人と仕事を考える

HRM総研代表・八木裕之のブログ

接客業の人間力

2007-12-24 13:01:30 | Weblog
 よく行くワインバーがある。ワインの品揃えだけでなく、食事のメニューも充実している。カウンターが中心なので、他のお客さんの様子も見て取れる。ワインの薀蓄を披瀝する人、連れの女性を口説く男性、お店のスタッフをからかう人など、様々なタイプのお客さんがやってくる。みんな楽しそうである。

 その理由は、スタッフの接客の姿勢にあると思う。スタッフはほぼ全員若い女性。いろんなタイプのお客さんに応じた接し方をしている。(ただし「女性性」を「売り」にはしていない。はず…)中には居酒屋に行った方がいいのではと思われるようなタイプの客にも、笑顔で対応をしている。無理にワインを勧めることもなく、こちらの懐具合も考えたセレクトをしてくれる。
 また、なによりスタッフ同士が信頼しあって、楽しんで仕事をしているように見うけられる。そうなると、自分のするべきこと、「役割」というのも見えてくるわけで、自然な流れの中で仕事が回っていっている。実はその様子を見るのが心地よいのだということに最近気がついた。

 中澤圭二著『鮨屋の人間力』(文春新書)では、鮨屋にとって基本となるのは、単にネタがうまいというだけではなく、お客さんに接する態度、人を見ること、空気を作ることなどの「人間力」であると説かれている。(p.168)
 著者は、カウンター越しに一貫一貫注文し、そのたびに言葉を交わす、鮨屋というのは飲食業の中で唯一の「さらし」の商売だという(p.73)鮨屋の特殊性を強調しているが、「人間力」が必要なのは、他の接客業、いや多くの仕事においても、共通することだといえる。

 職場においても、最近「空気を読めない人」が多いといわれているが、では、単に「もっと気を使え」と指導するのは少し違う気がする。気を使われていると相手が感じれば、それは時として重荷になるし、場合によっては慇懃無礼ととられかねない。
 このようなこと、今まで「いわなくてもわかる」はずであったのだが、どうも最近は違うらしい。説明するのはかえって難しいが、最終的には相手の立場や気持ちに立って行動するということに尽きるのかもしれない。
 
 

インディペンデント・コントラクター

2007-12-04 16:16:14 | Weblog
 現在取り掛かっている仕事の中で、日経連のいう「高度専門能力活用型」人材の活用について考える機会をいただいている。

 いわゆるホワイトカラーの専門職については、企業の中では、極端な場合「マネジャーに向かない人」の受け皿となってしまっていることなど課題も多いが、その契約形態を含め、有効な活用方法が模索されている。そのひとつが、インディペンデント・コントラクター(IC)という考え方である。
 ICとは直訳すると「独立契約者」となるが、「企業の社員となって仕事をする関係ではなく、会社を作って人を雇い、それを大きくしていく働き方」でもない、いわば「自分で自分を雇う」というものである。(秋山進・山田久『インディペンデント・コントラクター』日本経済新聞社pp.68-70)

 個人が企業に直接雇用されるのではなく、個人事業主として契約するのは「業務委託」という形式を取ることになる。「業務委託」の形を取りながら、企業が時間的拘束をしたり、直接指揮命令をしたりすると、最近製造現場で問題となっている「偽装請負」と共通する課題を抱えることになるが、本来は仕事の成果に対して、その納期や報酬を決定する契約方法である。ICは高い専門能力を持って自分の意思で働き方を決める「ビジネスプロフェッショナル」が企業と直接契約を結ぶということになる。
 IT関係の技術者・クリエーターといわれる人などは、こういった企業との契約形態で仕事をする人も増えている。ただ、いまひとつ単なる下請や、社会保険の適用もない安価な労働力としての位置づけを脱していないケースも多い。

