Entre ciel et terre

意訳して「宙ぶらりん」。最近、暇があるときに過去log整理をはじめています。令和ver. に手直し中。

月と鏡の考察

2023年09月02日 | 日々雑感
 8月31日、スーパーブルームーンということで、メディアでも満月が紹介されていました。
 gooブログでも、撮影した写真を投稿されている方がいて、楽しく拝見していました。
 「よみうり寸評」(2023.8.31.)にも、月にまつわる話と、時事ネタを絡めた記事が書かれていました。
 例えば、最近の国際情勢をからめて、月の鏡がこの世をどのようにうつしているのだろうか、という締めを書きながら、この日の「よみうり寸評」はまとめられていました。その、崇徳院の一首。

 見る人に 物のあはれをしらすれば 月やこの世の鏡なるらむ

 そういえば、なぜ「月」と「鏡」は照らしあわせて考えられるのでしょう。

 例えば、「鏡」は、洗面台や鏡台のようなもの、あるいは姿見のようなものを連想してしまい、私は最初、銅鏡のような丸みをおびた鏡の存在を思い出すのに、少し間がありました(思えば、三角縁神獣鏡とかありましたよね)。
 現代人は、どのくらいの人が鏡を見ているのでしょう? 「鏡」は、自分自身の姿を見せる、真実をうつす、という意味から「影見」からきている、という話もあります。まやかしや、偽りの姿から正しいものをうつす、という意味もあるでしょう。
 (まるでドラゴンクエストの「ラーの鏡」みたいだ!)

 そんな鏡も、いつの頃から、スマホの反転レンズを鏡の代わりにしている時代が来はじめているような気もします。鏡もデジタル化でしょうか?

 さて、銅鏡などの鏡から、「丸」という形をイメージします。「丸」は、柔らかや、優しさ。そして「玉」を連想させます。そして言葉遊び、「玉」は、「魂」を連想させます。
 また、丸から「満月」というイメージは、暗闇に光輝くイメージです。それは確かに、鏡が光を反射させ、周囲を照らし、姿を見せる様子に似ているでしょう。

 鏡を「見るもの」と考えたとき、月も「見るもの」なのでしょう。いわれてみれば、秋はお月見の季節。日本の場合は、満月に餅をついたり、跳んで跳ねるうさぎの姿を見ると聞きます。うさぎの姿を月に見出すことができたのは、やはり世の中が平和、平安だったからなのでしょうか。
 (月見=姿見、ということなのかも知れません。)

 姿見という意味では、藤原道長の和歌も、当時の藤原氏の様子を例えた様子として、興味深く有名な一首となっています。

 この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

 また、「月」を異世界ととるならば、『かぐや姫』のような物語もあります。上代から天に明るく輝く太陽や月は、鏡と連想しやすいものだったのかも知れません。
 (そういえば、三種の神器、八咫鏡は、天照大神の御神体でしたか。)

 鏡と太陽といえば、太陽の光を反射させて、黒いところに太陽光を集中させれば(焦点化)凸レンズのような効果を発揮し、火を扱うこともできたのでしょう。
 あれ、そういえば、ドラクエの鏡は「ラーの鏡」でしたね。ラーって、もしかして、古代エジプトの太陽神ラーのことですね。日本だと、天照大神? だから八咫鏡? ん?笑

 ということで、考えれば考えるほど、ネタをこじつけ、混乱してきてしまいました。笑
 ただ、鏡という正しいもの、真実、姿を見るという点から、神秘性や呪術性も備えているということなのでしょう。
 本当は、天照大神もですが、月読命も気になっていますが...
 (私は、勝手に中島みゆきさんの夜会「夜物語 元祖・今晩屋」「夜物語 本家・今晩屋」は、月読の話では? と思い込んでいます。笑)

 また今度、暇を見つけて、月と鏡の考察をしてみたいと思います。



【参考】
・中村久美「月と鏡に関する東西考」『天理大学学報』(66巻2号、pp.113-128、2015年)天理大学
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3690/?lang=0&mode=0&opkey=R169353030532545&idx=6&chk_schema=1001&cate_schema=1001

・程海蕓「「鏡」の文化的含意 : 『古事記』を中心として」『比較日本文化学研究』(12号、pp.95~111、2019年)
file:///C:/Users/titan/Downloads/HNBK_12_95.pdf


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