昨日の日曜日は 今すんでいる 高槻市南部から 京都府亀岡に向けて山岳ドライブ リスなのか テン なのか 山中の ご神木に 住み着いているんや 少し暗い場所で リスなんかな 暫く じっと睨みあって そいつ その木の上に登っていきよった この古木は 古そうや
その下のこの祠は 稲荷さんを祀ってる その横なので 気色悪いと 言うか ワシにとっては イイ感じやな 霊気一杯の場所やし
そうや そうや 此の場所に たどり着く前に 茨木市の山中から 山越えして 南下のバス停 付近を300mほど 過ぎたところで
ワシの 里から 数百年も前に 移動してきたような 家を発見した
吉備国 美作 出自が ほぼ 間違いない 亀岡の山中や
美作藩 菅 直人 さんと同じ 菅家の系統、江見家とある 刀の道場か?
なんか この 高槻市の奥のほう 30kmほどの 場所 ワシの田舎と よく似てる感じの場所なの
菅家は 美作の国から あちこちに 行って住んでるか
元総理と言えば 鳩山のおじいさんが たしか美作藩の出やったと思う
また 岡山県 総社市付近は 秦氏の出自
総社は 橋本龍太郎 元総理も 多分 その付近の出自だろうと思う
此の亀岡の山の中 トーナイ会社の 社員の柴田も ここから 1時間もかけて 自動車通勤してるんや
まあ とりあえず その後 亀岡市内の 山際を徘徊や 神社 と寺 が とても 多い 【曾我】って 地名は どの時代を征服者を現した地名なのじゃろう
また 後で調べてみよう
日本海側に向いて 左に行けば 丹波で右に進めば
京都の嵐山に20km未満で 降りる場所やな
銅の相場は 土曜日と同じなので やめとこ
本日も わけのわからないような 日記最後まで御読みくださった方がおられたかな?
あほうな こと ばかり 考えて 朝の 頭を目覚ましていますバタ屋トーナイ 東内誠
http://tohnai.com/top_main.html
東内誠への スクラップ売買の連絡は 上記のトーナイHPに
書いてます(072-678 1112)に 電話が嬉しい メールは多すぎて見過ごします
また 以下は 古代史研究 吉備国追及バタ屋トーナイ東内誠の宣伝的メモ
吉備王国史というHPから 運用させて頂きまして 要約を自分なりに纏めてみました
私の先祖 美作の東内誠 藤内 トーナイの立場としては
西暦700年過ぎに ヤマトから派遣された方につれられてきた立場の可能性も高く
この方の 言われる立場とは 違う立場の可能性も高いのですが、
いろんな 方々の研究やらを見させて戴いて その書かれたお立場も想像しつつ
何時かは自分も 自分風のそのような結論というかストーリーというか 自らの
考えを 書いてみたいのですが
まだまだ 私の場合は全く無学で 結論には至っていない事を前提に この先生の原稿も参考にしたい
では その要約や 自分の意見
● 瀬戸内の吉備の中心部は 当時 吉備津彦神社付近までが海が迫っていた
● 吉備の中山は 瀬戸内に浮かぶ島か半島であった(中山というたら 岡山県では 中山神社では ないのかな?分国後、美作の一宮-とうない)
● 古くは 2万年前ごろ 瀬戸内の海は地球の寒冷化の時期であり現在より海面が低かった
従って水深70mほどの瀬戸内海は 完全に陸地化していたという。
先土器時代の狩人が活躍していたと この先生は言っている(とうない まこと の内部には 狩猟系が 何か混ざっているように自分では思う)
● その後 地球の温暖化によって、海水面が上昇し縄文前期初頭には その温暖化のピークを迎えた
(温暖化すると海面上昇するのは 知っている 環境の勉強は多少知が有る バタ屋 とうない )
● 海面があがってきて狩猟や採取をおこなっていた縄文人の生活は 海のそばへと住むようになり、
瀬戸内の豊かな海の幸を獲って 縄文人たちの生活が営まれた。
● 縄文時代以降海水面は安定したが 河川に流れ込む土砂などの影響を受け環境の変化から 海の幸もとり辛くなる局面を向かえ
その解決策の1つとして 山間に纏まって住むような一家もでてきた
(遺跡がそれを物語っている また バタ屋とうない は 大阪北港でも住んでいるので 河川の土砂の堆積は知っている)
《3世紀末の 神武東征》
日向の高千穂たかちほ に いた 神武じんむ天皇が、東征を思いたち
軍船で 瀬戸内を進み 河内かわち に上陸、そのまま生駒山を越えて大和に入ろうとしたところ、
その土地の豪族
長髄彦(ながすねひこ)に阻止されその為、
【この時代 身体の特徴を差別する名前を つけたのだ 東内誠 藤内の誠 トーナイ】
まっすぐに進むことを諦めて紀伊半島を迂回し 熊野から 吉野を経て 大和に入り
ついには 長髄彦を倒し ヤマトを制圧した
その後、樫原宮(かしわらのみや)で即位されて初代天皇
その下のこの祠は 稲荷さんを祀ってる その横なので 気色悪いと 言うか ワシにとっては イイ感じやな 霊気一杯の場所やし
そうや そうや 此の場所に たどり着く前に 茨木市の山中から 山越えして 南下のバス停 付近を300mほど 過ぎたところで
ワシの 里から 数百年も前に 移動してきたような 家を発見した
吉備国 美作 出自が ほぼ 間違いない 亀岡の山中や
美作藩 菅 直人 さんと同じ 菅家の系統、江見家とある 刀の道場か?
