもです。
放蕩(ほうとう)の限りを尽くし、とうとう、親族会議が開かれることになりました。
親族会議のゆくえは、だいたい想像がつきます。
まず、勘当(かんどう)が言い渡され、そして、
親族にも、これからは会いにいくことを禁じられるはずです。
話し合いがはじまりました。
そのとき、あるひとりが、口を開きました。
「私は長年信仰をしております。
そこでは次のように聞かせていただいております。
この世に起きてくる、
ありとあらゆることは、
因縁(いんねん)によって、起きてくるのです。
そうであれば、
今、この青年に起きていることも、一つの因縁の結果なのでしょう。
因縁とは、心(の姿、道)という原因があって、今の現実があるということです。
この青年のおかした行為は、青年の責任ですが、
今ここにお集まりの、親族のかたがたにも、
この話し合いに立ち会わねばならない因縁があります。
今のこの青年の姿は、あなたたち一人一人の将来の姿かもしれません。
(自分にはなくても、子ども、孫の将来かもしれないという意味です。)
その意味では、
この青年は、私たち一族の因縁を背負ってくれているといえます。
もし、そうであれば、私たちが今すべきことは、この青年を責めるのではなく、(青年が因縁を背負ってくれたことに)感謝しなければなりません。」
この会議の結果を、ここでは書きませんが、
私がこの話しを読んだとき、
感動したというより、驚きました。
もちろん、これらの言葉は感動もし、強い感銘をうけたのですが、それよりも、
なぜこんな言葉が出てくるのか、
どうしたら、こんな悟りがうまれるのか、知りたくなりました。
私が強く信仰を求めるひとつの動機となりました。