 これは使用者側の思惑とは別に、働く側の意識にも問題があるといえる。技術力を売り物にするというと、「職人」「一匹狼」といったことばがイメージされるが、ICという考え方は、何か(ここでは「会社」)の束縛から逃れる「フリー」とは異なり、ディペンデントな(依存する)関係から離れて、一人前の存在として新たな関係を結び直すということになる。つまり、組織になじめないから独立するというのではなく、むしろ積極的に組織に働きかけをして仕事をもらうという新たな関係を結ぶことが求められるのである。(前掲書pp.264-265)
 人々の労働観が会社中心主義から仕事中心主義に移りつつあるとされる今日においては、適正な運用を前提に、導入を検討してもいいかもしれない。

指導者の器

2007-10-20 20:47:10 | Weblog
 士業ネットワークの勉強会で、落語家桂歌之助さんのお話を聞く機会があった。勉強会の趣旨は「落語に商売の教訓を学ぶ」というもので、「はてなの茶碗」を楽しく聞かせていただいた。
 落語に先立って、落語界のしきたりや、落語の話し方の法則といったことの紹介があったが、そのなかで印象に残ったのが「師匠と弟子」の関係についての話である。
 漫才など他の芸人さんと違い、プロの落語家になるには、必ず師匠の下に弟子入りをしなくてはならない。
 最近相撲やボクシングで師匠・トレーナーという人が暴走、あるいは弟子を制御できずにいるケースが目に付くが、歌之助さんは、協会が「これからは師匠教育にも力を入れないといけない」というコメントを発表したことについて、とても奇異な感じがしたという。

 東京の落語家さんには「真打」にならないと弟子を取ることができないが、上方落語はそのような真打制度自体がないために、実力がともなえば、先輩より歳が若くても弟子を取ることができる。つまり、「師匠」とは周りから「芸」と「人格」について一定の評価を得た者しかなれないというわけだ。もっとも弟子のおられる落語家の中にも、警察のお世話になった方もおられるので、すべての方が聖人君主ではないのだろうが(さすがに米朝一門はそういうことはないのかもしれないが)、歌之助さんがそう感じられたのは、しごくごもっともなことだと思う。

 本来上に立つ者は、技術や知識以外にも下の者を惹きつける人間性を備えていなくてはいけないといわれる。トヨタ自動車の人事考課にはコンピテンシー考課の項目の中に「人望」というのがある。若者の質も変わり、指導者も過去の法則が通用しなくなっているとことがよく聞かれるが、それを若者のせいにするばかりではなく、指導者も変わらなくてはならない。

値段のつけ方

2007-09-30 17:01:38 | Weblog
 先週後半は、東京で仕事があった。お昼時に神田・駿河台にいたので、某有名店でお蕎麦を食べようと思った。あいにく、小雨がぱらつきだしたので、目的のお店ではなかったが、手打ち蕎麦のお店の看板が目に付いたので、そちらでいただくことにした。(おいしかったです)
 
 家の近所に本格手打ち蕎麦の店がある。ご店主のこだわりは相当で、自分で畑を借りて蕎麦を栽培し、それをお店で出されている。
 また、メニューの裏に蕎麦に関する「薀蓄」がつづられており、しかもそれが時々更新されている。(見習わなければ…)
 最近読ませてもらったものは、蕎麦の値段についてのものであった。

 ご店主が大阪で手打ち蕎麦のお店を始められたとき、お客さんの反応は、「そばなのに高い」「値段の割に量が少ない」といったものが多かったという。これは、多くの大阪人の持つ「そば」に関する一般的な反応だと思う。
 そういった感想を寄せられる方の大半は、いわゆる「うどん屋さん」でだされるものと比べておられるのだと思う。
 実際、「うどん屋さん」、もしくは「大衆食堂」では、天ぷらうどんと天ぷらそばは、同じ値段で売られていることが多い。(私がよく行く所では、ともに270円である)
 ところが、実際うどん粉とそば粉では値段が全然違い、約5倍から10倍の価格差があるという。ではどうして同じ値段でだせるのかというと、そば粉に小麦粉を混ぜるのである。ただし、そのままだと白くなってしまうので、色粉(甘皮粉)を混ぜるのだそうだ。JISの規格では、そば粉が3割入っていれば「そば」と名乗ることができるのだが、店主いわくこれでは「黒い細うどん」であるとのこと。いわゆる立ち食いそば屋さんやスーパーマーケットで売られている「そば」はこの類だという。