なんか この 高槻市の奥のほう 30kmほどの 場所 ワシの田舎と よく似てる感じの場所なの
菅家は 美作の国から あちこちに 行って住んでるか
元総理と言えば 鳩山のおじいさんが たしか美作藩の出やったと思う
また 岡山県 総社市付近は 秦氏の出自
総社は 橋本龍太郎 元総理も 多分 その付近の出自だろうと思う
此の亀岡の山の中 トーナイ会社の 社員の柴田も ここから 1時間もかけて 自動車通勤してるんや
まあ とりあえず その後 亀岡市内の 山際を徘徊や 神社 と寺 が とても 多い 【曾我】って 地名は どの時代を征服者を現した地名なのじゃろう
また 後で調べてみよう
日本海側に向いて 左に行けば 丹波で右に進めば
京都の嵐山に20km未満で 降りる場所やな
銅の相場は 土曜日と同じなので やめとこ
本日も わけのわからないような 日記最後まで御読みくださった方がおられたかな?
あほうな こと ばかり 考えて 朝の 頭を目覚ましていますバタ屋トーナイ 東内誠
http://tohnai.com/top_main.html
東内誠への スクラップ売買の連絡は 上記のトーナイHPに
書いてます(072-678 1112)に 電話が嬉しい メールは多すぎて見過ごします
また 以下は 古代史研究 吉備国追及バタ屋トーナイ東内誠の宣伝的メモ
吉備王国史というHPから 運用させて頂きまして 要約を自分なりに纏めてみました
私の先祖 美作の東内誠 藤内 トーナイの立場としては
西暦700年過ぎに ヤマトから派遣された方につれられてきた立場の可能性も高く
この方の 言われる立場とは 違う立場の可能性も高いのですが、
いろんな 方々の研究やらを見させて戴いて その書かれたお立場も想像しつつ
何時かは自分も 自分風のそのような結論というかストーリーというか 自らの
考えを 書いてみたいのですが
まだまだ 私の場合は全く無学で 結論には至っていない事を前提に この先生の原稿も参考にしたい
では その要約や 自分の意見
● 瀬戸内の吉備の中心部は 当時 吉備津彦神社付近までが海が迫っていた
● 吉備の中山は 瀬戸内に浮かぶ島か半島であった(中山というたら 岡山県では 中山神社では ないのかな?分国後、美作の一宮-とうない)
● 古くは 2万年前ごろ 瀬戸内の海は地球の寒冷化の時期であり現在より海面が低かった
従って水深70mほどの瀬戸内海は 完全に陸地化していたという。
先土器時代の狩人が活躍していたと この先生は言っている(とうない まこと の内部には 狩猟系が 何か混ざっているように自分では思う)
● その後 地球の温暖化によって、海水面が上昇し縄文前期初頭には その温暖化のピークを迎えた
(温暖化すると海面上昇するのは 知っている 環境の勉強は多少知が有る バタ屋 とうない )
● 海面があがってきて狩猟や採取をおこなっていた縄文人の生活は 海のそばへと住むようになり、
瀬戸内の豊かな海の幸を獲って 縄文人たちの生活が営まれた。
● 縄文時代以降海水面は安定したが 河川に流れ込む土砂などの影響を受け環境の変化から 海の幸もとり辛くなる局面を向かえ
その解決策の1つとして 山間に纏まって住むような一家もでてきた
(遺跡がそれを物語っている また バタ屋とうない は 大阪北港でも住んでいるので 河川の土砂の堆積は知っている)
《3世紀末の 神武東征》
日向の高千穂たかちほ に いた 神武じんむ天皇が、東征を思いたち
軍船で 瀬戸内を進み 河内かわち に上陸、そのまま生駒山を越えて大和に入ろうとしたところ、
その土地の豪族
長髄彦(ながすねひこ)に阻止されその為、
【この時代 身体の特徴を差別する名前を つけたのだ 東内誠 藤内の誠 トーナイ】
まっすぐに進むことを諦めて紀伊半島を迂回し 熊野から 吉野を経て 大和に入り
ついには 長髄彦を倒し ヤマトを制圧した
その後、樫原宮(かしわらのみや)で即位されて初代天皇