ここ母成峠周辺を戦場として1868.10.6に戦われた。
この日、本宮・玉ノ井村に集結を終わった西軍は、兵を三分し、土佐 谷干城の率いる1000名は猿岩口へ
板垣退助、伊地知正治率いる1300名は石筵本道口へ、薩摩 川村純義率いる300名は山葵沢より滝沢口へ一斉に進発したという。
旧幕府軍守備隊は、大鳥圭介指揮のもと、母成峠から山麓にかけて築いた3段の台場陣地と勝岩の台場陣地に布陣し総勢800人。
旧幕府伝習隊400人、会津藩兵200人、及び仙台藩兵、二本松藩兵、新撰組等200人という構成であったという。
戦闘は午前9時頃からの砲撃戦で始まり、まず木砲のみの第1台場陣地があっけなく陥落。
旧式大砲2門を置いた第2台場陣地も新政府軍のアームストロング砲攻撃、長州藩兵の側面攻撃で炎上、陥落したといわれる。
この敗戦によって、会津の命運は決まったようなものだった。
母成グリーンライン、くねくね道を進むと古戦場跡に到着する。磐梯山など眺めることができ、中ノ沢温泉も近くにある。
グリーンラインから115号を進むと猪苗代そば店が多数ある。
この日、本宮・玉ノ井村に集結を終わった西軍は、兵を三分し、土佐 谷干城の率いる1000名は猿岩口へ
板垣退助、伊地知正治率いる1300名は石筵本道口へ、薩摩 川村純義率いる300名は山葵沢より滝沢口へ一斉に進発したという。
旧幕府軍守備隊は、大鳥圭介指揮のもと、母成峠から山麓にかけて築いた3段の台場陣地と勝岩の台場陣地に布陣し総勢800人。
旧幕府伝習隊400人、会津藩兵200人、及び仙台藩兵、二本松藩兵、新撰組等200人という構成であったという。
戦闘は午前9時頃からの砲撃戦で始まり、まず木砲のみの第1台場陣地があっけなく陥落。
旧式大砲2門を置いた第2台場陣地も新政府軍のアームストロング砲攻撃、長州藩兵の側面攻撃で炎上、陥落したといわれる。
この敗戦によって、会津の命運は決まったようなものだった。
母成グリーンライン、くねくね道を進むと古戦場跡に到着する。磐梯山など眺めることができ、中ノ沢温泉も近くにある。
グリーンラインから115号を進むと猪苗代そば店が多数ある。
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