 店主の、嘆きが伝わってくるようだが、「江戸時代から蕎麦は安いものという刷り込みがなされた中で、蕎麦屋の職業人としての苦闘は続いている」とのコメントは、同じく値段設定に苦慮する自由業者として、大いに共感するところであった。
 価値を認めてもらい、価格に「値ごろ感」を持っていただけるよう、早く「手打ち蕎麦」の域に達したいものである。

時短と生産性

2007-09-24 11:59:17 | Weblog
 関与先から「残業代」の削減について相談を受けた。数年前、労働基準監督署からの指摘をうけ、時間外手当の算出方法を見直したが、その結果人件費が膨らんで、今度は融資を受けている銀行から、経費の見直しの必要性を指摘されているという。
 時間外労働の管理は残業代を支払う企業、心身の健康が脅かされる従業員双方にとって、悩ましい問題であるが、特に非製造業においては、労使間で「本当にそれが必要な残業なのか」という認識で差があるように思う。会社は「ダラダラと仕事をして会社に残っているだけ」と思い、労働者からは「成果を求められて仕事が終わらない」といった声がよくきかれる。

 社会経済生産性本部の「労働生産性の国際比較(2006年版)」によると、日本の労働生産性は先進7か国中では11年連続で最下位。OECD30カ国中で19位と低迷している。ただし、製造業についてみれば、先進7か国中2位であるので、非製造業ホワイトカラーの生産性の低さが足を引っ張っているということになる。(これについては、為替レートなどの要因で、日本の労働生産性はそれほど低くないとする指摘もある。門倉貴史『ホワイトカラーは給料ドロボーか』pp.36-79光文社新書)

 長時間労働となっている背景には、企業独自の事情もあり、一概にどちらの言い分が正しいかはいえないが、いずれにしてもその具体的な解決方法が、求められて久しい。
 労務管理を行う者としては、つい法律の枠内に労働時間を収めるために、「変形労働時間制」や「裁量労働制」の導入といった「制度」の導入により解消をはかろうとするが、「仕事の仕方を見直す」といったところに踏み込まなければ、本質的な解決にならない。さもなければ、「サービス残業」の増加につながるだけである。

 今まで、「時間管理術」や「仕事術」を説いた書籍の類は山のようにある。「スケジューリングの重要性」「すきま時間の活用」「不必要な努力はしない」といったテクニックなどが紹介されているが、要は「いかに仕事と向き合うか」ということに収斂するような気がする。
 ワークライフバランスの考え方についても、単に「働く時間を減らして、プライベートの時間を増やす」のではなく、短時間で同じだけ、さらにそれ以上の成果をあげることが、知識労働社会における前提であるとの指摘もある。労働時間の短縮に比例してアウトプットも減ってしまうのでは、仕事を失ってプライベートな生活まで脅かされるおそれがあり、そうなっては「ワークライフバランス」どころではないということだ。(本田直之『レバレッジ時間術』p.49幻冬社新書)
 社労士の業務として、「仕事の仕方」を提案する必要が出てきたといえる。
 

人事も経理も中国へ

2007-09-04 13:38:00 | Weblog
 ある税理士さんから、給与計算を依頼できる社労士を知らないかとの問合わせがあった。(私に直接依頼しないところが慧眼である)顧問先でアウトソーシング会社に見積りを取ったが、料金が折り合わないとのこと。参考までにその会社の見積書を見せてもらったところ、値段はともかく、注意書きに「本件業務の全部または一部を、大連○○有限公司に再委託する場合があります」と書いてある。すごいなぁと思っていたところ、NHKで標題の特集番組を放送していた。

 番組は、ある通販会社が、いわゆる管理部門の業務を中国の事務処理会社にアウトソーシングを進める過程を描いたものであった。
 会社がアウトソーシングを進める理由は、業務の効率化である。中国に外注することにより大幅なコストダウンが可能となる。

 人事部門や経理部門は、会社の意思決定が大きく反映される業務を除き、給与計算や旅費精算などの定型業務はすべて中国・大連の会社に外部委託を進めてきた。 会社は次に総務部門について、アウトソーシングを進めようとするが、総務は臨機応変な対応が求められるセクションだとして、現在の担当者は承服しない。そこには、総務は会社の「縁の下の力持ち」だという自負と、自分の仕事がなくなったら何をすればいいのかという不安が見て取れる。現に仕事がなくなった経理の担当者が退職していくシーンなどもあった。

 会社はアウトソーシングによっても、人員の削減は行わないという。逆に新たな付加価値の高い仕事をするようにと、社員自身の意識改革を求める。番組では当初アウトソーシングに反対していた中高年の社員が、中国から来た事務処理会社の担当者に業務の引継ぎをしていく中で、その担当者の熱心さや仕事の飲み込みの速さなどに感心しつつ、自分も新たなキャリアを切り開いていこうと思うようになるという、まるで教材ビデオのようなストーリー展開であった。

 近年、日本企業は中国を生産拠点としてきた。その後、中国自体を市場としてとらえる考え方が強調されだしたが、最近では事務のアウトソーシング拠点としての役割が加わってきている。
 こういった現象を、事務部門の空洞化とみるか、将来の労働力人口不足を補う術とみるか、見解は分かれるだろうが、「付加価値の高い仕事」ができる人しか必要とされない時代に、生き残っていくのは大変だということは予想できる。これはサラリーパーソンのみならず、我々職業人事屋にとっても同じである。
 


現場の賃金論

2007-09-03 11:35:29 | Weblog
 人事制度設計の勉強会に出席した。長い間参加している人事全般に関する研究会で、実際のコンサル事例などを通して、「本に書いていない情報」を提供してもらっている。
 今回のテーマは賃金設計であった。賃金制度の改定に際しては、年功序列の排除、成果主義の考え方の浸透を意図して、決定の基準を「人」から「仕事」に移行するというのが一般的な流れとなっている。大筋では今後もこの傾向は変わらないだろう。
 
 設計した賃金体系が出来上がったら、現在の社員を新賃金表にあてはめる作業-「格付け」を行う。現在の等級や職位と新賃金体系での格付けが一致していれば問題はないが、中には今の仕事振りは本来の等級に見合ったものではない人もいる。格付けの結果、新賃金体系では賃金表に載らない、つまり「今まで払いすぎていた」とみなされるケースである。
 こういった場合でも、賃金の不利益変更は法的な制約もあり、経過措置として「調整手当」で補填し、当面は従前と変わらない賃金総額を保証するという手法をとるのが一般的である。

 今回の勉強会で示唆を得たのは、この格付けの取扱いについて。
 制度を変える会社側は、実力どおりの評価に修正したとの思いから、実力が足りていないのだから下位等級への格付けは当然だとするが、果たして今までの会社の責任はどうなるのかという疑問もあるという。

 再格付けで議論になるのは、マネジャークラスが多い。
 従来多くの(特に中小)企業は、プレーヤーとして優秀な社員の論功行賞として、課長などのマネジャーに昇進させることが多かった。今日求められるようなマネジャーとしての教育や、適性の検討がなされないまま、今の職位に就けられたケースも多々ある。勝手に要件を見直しておいて、それは少しシビアなのでは…ということだ。この場合、役職はそのままにして、向こう3年間のうちにきちんと育成するといった対応が実務的と思われる。
 同様に昇格に際して、「D」評価をとればマイナス昇給とすることについても「会社の責任」を考慮する余地が指摘された。(少なくともゼロ昇給ではないかというのが見解)

 人事考課とその結果の賃金の決定は、「適性の人件費管理」が必要ではあるが、「会社としてあるべき姿になってもらうこと」が、本来の目的である。
 教科書どおりの運用は時として、かえって生産性を悪くする。企業に応じた合理的な運用が必要とされるゆえんである。

 

あぁ夏休み…

2007-08-30 15:04:44 | Weblog
 8月も明日で終わりである。学生の頃は長い夏休みがあったが、それでも終わりの頃には寂しい思いをしたものである。
 会社員になっても夏には「お盆休み」があった。最近は全社一斉ではなく、夏の期間に個人の都合に合わせて何日か休みを取るスタイルのところも見受けられる。
 
 サラリーマンをやめて独立したとき、当初はこれからは好きなときに休めるなという思いもあったが、いざ開業してみると、仕事のあるときは仕事に追われ、仕事のないときは仕事を探す必要があるため、なかなかまとまった休みが取れないでいる。半日単位で時間が空くことはあるので、たまには映画を見に行ったりすることもあるが、暑さの厳しい夏には、休みも必要かなと思っている。

 労働基準法の解釈では、休日は原則として「暦日」を単位として与えることになっている。つまり月曜日の午前8時から火曜日の午前8時の24時間を1日と見るのではなく、この場合火曜日一日を丸々休みにしなくてはならない。 連続24時間だと、暦の上からは毎日会社に行くことになり、「休んだ気がしない」ための解釈であろう。
 主には工場などでの交替勤務に際して出された通達(昭和23.4.5基発535号)だと思うが、その気持ちがよくわかる今日この頃である。

結婚できない理由

2007-08-19 15:56:48 | Weblog
 先日BSで「愛と死の記録」(1966年)という映画を見た。幼い頃広島で被爆した青年(渡哲也)の結婚をめぐる葛藤と、恋人(吉永小百合)の一途な思いを描いた作品である。
 吉永さんは、現在原爆詩の朗読を通じて、反戦・反核の呼びかけをすることをライフワークとされているが、そのきっかけとなったのがこの映画出演だったという。
 原爆は、爆風や熱線によって投下直後に人を殺傷するだけでなく、被爆したことによって後になってから白血病などを誘発するケースもあり、本当に残忍な兵器である。そこからは結婚や就職にあたって、いわれのない差別を生むこともあっただろうし、被爆者自身も、相手のことを思いやって自制してしまうといったことも想像できる。映画もハッピーエンドではなかった。
 
 少し前に、仕事中に脳血管障害で倒れられたという案件に出合った。発症前は、かなりの残業をされていたらしい。当初は労災申請や企業側に求める対応についての話が中心であったが、しばらくたって、被災者の奥さんのお父さんがみえた。被災者は命は取り留めたようだが、今後意識を回復するかはわからない。娘もまだ若いし、離婚させたいと。
 私にはその是非について語る資格はないが、これもまた現実なのかと重苦しい気分になった。

 人は誰でも必ずいつかは死に至る。仕方のないことであるが、本人はもちろん、周りの人のためにも、それを人為的に早める必要はない。取り除ける原因は取り除くのが至当だろう。核兵器も長時間労働も。

広島で思うこと

2007-08-13 17:11:43 | Weblog
 先週の土・日曜日、日本労務学会の全国大会に参加してきた。会場は広島県立大学。折りしも8月6日の広島に原爆が投下された日の直前で、多くの人が広島を訪れていた。
 広島県立大学の前身は、広島女子専門学校で、原爆が投下されたとき、生徒は勤労動員に駆り出されており、大半の方が被爆されたという。
 主催者の挨拶の中に、広島で生活すると、過去の不幸な記憶と関連して、「生きるということ」「人が生きていく幸せとは何か」ということを日常的に考える。人間的生活、人間的労働と経済性を考えるいい機会となるということが述べられていた。

 今大会のテーマは「人的資源管理の基本問題」であった。
 従来の労務管理が前提としてきた「労働者」像が、ホワイトカラーや「多様な働き方」の増加で、大きく変化している現状がある。ヒトが企業経営に果たすべき戦略的役割はますます重要になる一方、労働組合運動の世界的退潮もあり、人間労働の衰退を展望する見解もある。そこで、基本に立ち返ってヒトと労働とは何かということを考えるということがその趣旨であった。

 私は複数のシンポジウムや分科会に参加したが、ここでも「ワークライフバランス」ということが多く論じられていた。それらは象牙の塔の中の議論ではなく、実務家にとっても、明日から使える色々な示唆を得ることができたと思う。

 勤労動員は、「お国のため」ということで無償であったという。不当に精神および肉体的な拘束を受け、強制的に働かされることは、現在では禁止されてはいるが(労基法第5条)、現実にはワーキング・プアや過労死の問題など、「人間的な労働」が危うい状況もおこっている。戦後62年たって、ヒトは幸せに働けるようになったといえるようになることを願いたい。